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最終章 ごきげんよう

第111話 ローズの躊躇い

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「そんな……なんで……? どうして?」

 ローズは何度もその言葉を繰り返す。
 自身に向けられたオーッディックの憎悪の闇にショックを受けたローズは周囲の言葉を振り払い、ただその場から逃げた。

『お前の顔など見たくない! 部屋から出て行け!』

 幼馴染の来た事の無い叫び声が脳裏に響き渡る。
 聞き間違いなのでは? と言う戯言など許されない程の明らかな憎悪。
 人気者だった前世の野江水流、そして伯爵家と言う傘に護られていた悪役令嬢ローズを含めて、これ程までに近しい者からの激しい憎しみを受けた事が無かったローズにとって、まさしく初めての体験だと言えた。
 この感情の整理を付けようも無く、またどこに向かう訳でもなく、そして『なぜ?』の答えの宛てを求める為でもなく、ただその場に居る事が怖くて走るのだった。

「お待ちください。お嬢様」

 後ろの方で自分を呼び止める声がする。
 その声は聞こえていたが、ローズはその足を止めなかった。
 なぜなら今のローズにはその言葉が心には届かない。
 それもその筈、この世界がゲームだと知っている自分以外には誰も答えようのない自問自答の海の中、溺れもがき苦しんでいたのだから。

 『なぜ記憶喪失イベントが始まったの?』

 ―――この答えをローズは持っていない。
 ここは知っているゲームの世界だが、知っていると思っていた事の全てが少しづつ違う別の物語で紡がれていた。
 そもそも前世でも発生原因が分からなかったイベントなのだ。
 似て非なるこの世界において、イベントの発生時期もタイミングも人々との関係さえ、全て前世で知り得た事など役に立たない。
 そんなローズにはこの答えを出す事は出来なかった。

 『なぜオーディック様はあたしをそんな目で見て来るの?』

 ―――残念ながらこの問いにはその答えに心当たりがある。
 それは過去の自分の過ち。
 いや、自分ではあるのだがそれは野江 水流ではなく悪役令嬢として設定されたレールを辿って来ただけの話。
 それも自分だと認め共に歩いていこうと心に誓った筈だったのだが、幼馴染の憎悪の炎に焼かれた心はその決意に揺らぎを生じる。
 ローズは野江 水流の記憶が目覚めてから初めて悪役令嬢ローズの事を心の奥から憎いと思ってしまった。
 
 『なぜあたしはローズに……いいえ、転生したの?』

 ―――揺らぎから生じたローズへの憎しみは、ずっと考えないようにしていた疑問を呼び起こす。
 そうだ! そもそもなんでゲーム世界の敵役に転生したのを受け入れているんだ?
 そんな事は現実的に考えて有り得ないだろう。
 百歩譲って転生は有ったとしてなんで死ぬ前に遊んでいたゲームの世界なのだ。
 神の悪戯? もしそうならとても意地悪な神に違いない。
 なんたって主人公ではなく、嫌われ者の敵役なんかに転生させたのだから。
 乾いた笑いさえ浮かんでくる。
 そもそもたかが三徹したぐらいで、幼いから剣の道で心身共に鍛えていた自分が死ぬなんて信じられない。
 これは夢……、そうこれは夢よ。
 ローズは今の苦しみから逃れたい一心で、最近では試す事さえしなくなった夢からの覚醒を何度も試みる。
 しかしそれらは全て失敗に終わった。
 なにをしても目覚めない。
 闇雲に走る事に引き起こされる呼吸の乱れ、脈拍の上昇。
 そのどれもが今起こっている事が現実だと思い知らされる。

 『ならばなぜ! なぜこんなに胸が苦しいの? ゲームの世界の人間に嫌われたくらいで、なぜこんなに悲しいの? オーディックなんて五人居るイケメンの中の一人じゃない。まだまだあたしには四人のイケメンが居るんだから! そうよ、そうだわ。もう主人公は居なくなったんだから、シュナイザー様にディノ様。それに最近姿を見せてくれないけどホランツ様にカナンちゃんはあたしのものよ。ううん、それだけじゃない。幼馴染ならオズだって居るわ。だから大丈夫……大丈夫……』

 ―――頭の中で言い訳を並べ立て大丈夫だと何度も自分に言い聞かせる。
 しかし、その胸の苦しみは薄らぐ事は無く、更に強く痛み、それが脈拍の上昇を加速させた。

 『なんで? なんで? なんで?』

 胸の痛みの理由を見付けようと何度も自分以問い掛ける。
 しかし、心に浮かぶのは悪役令嬢ローズへの憎しみと、こんなゲームを買って来た自分への怒りと、クリアしようと三徹した事への後悔ばかり。
 苦しみから解放される為の答えが見つからない。
 今にも心が壊れそうだ。

