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第一章 黒猫の恋

第14話 黒猫は怒る

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 仲原さんの昇進を含む人事発表があってから早数ヶ月。
 バタバタと慌ただしく日々は過ぎていった。

 俺も移動してサブマネージャーからマネージャーとなり3年目。漸く慣れたとはいえ、やはり年度初めは忙しく営業部全体MTGには出られたり出られなかったり…

 昇進して彼女も会議に参加できる立場になったと言うのに、肝心の俺がなかなか参加出来ていないので、相変わらず全く彼女に会えていない。

 辛うじて、遅れて参加した会議で一度だけ遠目に彼女を見ることができたが、4年振りにみた彼女は、俺の想像をはるかに超える程、自信に満ちて綺麗になっていた。
 思わず見蕩れてしまい、その後の会議に集中出来なかったため、大変面倒な仕事を押し付けられて今に至る訳だが、それでも愛しい彼女に逢えただけ僥倖だ。こればかりは仕方がないと割り切ったのはいいが、ここでまたすれ違いの日々か、と苦笑し嘆息する。

 まぁいい、チャンスはいくらでもある訳だから。

 そう思っていたのだが……
 気が付くとバタバタし過ぎてあっという間に夏が終わっていた。

 いくらなんでも忙し過ぎだろ…

 思わず苦笑いが零れる。
 ここまでで彼女を見たのはその会議一度きり。
 正直、まだ目線すら合わせられていない。


 それよりも、最近とても気になることがある。

 彼女の恋人、第二営業部 3課 チーフ 鈴木 誠治すずき せいじ(以下鈴木と呼ぶ)のの事だ。

 鈴木は彼女と同じ大学学部卒だが、一浪しているので年齢はひとつ上。
 明るく溌剌とした奴で、コミュニケーション能力は良好。営業成績も中の上で悪くない。
 見た目は…清潔感のある爽やかイケメンといったところか。まあまあな男前だ。

 ただ、ひとつ難点を挙げるとすると、とにかく交友関係が派手な事だ。

 彼女と鈴木は、入社後の新卒研修で意気投合して付き合い初めて今年で3年になる。入社時から社内ではちょっとした有名人な彼女なので、付き合い始めは相当な噂になったがここの所、ふたりの話はあまり聞かれなくなった。
 替わりに昨年あたりから、鈴木の派手な女遊びの噂がチラホラと聞こえてきている。
 なんでも第二営業部一のプレイボーイ笹尾マネージャーとつるんで合コン三昧とか…… 特に最近は派手に遊んでいるという噂が流れていた。

 もしこれが本当なら酷い話だと思うし、彼女が居るのに、と許せない気持ちになる。
 そして、当の彼女は恋人のその噂を知らないのだ。

 今やトップ営業となった彼女は、仕事が忙しくてそういった噂話には全く無頓着なのだろう。
 もしくは、周りが彼女に知らせていないのか……

 いずれにしても、それを良いことに好き勝手やっている鈴木に対して、俺は怒っている。というより、最早怒りを通り越して軽い殺意を覚えている。

 大事にしないなら手放してくれ。
 そうしたら、俺が彼女を迎えにいって幸せにしてやるのに。

 彼女の置かれている状況を思うと、胸が焼け付くように痛んだ。
 こんな状況だが、相変わらず俺は彼女のことを想っていた。
 いや、想っていると言うよりも寧ろ執着している、と言っても過言ではないかもしれない。
 それくらい、俺の頭の中は彼女でいっぱいなのだ。

