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第38話 1990年5月のディナモ・ザグレブ⑥
しおりを挟む翌朝。ミロシェビッチはがんがん響く頭を抱えて呻きながらベッドから身を起こす。
飲み過ぎたと思ったが、がんがんと鳴り響いているのは酒のせいだけではない。誰かが玄関のドアをノックしているのだ。
「起きてるんでしょ! あたしよ。フランチェスカよ!」
昨夜のことが思いだされる。またあのシスターだ。
ラキティッチ並みにしつこいヤツだ……!
「うるさい! 朝っぱらからガンガン叩くな!」とドア越しに怒鳴る。
「起きてたんなら返事くらいしなさいよ!」
「帰れ! 説教ならお断りだ!」
「聞いて! あたしは別に宗教勧誘に来たわけじゃないわ。昨日、バーテンダーから聞いたけど、あんた名プレイヤーだったそうね」
「それがどうした?」
「その才能を活かさないなんて、もったいないわよ。いいからあたしとドゥブロヴニクに来て!」
ミロシェビッチが松葉杖を取って立ち上がる。
「くどい! 何度来てもお断りだ! バーテンから聞いたろ? 俺はディナモ・ザグレブのフォワードだったんだ。それが今ではこのザマだ!」
ドアの向こうにいる見習いシスターに声を荒げる。
「“怒りは愚者の胸に宿るもの。昔のほうが良かったのはなぜだろうと言うな。それは賢い問いではない”よ!(コヘレトの言葉第7章10節)」
ドアの郵便受け口から一枚の紙が差し出された。
「聞いて。あたしは正午の飛行機でドゥブロヴニクに戻るわ。これはあんたの航空券よ。空港で待ってるから、絶対に来てよね」
「…………」
「あんたに、人生をやり直したいって気持ちがあるんなら立ち向かうべきだわ。ケガがなによ。イビチャ・オシムだって脳梗塞から立ち直ったわ」
ボスニア出身の、かつて日本で監督を務めた元サッカー選手の名前を聞きながら、ミロシェビッチは屈んで航空券を拾う。
「あたしもう行くわ。あんた聖書は持ってる? 持ってたら箴言第24章16節を読んでみて。じゃもう行くわね。あたし待ってるから」
少ししてから階段を下りる音。そのあとは静寂だ。
航空券に目を落とす。たしかに搭乗時刻は正午だ。まだ時間はある。が、ミロシェビッチはぐしゃりと握りつぶすとゴミ箱へと放った。
次にキッチンに入って冷蔵庫を開けるが、なにもない。冷凍庫から冷凍食品を取り出して電子レンジへと。
出来上がるまでソファに腰かけてテレビを見ることにした。天気予報は相変わらず暑い日々が続くことでしょうとお決まりの文句。
チャンネルを変える。料理番組、通販番組、海外ドラマの再放送……。
ころころと変えていると、電子レンジから電子音が。
キッチンに戻って解凍して熱くなったラザニアの容器をつまんで、引き出しからスプーンを取ってソファへと戻る。
ふぅふぅと冷ましてからラザニアを口に運ぶ。半分近く食べたところでテレビから賛美歌が流れてきた。
この時間になると流れる伝道放送だ。教会の礼拝堂をバックにして神父が神の教えを説く。
もちろんすぐにチャンネルを変えた。だが、見習いシスターの言葉が思いだされる。
――箴言第24章16節を読んでみて。
舌打ちをひとつして、すっくと立ち上がって本棚へと向かう。乱雑に並んだ棚から古ぼけた聖書を引っぱり出す。ページをぺらぺらとめくって、目当ての箇所を探し出す。そこにはこう書かれていた。
『“正しい人は七度倒れてもまた起き上がり、悪しきものは災いでつまずく”』
ぱたりと聖書を閉じる。
「俺に、どうしろと言うんだ……」
†††
ザグレブ国際空港。
時刻は正午と迫っていた。見習いシスター、フランチェスカはドゥブロヴニク行きの搭乗カウンター近くのベンチに腰を下ろしていた。
まだ待ち人は来ない。時計の針がかちかちと動くたびにだんだんと苛立ちがつのる。しまいには貧乏ゆすりをし始めた。
もう! 早くしないと飛行機が出ちゃうのに!
