23 / 49
第五章
3
しおりを挟む
棺の中の死体は、腐ることなく棺の底に横たわっていた。
ベッドと間違えたのだと、笑いながら起きてきそうなほどに、それらは死人と言う風体をしていなかった。
(真ん中の兄上は七年前。一番下の兄上は四年も前に亡くなられていると言うのに……)
まるで生きているかのよう。
「あ……うわああぁぁーっ!」
恐怖と有り得ないことへの混乱に、リディアは叫び声を上げた。
巡回の兵士に見つかるという懸念は頭から吹き飛んでいた。ただ目の前の非現実が、恐ろしくてたまらなかったのだ。
「ああああぁぁっ!」
髪を掻き毟って声を振り絞った時、リディアは背後から伸びて来た二本の腕に強く抱き締められた。
「落ち着いて、リディア。大丈夫ですから落ち着いてください。私が傍に居ますから」
ルークだった。
一体いつから後ろにいたのか、何故ここにいるのか。
訊きたいことはたくさんあったが、何よりもまずこの異常な事態を知らせたかった。
体を反転させ、ルークの胸にしがみ付く。
「棺の中、あれ! 何故? ああぁぁっ!」
再び錯乱し始めたリディアを、ルークは一層強く抱き締める。
「大丈夫、大丈夫です。ちゃんと息をして。おかしいことなど何も起きていません」
「兄上が……兄上が!」
「大丈夫。恐れることはありません。貴方は一人ではないのだから」
「あああ……何故……何故?」
「まず落ち着くんです。それからでも遅くない。大丈夫ですから。落ち着いて」
繰り返し大丈夫だと囁かれ、やがてリディアは自分を取り戻した。
それでもまだルークの腕から離れる気にはならない。
「落ち着きましたか?」
安堵した静かな声と共に腕が解かれたが、今度は反対にリディアの方がルークの体にしがみ付いた。
「落ち着いたけど、でも……」
棺の方を見ないよう胸に顔を埋めるリディアに何を思ったのか、ルークはしがみ付いている彼女ごと御影石の黒い棺に近寄って行く。
「ばっ! ルーク! 何考えてるんだ!」
「怖いのなら貴方は見なくても良いです」
淡々と言い返し、ルークは先ほどリディアがしたようにその中に手を差し入れた。
「ルークッ!」
悲鳴を上げた胸の中の少女を慮ったのか、すぐに手を引っ込める。そして考え深げにルークは呟いた。
「第二王子は……生きています」
その信じがたい真実を告げたルークに、リディアは瞑っていた目を開いて顔を上げた。
「おそらく、第三王子もこの様子だと生きているのでしょう。何の為かは分かりませんが、二人の王子の死は偽りだったようですね」
「そんな馬鹿な!」
「何を戸惑っているのですかリディア? 死の報を流した人間にとっては由々しきことかもしれませんが、貴方にとって不利益になるようなことは何も起っていない。むしろ血を分けた兄が生きていたのですから、喜ばしいことではないですか?」
状況が状況なだけに手放しで歓声を上げることは出来ないが、言われてみるとそうだ。
(そうか……兄上達は死んではいなかったのだから、喜んでいいんだ。そうだ!)
この状況を受け止めた途端、リディアの脳裏に二人の王妃の姿が閃光のように走った。
(このことを教えて差し上げなければ!)