 そしてそんな彼女への想いと、彼女の恋人という幸運を手に入れながらもその幸運を蔑ろにしている鈴木への怒りが、綯い交ぜになって俺の心を苛んだ。

 こんなに他人の事で心が乱されるなんて本当に俺はどうにかなってしまったのか…

 こんなの全く俺らしくなくて、正直自分でも戸惑っている。

 このやり場のない怒りとモヤモヤした気持ちの原因である鈴木の噂を確かめるべく、今回も部下の松本にそれとなく探りを入れてみることにした。

 部下の松本まつもと 瑛太えいたは俺の直属の部下で、彼女と鈴木とは同期社員だ。
 そして、ふたりとは入社後の研修グループも一緒だった。
 2年前、たまたま喫煙ルームで彼女と鈴木の話を聞いてしまった後、コイツにその話の真偽の裏取りをしたことがあり、その時からちょいちょい彼女と鈴木の話を聞かせて貰っている。
 なので、今回も飲みがてら話を聞こうと思っていたので、そろそろかと時計をみると、時間は丁度定時を指していた。
 チラリと松本の方へ視線をやると、松本も丁度帰り支度の途中でデスク整理をしている所だったので、俺もデスクの整理をして荷物を持ちそのまま松本の所へ向かった。


「松本、ちょっといいか?今日この後なんだけど…」


 俺に全く気が付く様子もなくせっせと書類をキャスターに仕舞っていた松本の肩を叩いて声をかけると、松本は吃驚して飛び跳ねた。


「ひゃあっ!!!!」


 恐る恐る振り向き俺の顔を確認すると、今度はサァッと顔面蒼白になり固まった。


「ね、猫実マネージャー……な、なんですか…?俺、もしかして、またポカやらかしましたか?!」


 目の前であわあわと慌てる松本は、俺が声を掛けた事で何かやらかしたと思ったようだ。
 そんな松本は普段は明るい性格と人懐っこい笑顔で客受けは最高にいいのだが、如何せん注意力散漫で誤字脱字や書類の記載ミスなど、所謂凡ミスが多いのが玉に瑕なのだ。
 奴から上がってくる書類の件で毎日のように俺に注意されるせいなのか、今日の俺の声掛けもまたミスをしたのかと思ったようだ。
 しゅんと項垂れている姿はまるで、ふるふると震える子犬みたいだ。その姿に俺は以前の彼女を重ね、思わず苦笑いが零れそうになり、慌てて咳払いで誤魔化した。


「んんっ!いや…今日はまだポカしてないから安心して。それよりこの後なんだけど、奢るから一杯付き合ってくれないか?」

「えっ…俺っすか?いいですけど…奢るって……何かありそうで怖いな…も、も、もしかして…俺……異動かクビですか?」


 俺からの突然の飲みの誘いを悪い方へ捉えたのか、松本はくすん、と上目遣いで慰めてと言わんばかりに見てくる。

 うわ、なんだこれ、くそめんどくさい。
 これが所謂ワンコ男子と言うやつか。

 そういえば、女子社員が可愛い可愛いと持て囃していたなぁ、と思い出した。
 だが、どんなに小さくてもあざと可愛く振舞ったところで、松本は所詮男だ。俺は男を慰める趣味はないので、冷めた目で松本を見下ろした。


「猫実まねーじゃぁー……俺、頑張りますから、ここに置いてくださいぃぃ……」

「いやいや、大丈夫だから。もう帰れるだろ?とりあえず行くぞ。」


 きゅるんと可愛こぶってじめじめメソメソする松本に半ば呆れながらも鞄を持たせると、俺は松本をオフィスから連れ出した。



 ◇◇◇



「くあー!!!うめぇ!!!やっぱり仕事上がりの1杯は格別ですねぇ!あ、お代わりいいっすか?」

「あ、あぁ……好きに飲んでくれて構わないけど……」

「やった!アザース!ゴチになります!あ、すいませーん、注文お願いしまーす!」


 居酒屋に付き、とりあえずの生ビールが運ばれてくると、それを一気に煽ると松本は言った。

 先程までのじめじめメソメソはいったいなんだったのか?という程の変貌っぷりに些か引きながらも、俺もジョッキに口を付ける。


「で、あー……鈴木の事ですか?アイツ、今いい噂聞かないっすねぇ……」

 お代わりの生ビールを注文しながら松本はそう言った。

 そのまま社内で流れている鈴木の噂について、単刀直入に松本に聞いてみると、出るわ出るわ……鈴木の裏切りの数々。
 予想通りといえば予想通りなのだが、改めて聞くと腹立たしい。