「お待たせいたしました。ドゥブロヴニク行きCTN52便の搭乗を開始いたします」
キャビンアテンダントのアナウンスが流れ、カウンターのゲートが開いた。搭乗客がぞろぞろと列を作って航空券とパスポートを順に見せる。
「ああもう!」
列の最後尾に並ぶ。廊下のほうを見るが、まだ来ないようだ。その間もカウンターではキャビンアテンダントがさばいていく。
ついにフランチェスカの番だ。
「お客様、航空券とパスポートを」
「まって! 連れが来るはずなの! もう少し待ってもらえない?」
「申し訳ございませんが、時間厳守ですので……」
「もぅ!」
ふたたび廊下を見るが、松葉杖をつく男の姿は見当たらない。
見損なったわよ!
そのままフランチェスカは機内へと乗り込んだ。
†††
『――ご搭乗の皆さま、当機はまもなく出発いたします。シートベルトをお閉めください』
アナウンスが流れるなか、フランチェスカは窓から外を眺める。
その間もアナウンスやキャビンアテンダントが救命胴衣の着用法のレクチャーを。
はぁっと溜息をついてぼすっとシートに頭を預ける。
「もう知らないわよ。あんないくじなし……!」
「悪かったな。いくじなしで」
いきなり隣の座席にどかりと腰を下ろすものが。
「遅くなった。ボディチェックで松葉杖が引っかかってな」
ふんとミロシェビッチが鼻を鳴らす。それにフランチェスカが、ははと笑う。
「来ないかと思ったわよ」
「本当に行く価値があるんだろうな? ドゥブロヴニクに?」
「もちろんよ。やっとピッチに立ってくれたわね」
エンジン音が響き、飛行機はドゥブロヴニクへ向かうべく上空へと上った。
†††
「おい、まだなのか?」
「もう少しだから。もとサッカー選手なのにだらしないわね」
ザグレブからドゥブロヴニクへ一時間。そこからバスで30分ほどすれば旧市街に着く。
ミロシェビッチは城壁へと続く階段をふぅふぅいいながら登る。
「こちとら年寄りのうえに、松葉杖なんだ。もう少し年寄りに対するいたわりってやつをだな……」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながらもなんとか城壁にたどり着く。そこから少し歩くと階段が見えてきた。
「おい、まさかまた階段を下りるとかいうんじゃないだろうな」
「もちろんそのつもりよ。来たくないんだったら帰れば?」と見習いシスターがすたすたと先を行く。
ここまできて引き返すわけにはいかない。ミロシェビッチは舌打ちすると階段を慎重に下りていく。
やがて下に着くと隣にフットサルコートが見えた。
「こりゃフットサルか?」
「本命はこっちよ」とクラブハウスを指さす。
中に入って廊下を歩くと、やがてドアが見えてきた。
「これが、あんたに見せたいものよ」
そう言ってドアを開く。眩い太陽の光が目に入ったので手で庇をつくる。
目に飛び込んできたのはサッカー場より小さなフィールドでプレイヤーたちが動き回り、ボールを追いかける姿だ。
だが、ミロシェビッチは自分が見ているものに思わず目を丸くした。
それもそのはず、フィールド上のプレイヤーたちはいずれも片足が欠損しており、代わりに義足をはめ、杖をつきながら攻守攻防を繰り広げているのだ。
「これは……?」
「ミロシェビッチさんですね? よく来てくれました。アデリナです」
フランチェスカと似たような装いのシスターが挨拶を。後ろから叔父であるイヴァンがやってきて握手を交わす。
「ようこそ、我がクラブハウスへ! 歓迎しますよ」
「これはいったい……? ブラインドサッカーなら知ってるが……」
「アンプティサッカーです。ブラインドサッカーと比べると知名度はまだまだですが」
アンプティサッカー。片手片足を欠損した身体障害者が義足などの補装具で行う競技である。
「みんな! 練習をやめて休憩だ!」
イヴァンが手を叩いて中断させると、プレイヤーたちが杖をつきながらオーナーである彼の元へ集まる。
平均年齢は30歳といったところだろうか。20代の青年もいる。
「紹介しよう。かつてディナモ・ザグレブでフォワードを務めていたミロシェビッチだ」
おおっと歓声。その中から握手を求めてきた者がひとり。
「スドラビッチです。キーパーをしてます」と右腕を差し出す。左腕はなかった。
「あなたの試合をテレビで見てました!」
「ヤン・マチェクです。ベオグラードから来ました」
「ベオグラード? セルビアからきたのか?」
「はい!」
にかりと笑う。