何年もの間、自分の子供は死んだと思い込まされていたのだ。
二人はさぞ喜ぶだろう。
すぐさま駆け出そうとしたリディアを、ルークの腕が引き戻した。
「何だ? 私はこれから行かなければ……」
振り返ると、友人が渋面を浮かべているのが、薄明かりの中でも見て取れた。
「どこに行き、そして誰に言うのです?」
「誰って、母上達や父上……」
そこまで言って、リディアは気がついた。
「どうやら鈍い貴方も気付いたようですね。そうです。これは誰かが仕組んだ陰謀なのですよ。何のためかは分かりませんが、今ここで無闇に騒ぎ立てれば、お二人の身が危険に曝されます。今は死んだように眠り続けることで生きていますが……仮にも一国の王子を死んだと偽装する、それはいかな立場の人間でも失脚するに足る理由になるでしょう。それが明白であるのに、王子が目覚めるのをわざわざ待つ馬鹿者がいますか?」
「だけどアイダ様と母上は違うはずだ! だって本当の母親なんだぞ!」
負けまいと叫ぶリディアを静かに見下ろし、暫らくルークは考え込んでいたが、何かを決心して頷いた。
「そうですね、王子にとって一番安全な人間はその母親であるのかも……王子達の意識が無い今、協力者は絶対に必要ですし。私達はまだ王宮に来て日が浅く、適任ではない」
「そうだろう? だから早く母上達に……」
「しかし二人の王子が生きていることを、王妃達に教えるのは得策ではありません」
「なっ? 協力者は必要だって言ったのはお前じゃないか、ルーク!」
「私の話を最後まで聞いてください。二人が生きている、とお二人に告げるのではなく、王妃殿下それぞれの実子……アイダ様には第二王子の生存だけを。マイラ様には第三王子の生存だけを告げるのです」
何故そんな意味の無いことをしなければならないのか、と首を傾げたリディアを見、ルークは落胆したかのような溜め息を吐いた。
「成長したかと思えばすぐに忘れる……物覚えが悪いのは貴方の短所です。言ったでしょう? ここは毒蛇が蠢く洞穴なのだと」
「?」
「……亡くなったはずの王子達が生きていたのです。それも二人共戴冠式を済ませている。この国には今、二人の国王が居ることになるのですよ。しかも貴方と言う次期女王までこの王宮に居る。混乱が起きるのは明白です。貴族達は自分が有利になるよう陰謀を巡らせるでしょう。王妃殿下達も同じく、己の子供を王にすべく画策するでしょう。それらを意識の無い王子殿下達が防げるとお思いですか? だから内密にするのです」
「なるほどー」
「なるほどじゃありません! 全く、本当に分かっているのか、いないのか……」
ブツブツと文句を言い始めたルークに、またかと辟易したが、ふと気付いた。
「なぁルーク、何故ここが分かったのだ?」
誰にも言わずに出て来たのに、友人は彼女が霊廟に入って程なくして現れた。
謎だ。
「……貴方は秘密にしていたのですか?」
灰色の目が驚愕したように大きく見開かれている。
「だって誰にも言わなかったのに」
「告げたも同じです」
ルークは懐から、走り書きした紙を出す。
「あっ!」
そう言えば放ったらかしだった。
「相変わらず、迂闊な所が治らない……」
呆れたように言われてしまったが、リディアはルークの瞳の中に底冷えするものが無くなっていることに気付いた。
(まるで虚飾城に居た頃に戻ったかのようだ。先程のことを、ルークは許してくれたのか?)
安堵したが、リディアは思い直す。
(いや、いくらルークに許してもらっても、私はきちんとけじめを付けるべきだ! ちゃんとルークに謝罪しよう)
訝しげに自分を見下ろしている灰色の瞳をリディアは真っ直ぐに見返す。
「ルーク! さっきはすまなかった! 酷いことを言ってしまったが、あれは本心ではないんだ。ただ私は傍に居て欲しくて……」
「謝らなくとも結構です」