 『誰か助けて!!』

 ローズは心の中で叫ぶ――。


「こちらだ。ローズ」

 様々な負の感情のうねりから本当に心が壊れようとした寸前、どこかから自分を呼ぶ声が聞こえて来た。
 それはとても小さい声だ。

 『誰……? 幻聴?』

 今も後ろから大声で叫ぶフレデリカの声にかき消されるような小さい声であったが、それでもその声はまるで暗闇を照らす光の様に深い悲しみが渦巻いていたローズの心の奥底にまでしっかりと届いた。
 一瞬助けを求める自身の心が聞かせた幻聴かと思った。

「ローズ。こっちに来るのだ」

 だがその声は、もう一度耳に届いた。
 相変わらず囁くような小さい声だが、どうやら幻聴ではない。

 『この声は何処から……?』

 自分を呼ぶ声で落ち着いたのか、少し周囲を見る余裕が出来た。
 周囲を見るとどうやら自分は目的も無く廊下を走っていたようだ。
 小さい頃から何度か出向き、そして最近舞踏会で問題を起こした公爵邸と違い、子爵邸には来た事が無い。
 その為、今自分が走っているところが全く分からないでいた。
 ローズは声の出所を探す為に僅かに速度を落とし辺りを見渡してみる。
 
 『あっ! あの曲がり角の先、人の気配がするわ』

 少しばかり前方に曲がり角が見えた。
 そして、その先にはこちらを伺う様に身を潜めている人影が見える。
 まだ混乱冷めやらぬローズだが、この声には聞き覚えがあった。
 なぜその人がここに居るのかは分からない。
 しかし、今はそんな些細な事はどうでも良かった。
 この人なら自分の悲しみを救ってくれる。
 ローズはそう信じて曲がり角の先、自分に声を掛けてくれた人物の胸に飛び込もうとした。

 ガシッ!

「えっ?」

 タックルする勢いで飛び込んだのだが、曲がり先の人物は自分の肩を優しく掴み軽々と押し止められたので驚きの声を上げる。
 少しつんのめってしまったが、無理矢理止められた程の衝撃は無い。
 恐らく飛び込んだ自分が怪我しない様に衝撃を最低限に抑えてくれたのだろう。
 と言う事は、自分を受け止めたこの人物は相当な実力の持ち主と言う事だ。
 ならば間違いない。
 この人物は……!

「オ……」

 顔を上げた視線の先、そこにあった顔は想像通りの人物。
 思わず名前を口に仕掛けたのだが、その人物……オズは人差し指を口元に立て首を振っていた。
 そうだ彼の存在は口に出してはいけない。
 それを思い出したローズは残りの言葉を吐き出す前に何とか飲み込んだ。

「……なぜあなたがここに?」

 声を潜めてそう問い掛けたのだが、その答えは自分の中に見つけた。
 オーディックとは親友だと言っていたではないか。
 オーディックが怪我をしたのだから見舞いに来ていてもおかしくないだろう。
 そこに思い至ったので、それ以上の質問は止める事にした。

「ローズ……事情は知っている。可哀そうに……辛いのなら我の胸で泣くといい」

「え?」

 オズの口から出た言葉は想定していた物とは違っていたが、今心から欲したモノだった。
 幼馴染オーディックからの憎悪の目によって傷付き心がグチャグチャになっていたローズの心に幼馴染オズの言葉が染みて行く。
 今まで感じた事の無い正体不明な胸の痛みに苦しんでいたローズにとってその言葉は救いであった。
 込み上げてくる想いが溢れ目から大粒の涙が零れ落ちる。

「あっ……」

 そんなローズを見たオズは肩に置いている手で優しく引き寄せるとその腕で抱き締めた。
 突然の事だったがローズはオズの成すがままにその身を任せる。

 『あたたかい…』

 悲しみによって氷に覆われているかの様に凍えていたローズの心は、オズの胸の中その温もりによって溶かされていく。
 肉親以外の異性に優しく抱き締められたのは前世を併せても二回きり。
 いや確か前回は活を入れる為だとからかわれただけだった。

 じゃあ今回も?
 自分が泣いているから?
 ……ううん、違う。
 この優しく包まれている感覚は、本当にあたしの事を……。

 イケメンに抱き締められる体験など普段なら『イケフェス』が始まってもおかしくないのだが、さすがのローズもこんな状況の中浮かれる気分にはなれない。
 しかし腕から伝わるオズの優しさ、そして自分を癒してくれるオズの事を愛しく思い、自分の腕をオズの背に回そうと……。

 ―ーチクリ

 もう少しで背中に手が届き抱き締め返しそうになった時、僅かな痛みが胸に走った。
 それは先程までの悲しみによって締め付けられるような苦しいものではなく、針で刺したような小さい痛み。

