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第一章 黒猫の恋
第23話 黒猫はひた走る
しおりを挟む資料室は、俺の所属する第三営業部や医務室のあるフロアにある為、俺は急いで今いた第一営業部のひとつ下のフロアに向かう。
先程駆け上がってきたばかりの非常階段を今度は一気に駆け下りた。
寝不足と仕事と夜の生活で無茶した三十路過ぎの身体には、この上下運動は正直堪える。流石に足がガクガクするが、そんな事は言っていられない。
非常階段からフロアに入り、突き当たりの3つ並んだ資料室のうち1番奥にある人事関連資料室の扉を乱暴に開け駆け込むと、直ぐに内側から鍵をかけた。
ここには全国の支社と海外拠点合わせた、全社員の個人情報が紙ベースでファイリングされて保管されている。
もちろんコンピュータの社内ネットワークのデータベースにも登録してはあるが、それを閲覧するには事前に稟議書が必要となる為、今すぐの閲覧は出来ない。
稟議書回して後日の閲覧許可をとっても意味がない、今日今すぐこの場で見たいのだ。
俺は広い資料室の中の膨大な資料の棚から本社の棚を見つけ出し、その中から更に営業部を探した。
本社の棚はすぐに見つかったが、その本社の棚も幾つか…沢山あり、またその中から営業部を探すのは骨が折れた。
えっと…営業部…第一営業部はどこだ?
気持ちばかりが急いて、焦りで手が震える。急げば急ぐ程、頭が働かなくなりもどかしさで、確認の精度が落ちる。
探すこと15分。漸く第一営業部のファイルを見つけ、取り出すと、彼女の名前を探してペラペラと捲る。
あまりに焦り過ぎて"ア行"のファイルだと気付いたのは、暫く捲って確認してからだった。
気を取り直して今度はきちんと確認してから"ナ行"のファイルを取り出し、ペラペラとページを捲り彼女のページを見つけ出した。
「あった……意外と近いな…」
彼女の自宅は電車で30分圏内、タクシーなら20分位の場所にあった。
彼女の居場所が見つからなければ、最悪、自宅に行くつもりで住所の確認をしたかったのだが、これなら行ける距離だ。
当たり前だが、この資料室のデータは社外秘でどんな形でも持ち出しが出来ない。
本来であれば、この部屋にはスマホや携帯、USBなど記憶媒体の持ち込みは出来ないのだが、そもそも今回の入室方法自体がイレギュラーなので、規定のルールはこの際無視する事にし、俺は彼女の住所と携帯番号を携帯のカメラで撮影した。もちろん監視カメラの死角で。
バレたら懲戒だが、そんな事知ったことか。
目的を達成した俺は直ぐに資料室を後にし、そのまま第三営業部へ戻り、デスクトップを立ち上げる。
そしてグループウェアから彼女を検索し、社用携帯の番号を確認する。それを自分の社用携帯に登録し、そのままGPSで位置確認をすると、奇しくも、彼女と出会った公園の近くにいることがわかった。
残務は残っているが、そんなものに構っている場合ではなかった。
俺は手早く荷物をまとめ、走ってオフィスを出た。
廊下ですれ違う人は皆、吃驚してこちらを見たがそんな事気にならなかった。
エレベーターを待つ時間すらももどかしく、下降ボタンをバンバン連打する。
かっこ悪くたって、みっともなくたって構わなかった。
そんな事よりも、早く彼女に会って伝えたい。抱き締めたい。
こんなに必死になったことなど、生まれて初めてだった。
時刻は21時。三十路を過ぎたいい大人がオフィス街を本気で疾走した。
公園周辺の飲食店はごまんとあったし、目星も手掛かりすら何もない俺は、GPSを頼りにデートで行きそうな店を手当り次第に当たった。
しかし、20件程まわっても結局見つからず、いつの間にか時刻は23時を少し過ぎていた。
後は、先程確認した自宅に訪問するしかないか。
打つ手がなくなり途方にくれた俺の足は、自然と思い出のあの公園に向かっていた。
◇◇◇
公園に着くと彼女とのあの日を思い出し、懐かしさが込み上げてきた。