 今すぐ鈴木をどうにかしてやりたくなったが、何とか心を鎮めながらも、松本から聞いた話をまとめると……合コン三昧、お持ち帰りし放題は事実で、それだけには飽き足らず、複数の取引先の女の子に手を出しては揉めて、危うく取引停止になる所だったとか。

 想像以上に、最悪な屑である。

 合コンからのお持ち帰りについては、人の事は言えた義理ではないが…ゴホン。

 他人の話として聞いていて、客観的に聞いた俺も鈴木に負けず劣らず屑だったな、と反省して遠い目になる。

 とりあえず、話に聞いているように遊びが社外で済んでいるうちは、彼女が知らなければ傷つくことはないだろうが…問題はそれが社内にまで及んだ時だ。
 当然、社内の人間に手を出せば遠からず彼女の耳に入り、彼女が傷つくことになるだろう。
 もしも、そんな事になったら、俺は鈴木を許しはしない。どんな事をしても、奴を潰してやる。

 そう思っていた矢先に、松本は思い出したかのようにとんでもない爆弾発言をした。


「そういえば、遊びとは別にアイツ、今社内に本命いますよ。確か、管理本部の女子力半端ない子……そうそう、宮田 花音ちゃんだ!あの子、めちゃ可愛いですよねぇ。」

「は?管理本部…?一営の仲原さんはどうしたんだよ。」


 管理本部?なんだそれ、聞いてないぞ。てか、宮田って誰だ?

 突然の新情報に頭が付いて行かない。
 手が震え、酷く喉が乾き、俺は手元のグラスを一気に煽った。


「えー、それいつの話っすか。仲原女史とは終わったって鈴木からそう聞いてますよ。」

「……いつの話だ?」


 松本は俺の質問に対して少し考えて答える。


「いやー、いつだったかなぁ……確か、半年以上前?ちょうど仲原女史が表彰されたくらいの時だったかと。あ、でももう、そん時は花音ちゃんと付き合ってたみたいっすけどねー。」

「…理由…理由は聞いてるか?」

「詳しくは聞いてないっすけど、俺が思うに、年下同期で女の子、しかも恋人に追い抜かされるとか…プライド高いアイツには辛かったんじゃないっすかね。だって釣り合ってないでしょ。片や営業成績抜群で管理職、もう一方は一般社員に毛の生えた程度のチーフっすよ。俺には絶対無理っす!」


 そう言って恐縮してブンブン手を振る松本を尻目に、俺は絶句した。そして、鈴木に対して抑え込んでいた怒りが再びふつふつと静かに怒りが湧き上がってくる。

 今の彼女の立場は、誰でもない彼女が努力して作りあげたものだ。
 同期で恋人である鈴木は、彼女の一番傍近くでその努力を見ていただろうに、それを喜ぶどころか妬んだと。
 そして、妬みの挙句、自身のプライドを優先して彼女を捨てるとは……

 鈴木という男はなんて狭量で器の小さい男なのだろうか。

 俺は額に手を当てて深く息を吐くと、再度怒りを抑え込んだ。そうしなければ、今すぐ鈴木を殴りに行きそうだったからだ。

 松本は続ける。


「鈴木はふわふわした花音ちゃんみたいな庇護欲掻き立てられるタイプが好きっすからねぇ。仲原女史も最初はそうだったんすけどね。今は自立して、強くてひとりでも大丈夫そうに見えるんでしようねぇ。」


 それを聞いて俺は更に胸糞が悪くなってきた。

 ひとりで大丈夫なものか。

俺は彼女が本当はか弱くて、今にも折れそうな心を奮い立たせていることを知っている。天涯孤独で頼れる人もいないのに、恋人が守ってやらなくてどうするんだ。

 再びグラスを煽る。強いアルコールに喉がヒリついた。
 心が抉られるように痛い。


「最悪だな……」


 俺はなんとか一言絞り出した。これが精一杯だった。
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