 その痛みにローズは思わず手を止める。
 なぜだか分からないがその痛みによって心の奥から何かが滲み出てくるのを感じたからだ。
 それを上手く言葉には出来ないローズだったが、このまま身を任せるのを躊躇わせるのに十分なものだった。

「………」

 ローズの感情の変化をその腕で感じ取ったオズは、目を瞑り眉を顰めた。
 そして抱き締めていた手を緩める。
 名残惜しそうに小さく息を吐き、ローズの身体を解放した。

「あ……」
 
 抱き締め返すのには戸惑ったローズだが、かと言って放されると寂しく感じてしまい、少し不満気に唇を尖らせた。
 その顔を見たオズは僅かに頬をほころばせる。

「ローズ、場所を移そう。さぁ手を……」

 すっとローズから目を逸らし、その後方の廊下に目を向けたオズはそう言ってローズの腕を取り通路の奥に来るように促した。
 そう言えば……と、後ろからフレデリカが追って来ている事を思い出したローズは、オズの秘密を護る為に素直にオズの導くままに歩き出す。
 何処に連れて行かれるのだろうという疑問は浮かぶが、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

 『確か昔こんな事が有ったような……?』

 オズの引く手の感触に遠き幼き日の記憶が呼び起こされる。
 それは何処か見知らぬ廊下を今のようにオズが自分の手を引き歩いている……そんな記憶だ。
 何をしていたかなんて事までは憶えていないが、二人してワクワクと目的地を目指していたのだろう。
 時折振り向くオズと笑いながら他愛のない事を話していた。
 その呼び起こされた記憶にローズはふと口元が緩んでいるのに気付く。
 そんなローズの様子を知ってか知らずか、オズは振り向かずもせずローズの手を握る力をキュッと強めた。

「あっ……」

 その力にローズは心臓がトクンと揺れ思わず口から短い声が零れる。
 先程まで悲しみに打ち震えていた心は春の調べのように高鳴り頬を上気させた。
 ……ただチクリと心を刺す小さな痛みだけはそのまま残っていた。
 そんな二つの感情に戸惑っていたローズの耳に自分を呼ぶ声が届く。
 どうやら廊下で立ち止まっていたフレデリカが自分を追う事を再開した様だ。
 その呼び掛けに答え様としたが、オズがグッと手を引き走り出したのでタイミングを逃しそのまま釣られて走り出す。
 オズは急に通路の壁に向かって手を当てた。

 カクン

 一瞬何が起こったのか分からない。
 壁の一部が急に凹んだかと思うと、そのままオズは握る手を引っ張り壁に体当たりする勢いでスピードを速めた。
 『ぶつかる!』そう思ったローズは自身が受けるであろう衝撃を予想して目を瞑る。

「うっ……」

 ローズは予想通り衝突の衝撃が来た事に声をあげる。
 しかし痛みに関しては予想通りではなくとても心地良いものだった。
 なんでだろうと目を開けると辺りはとても暗い。
 そして自分は何かに包まれている様だ。
 しかしこの感触はつい先程感じたような……?
 急に明るい所から暗い所に来た為に目が慣れていなかったのだろう。
 包まれている感触の正体を探ろうと目を凝らすと蝋燭か何かの光源は有るらしい。
 なんとか暗さに慣れてきたローズは、目を凝らして自分を包むモノに目を向けるとそこに有ったのはオズの胸板。
 見上げるとオズの顔がすぐ近くに有った。
 どうやらまた抱き締められているらしい。
 恐らくローズを抱き締める形で受け止めてくれたのだろう。

「オズ? あ、あの……」

「しっ! 静かに。今ローズの従者がそこに居る」

 オズは静かにそう言った。
 え? 何処に? と思って後ろに目をやるが、薄暗いその先には壁が見えるだけ。
 ここは一体何処なんだろうと思った途端、その壁の向こうから声が聞こえて来た。

「お嬢様ーーーーー!! どこですかーーーーー!!」

 必死に自分を呼ぶフレデリカの声が聞こえる。
 それでなんとなく自分の状況が掴めてきた。
 どうやら現在自分は壁の中にいるのだろう。

 『ここって所謂隠し部屋って奴なのかしら? さっきオズが壁に手を当てたのはここを開くスイッチだったのね。まるで忍者屋敷みたい。なんて素敵なの!』

 なぜオーディックの屋敷にそんな物が有るのかはローズには分からなかったが、小さい頃にテレビで見た仕掛けに少しばかり興奮気味だ。
 壁の外で幾度か自分の名を呼んでいたフレデリカだが、この仕掛けには気づいていないのだろう。
 やがてその声と共に足音が遠ざかって言った。

「ふぅこれで安心だ。では行こうかローズ」

 やがて足音が聞こえなくなると、オズはそう言ってローズから手を放し歩き出す。
 状況は分かったが事情は分からないローズは取りあえずオズの後を付いて行く事にした。
 
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