彼女と出会ったのは夕方で時期的にはもう少し暖かかったが、今の季節は冬、しかも深夜でとても寒い。季節や体感が違うだけで、公園の雰囲気も全然違って見えるのがなんだか不思議だ。
いつか手当をして貰ったベンチは正面入って右奥だったな。
俺は公園をぐるりと見渡し、せめて思い出のベンチに座り彼女を想いたい、とそう思った俺は彼女との出会いを思い返しながら、ゆっくりと目的のベンチの方向に歩を進めた。
すると、そこには缶チューハイ片手にぼうっとしている先客がいた。街灯も少なく、暗くて良く見えないが小柄な女性のようだ。
ベンチの上には既に開けて空になった缶が十数本と、まだ未開栓の缶チューハイが数本とツマミのはいったコンビニの袋が無造作に置かれている。
こんな時間に、公園で女性が一人酒とは些か物騒だな、と思い近づきつつ、様子を見ていると、突然その女性がくるりとこちらに顔を向けた。
相当飲んだのだろう、遠目に見ても顔は上気し真っ赤だった。
そして、彼女は俺と目が合うと、手持ちの缶チューハイをぐびぐびと一気に煽ってふにゃりと破顔した。
まるで初めて会った時のように、ドキリと俺の心臓が跳ね上がった。
俺はその女性を凝視したまま、目が離せなくなる。
頬が紅潮し、動悸が収まらない。
ベンチで一人酒をしていた女性は、俺の会いたくてたまらなかった彼女、仲原 名月、その人だった。
声を掛けるべきなのだろうが、いざとなると声が出ず、俺はただただ立ち尽くすしか出来なかった。
「可愛いにゃんこだねぇー。どこから来たのかなぁ?こっちにおいでよぉー。」
相当酔っているのか、何故か彼女には今俺が猫に見えているようだ。
内線で話している普段の口調からは考えられない程、ふにゃふにゃと舌足らずな甘えた口調で手招きする可愛らしい彼女の姿に、一瞬で俺の心は鷲掴みされ理性が飛びそうになる。
真っ赤になって立ち尽くしている俺を、彼女は膝をぽんぽんと叩きながら可愛らしい笑顔で呼ぶ。
「寒いでしょー?温めてあげるから、ほら、ここにおいでぇ。」
その言葉に弾かれたように、俺は彼女の元へ駆け出した。そこまま地面に膝を付き彼女の腰に腕を回して正面から抱きしめると、ふわりと彼女の香りがした。その甘い香りに涙が出そうになる。
「猫さん、君はどこから来たのかなぁ?君も私と一緒で淋しいのかなぁ?」
そう言いながら、彼女は膝の上にある俺の頭を撫でている。
ゆっくりと頭を撫でるその手は優しく、そしてとても気持ちがいい……
俺は目を瞑り彼女に身を委ねた。
人に頭を撫でられたのは何十年ぶりだろうか。俺の記憶する限りだと、凄く幼い頃、母に撫でられたのが最後だったと思う。思い出したら、淋しさと切なさで心がきゅぅっとなった。
「うん、淋しいよ。凄く淋しい……」
俺はそう言い、滲む涙を隠すようにやわらかな彼女の胸に顔を埋めた。
夢にまで見た彼女の温もりと、鼻腔をくすぐる甘い匂いに俺は陶酔しクラクラした。
「ふふふ、くすぐったいよ。君は温かくてふわふわしてて、抱いてると気持ちがいいねぇ。」
彼女はそう言うと、俺の頭をギュッと抱き締めた。その彼女の細い腕は震えていて、時折、温かい雫が俺の頬にポタポタと落ちてきた。
彼女の顔を見上げると、綺麗な瞳から大粒の涙が零れている。
泣きじゃくる彼女の様子から、今日別れを告げられたんだな、ということが理解できた。
どれだけ泣き腫らしたのか、目と鼻が真っ赤でアイメイクもぐちゃぐちゃだったが、俺にはそれすらも可愛らしく、美しく、そして愛おしかった。
彼女の目からは後から後から、涙が溢れる。その姿が痛々しくて俺は彼女の頬を撫でた。
「ねぇ、淋しいよ…猫でもいいから、私を慰めてよ。」
涙を流し震えながら、彼女は小さく呟いた。俺はその涙を唇で掬い上げ、唇にキスをした。
瀬田に殴られた傷が涙で染みたが、それよりも彼女の心の傷の方が格段に痛いに決まっている。
涙で濡れた彼女の瞳を見つめ、もう一度、彼女の柔らかな唇にちゅっとキスを落とした。
「うん。わかった。君が望むのなら、俺が君を慰めるよ。」
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