「さっきも言いましたようにアンプティサッカーはまだ知名度が低いのでここしか練習場所がないのです。ですからみんなここに集まってくるんですよ」とイヴァンが説明する。
「ここにいるみんなは事故や病気で手足を失ったのもいれば、戦争で失ったひともいるんです」
「戦争というと、ユーゴスラビア紛争か?」
アデリナがこくりとうなずく。後ろからフランチェスカが彼女の両肩に手を置く。
「そこにいるミッドフィルダーの彼、もとはサッカーやってたけど、徴兵されて片足を失ったそうよ。それから隣の彼はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に地雷を踏んだの。ちなみにあんたと同じフォワードよ」
そこへイヴァンが歩み寄ってきた。
「たいへん勝手なお願いとは承知していますが、彼らにサッカーを指導していただけませんでしょうか? ここには教えてくれる人がなかなかいませんので……」
「お願いします!」と選手たちからも懇願の声。
ミロシェビッチは俯く。折れ曲がった自分の足が見えた。
「……いいのか? こんな俺で」
「ぜひあなたにお願いしたいくらいですよ」とイヴァンが笑う。
そこへいきなりサッカーボールが飛んできた。ミロシェビッチが慌てて受け止める。懐かしい感触だ。
「人間、やり直そうと思えば立ち上がれるものよ。ピッチに立ったあんたならゴールを目指せるわ」
ボールを蹴ったフランチェスカがウインク。それに、と付け加える。
「サッカーはひとりでするもんじゃないわ」
ミロシェビッチは目尻が熱くなるのを感じたので目を擦った。
指先にじわりと滲んだ涙が。その時、不思議と足の痛みはいつの間にか消え失せていた。
†††
ドゥブロヴニク空港――
ロビーにてふたりの見習いシスターが向かい合って出発前の最後の挨拶を交わす。
「あっという間だったけど、フランチェスカに会えて良かったわ」
「そろそろマザーと約束してた休暇も終わりだしね。でも良いところだからまた来るかもよ?」
ふふっとアデリナが笑う。
「大丈夫かな? ミロシェビッチさん」
「心配ないって。仮にももとフォワードよ? バシッと決めてくれるわよ」
「ん、そうね」
そろそろ税関に行かないと、とフランチェスカが手を振る。
「またね、アデリナ!」
「うん! またね、フランチェスカ!」
同期の彼女が見えなくなるまで手を振り続ける。
ありがとう……フランチェスカ。
数年後。
ロシア南部――ロストフ。
『マチェク選手、果敢に攻める! 義足でもその俊足は健在だ!』
アンプティサッカーワールドカップのフィールド上で松葉杖をつきながらボールをめぐっての攻防を実況が解説する。
マチェクの前にディフェンダーが立ちはだかる。考える間もなくマチェクはボールを横へ――
『マチェクからホドロヴィッチへ! 華麗なるパスです!』
「そうだ! そのままゴールへ突き進め!」
ベンチでは同じく松葉杖で体を支える監督、ミロシェビッチが声を張り上げる。
監督の声に押されてホドロヴィッチはぐんぐんとゴールへ。そして杖を支点にして義足でシュートを決めた!
『ゴールだ! 決めたのは若年25歳のホドロヴィッチだ!』
観客席だけでなくベンチからも歓声が。割れんばかりの大歓声がスタジアムを埋めつくした。
「――惜しくも僅差で敗れましたが、今回の大会はいかがでしたでしょうか?」
記者がクロアチア代表の監督、ミロシェビッチにマイクを向ける。
「確かに試合には負けました。ですが、私は今まで付いてきてくれた彼らに拍手を贈りたいと思います」
「あなたはかつて、ディナモ・ザグレブのフォワードでしたが、なぜアンプティサッカーの監督に?」
「恥ずかしい話ですが、監督になる前の私は荒れていました……足のケガでね。ところが、ある日、背中を押してくれたひとが現れたのです」
「そのひととは?」
「信じられないかもしれませんが、彼女は見習いシスターでした。自暴自棄だった私にこう声をかけてくれたのです。『人間はやり直そうと思えば、立ち上がれる』と」
ミロシェビッチは目を閉じ、励ましてくれたお転婆な見習いシスターに思いを馳せた。
アンプティサッカー。
主に上肢、下肢切断の身体障害者が行う競技で、世界では40ヶ国以上に普及されており、現在はパラリンピックの正式種目へと採用しようと活動を進めている。
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