リディアの心を込めた謝罪の言葉は、淡々とした冷たいルークの声によって遮られた。
ぽかんとしている姫殿下を細く眇めた目で見やり、敵国の王子は突き放すように言った。
「私は貴方に謝罪の言葉など求めてはいません。私が望むことは唯一つ。この国の舵取りを正しくして頂くことだけです」
「そんな……」
「どんな言葉も、貴方と私の立場を変える力など無い。そんな無力な物は必要ないのです」
何も言えなくなり、灰色の瞳から逃げてルークの胸に顔を埋めると、石の床に伸びた二人の影はさながら恋人のように一つに溶け合った。
しかし霊廟に満ちる空気は決して甘くはなく、酷く重苦しい。
(何故だ? 私達はこんなに近くに居るのに……私はルークの腕の中に居るというのに)
まるで対岸でお互いの姿を臨んでいるかのように、二人の心は遠く隔たっていた。
ベッドと間違えたのだと、笑いながら起きてきそうなほどに、それらは死人と言う風体をしていなかった。
(真ん中の兄上は七年前。一番下の兄上は四年も前に亡くなられていると言うのに……)
まるで生きているかのよう。
「あ……うわああぁぁーっ!」
恐怖と有り得ないことへの混乱に、リディアは叫び声を上げた。
巡回の兵士に見つかるという懸念は頭から吹き飛んでいた。ただ目の前の非現実が、恐ろしくてたまらなかったのだ。
「ああああぁぁっ!」
髪を掻き毟って声を振り絞った時、リディアは背後から伸びて来た二本の腕に強く抱き締められた。
「落ち着いて、リディア。大丈夫ですから落ち着いてください。私が傍に居ますから」
ルークだった。
一体いつから後ろにいたのか、何故ここにいるのか。
訊きたいことはたくさんあったが、何よりもまずこの異常な事態を知らせたかった。
体を反転させ、ルークの胸にしがみ付く。
「棺の中、あれ! 何故? ああぁぁっ!」
再び錯乱し始めたリディアを、ルークは一層強く抱き締める。
「大丈夫、大丈夫です。ちゃんと息をして。おかしいことなど何も起きていません」
「兄上が……兄上が!」
「大丈夫。恐れることはありません。貴方は一人ではないのだから」
「あああ……何故……何故?」
「まず落ち着くんです。それからでも遅くない。大丈夫ですから。落ち着いて」
繰り返し大丈夫だと囁かれ、やがてリディアは自分を取り戻した。
それでもまだルークの腕から離れる気にはならない。
「落ち着きましたか?」
安堵した静かな声と共に腕が解かれたが、今度は反対にリディアの方がルークの体にしがみ付いた。
「落ち着いたけど、でも……」
棺の方を見ないよう胸に顔を埋めるリディアに何を思ったのか、ルークはしがみ付いている彼女ごと御影石の黒い棺に近寄って行く。
「ばっ! ルーク! 何考えてるんだ!」
「怖いのなら貴方は見なくても良いです」
淡々と言い返し、ルークは先ほどリディアがしたようにその中に手を差し入れた。
「ルークッ!」
悲鳴を上げた胸の中の少女を慮ったのか、すぐに手を引っ込める。そして考え深げにルークは呟いた。
「第二王子は……生きています」
その信じがたい真実を告げたルークに、リディアは瞑っていた目を開いて顔を上げた。
「おそらく、第三王子もこの様子だと生きているのでしょう。何の為かは分かりませんが、二人の王子の死は偽りだったようですね」
「そんな馬鹿な!」
「何を戸惑っているのですかリディア? 死の報を流した人間にとっては由々しきことかもしれませんが、貴方にとって不利益になるようなことは何も起っていない。むしろ血を分けた兄が生きていたのですから、喜ばしいことではないですか?」
状況が状況なだけに手放しで歓声を上げることは出来ないが、言われてみるとそうだ。
(そうか……兄上達は死んではいなかったのだから、喜んでいいんだ。そうだ!)
この状況を受け止めた途端、リディアの脳裏に二人の王妃の姿が閃光のように走った。
(このことを教えて差し上げなければ!)
何年もの間、自分の子供は死んだと思い込まされていたのだ。
二人はさぞ喜ぶだろう。
すぐさま駆け出そうとしたリディアを、ルークの腕が引き戻した。
「何だ? 私はこれから行かなければ……」
振り返ると、友人が渋面を浮かべているのが、薄明かりの中でも見て取れた。
「どこに行き、そして誰に言うのです?」
「誰って、母上達や父上……」
そこまで言って、リディアは気がついた。
「どうやら鈍い貴方も気付いたようですね。そうです。これは誰かが仕組んだ陰謀なのですよ。何のためかは分かりませんが、今ここで無闇に騒ぎ立てれば、お二人の身が危険に曝されます。今は死んだように眠り続けることで生きていますが……仮にも一国の王子を死んだと偽装する、それはいかな立場の人間でも失脚するに足る理由になるでしょう。それが明白であるのに、王子が目覚めるのをわざわざ待つ馬鹿者がいますか?」
「だけどアイダ様と母上は違うはずだ! だって本当の母親なんだぞ!」
負けまいと叫ぶリディアを静かに見下ろし、暫らくルークは考え込んでいたが、何かを決心して頷いた。
「そうですね、王子にとって一番安全な人間はその母親であるのかも……王子達の意識が無い今、協力者は絶対に必要ですし。私達はまだ王宮に来て日が浅く、適任ではない」
「そうだろう? だから早く母上達に……」
「しかし二人の王子が生きていることを、王妃達に教えるのは得策ではありません」
「なっ? 協力者は必要だって言ったのはお前じゃないか、ルーク!」
「私の話を最後まで聞いてください。二人が生きている、とお二人に告げるのではなく、王妃殿下それぞれの実子……アイダ様には第二王子の生存だけを。マイラ様には第三王子の生存だけを告げるのです」
何故そんな意味の無いことをしなければならないのか、と首を傾げたリディアを見、ルークは落胆したかのような溜め息を吐いた。
「成長したかと思えばすぐに忘れる……物覚えが悪いのは貴方の短所です。言ったでしょう? ここは毒蛇が蠢く洞穴なのだと」
「?」
「……亡くなったはずの王子達が生きていたのです。それも二人共戴冠式を済ませている。この国には今、二人の国王が居ることになるのですよ。しかも貴方と言う次期女王までこの王宮に居る。混乱が起きるのは明白です。貴族達は自分が有利になるよう陰謀を巡らせるでしょう。王妃殿下達も同じく、己の子供を王にすべく画策するでしょう。それらを意識の無い王子殿下達が防げるとお思いですか? だから内密にするのです」
「なるほどー」
「なるほどじゃありません! 全く、本当に分かっているのか、いないのか……」
ブツブツと文句を言い始めたルークに、またかと辟易したが、ふと気付いた。
「なぁルーク、何故ここが分かったのだ?」
誰にも言わずに出て来たのに、友人は彼女が霊廟に入って程なくして現れた。
謎だ。
「……貴方は秘密にしていたのですか?」
灰色の目が驚愕したように大きく見開かれている。
「だって誰にも言わなかったのに」
「告げたも同じです」
ルークは懐から、走り書きした紙を出す。
「あっ!」
そう言えば放ったらかしだった。
「相変わらず、迂闊な所が治らない……」
呆れたように言われてしまったが、リディアはルークの瞳の中に底冷えするものが無くなっていることに気付いた。
(まるで虚飾城に居た頃に戻ったかのようだ。先程のことを、ルークは許してくれたのか?)
安堵したが、リディアは思い直す。
(いや、いくらルークに許してもらっても、私はきちんとけじめを付けるべきだ! ちゃんとルークに謝罪しよう)
訝しげに自分を見下ろしている灰色の瞳をリディアは真っ直ぐに見返す。
「ルーク! さっきはすまなかった! 酷いことを言ってしまったが、あれは本心ではないんだ。ただ私は傍に居て欲しくて……」
「謝らなくとも結構です」
リディアの心を込めた謝罪の言葉は、淡々とした冷たいルークの声によって遮られた。
ぽかんとしている姫殿下を細く眇めた目で見やり、敵国の王子は突き放すように言った。
「私は貴方に謝罪の言葉など求めてはいません。私が望むことは唯一つ。この国の舵取りを正しくして頂くことだけです」
「そんな……」
「どんな言葉も、貴方と私の立場を変える力など無い。そんな無力な物は必要ないのです」
何も言えなくなり、灰色の瞳から逃げてルークの胸に顔を埋めると、石の床に伸びた二人の影はさながら恋人のように一つに溶け合った。
しかし霊廟に満ちる空気は決して甘くはなく、酷く重苦しい。
(何故だ? 私達はこんなに近くに居るのに……私はルークの腕の中に居るというのに)
まるで対岸でお互いの姿を臨んでいるかのように、二人の心は遠く隔たっていた。
0
お気に入りに追加
10
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる