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第五章 また逢う日まで
第93話 彼女の祈り
しおりを挟む「あ、あの…もしや、娘さん……いえ、それだけじゃない。貴女は貴族の……」
彼女の言葉は最後まで紡がれる事ななく途切れた。
アンリの母親が静かに目を瞑り首を振った所為である。
それはただの否定では語れない想いが含まれている様に感じた為、それ以上何も言えなくなったからだ。
そして続く母親の言葉に彼女は耳を疑った。
「先程申されたお金など要りません。……母娘二人ですし何処でも生きていけますので」
母親は少し笑顔を浮かべてそう言ったのだ。
彼女の頭は一瞬真っ白になった。
『母娘二人なら何処でも生きていける? そんな馬鹿な! この世の中、女が生きていく術など一つしかないではないか!』
その事実に思い至った彼女はすぐに声を上げた。
「何を言うのです! そんな事は許されません。貴女は娘にもその様な道を歩ませるのですか!」
自分だけならまだしも娘にまで辛い道を歩ませるのか!
そんな怒りが彼女の思考を揺るがした。
しかし、ここまで言って初めて彼女は自分の過ちに気付く。
何を自分は言っているのだ?
この母娘は今日まで貧しいながらもこの町で楽しく暮らしていたのに、それを壊したのは自分ではないか!
そんな道に陥れようとしたのは自分の所為ではないか!
彼女は激しい後悔に苛まれる。
とは言っても、今でもこの行いがシュタインベルク家の為と言う思いは変わらない。
何しろ貴族と庶民の悲劇はこの母親の今の姿が物語っているのだから。
だが、一時の感情に任せてここに乗り込むような事をしなければ、少なくともこの母娘はこれからもこの町で幸せに暮らしていけたのではないだろうか?
もっといい方法が有ったのではないだろうか……と。
後悔に心を軋ませる彼女は涙ながらに母親に謝った。
許して欲しいと、このままこの町に居て良いと、問題はこちらで何とかすると謝った。
しかし、母親はまたも首を横に振る。
「いいえ、これ以上悲しみの連鎖を広げる訳にはいきません」
その言葉は重く彼女の心に響いた。
それはとてもとても深い様々な事情が有るのだろう。
少ない言葉では語れない、それこそ母親の人生を全て語り尽くす時間が必要な程の……。
「なら、せめて代わりに住む場所と貴女の仕事の紹介だけでもさせて下さい」
彼女は机に額を擦りつける勢いでそう懇願した。
最初は渋った母親だが、何度も願うとやがて彼女の熱意に諦めたのか、とうとう首を縦に振る事となる。
「分かりました。その慈悲に縋らせて頂きます」
その言葉を聞いた彼女は何度も頭を下げて母親に感謝の言葉を述べた。
そして、母親にもう一つ提案をした。
「よろしければ、娘さん……いえ貴女のお嬢様へ教育をして差し上げる機会を私に頂けませんか?」
語れぬ事情により貴族と関わり合いになる事を恐れている母親ではあったが、アンリの場合その出自を隠しさえすればこれ程の器量の持ち主なのだから、それなりの教養を身に着ければ名家のメイドとして働き口も見付かる筈だ。
別に貴族家に仕える事は無い、大きな商会にでも雇ってもらえさえすれば、その美貌が商会主の目に留まり夫人として娶ろうとする事だって考えられる。
当初は少し渋る母親は、彼女の『身に着けた知識はアンリの将来にとって無駄にはならない』と言う説得で渋々了承したのだが、ただその際一つの約束をさせられた。
それは『何があろうとも私達母娘の事は秘密にして欲しい』と言う物だ。
複雑な事情を理解している彼女は『誰にも絶対に喋らない』と母親に誓った。
それから数日後、母娘は彼女の手引きによりこの町を離れて領都ほぼ反対側にある隣国へと続く街道沿いの町へと人知れず移住した。
アンリが町から居なくなった所為なのか、やがて兄弟も館を脱走する事が減っていった為、彼女は心より安堵する。
その後彼女は約束通り、母娘の住む町へと家庭教師として月に二~三回程通った。
血の成せる業か、それとも生まれ持った才能か、アンリは驚く程に物覚えが良く、通い出してから一年も経たない内に彼女が教える事が無くなる程だ。
四十近くになるまで仕事一辺倒で結婚もしなかった彼女は、賢く心優しいアンリの事を心の中では実の娘の様に感じており、またアンリも彼女の事をとても慕っていた。
そして母親とは無二の親友と呼べる間柄になっている。
三人はいつの間にか本当の家族のような優しく暖かい交際の日々を送っていた。
今まで彼女の周りに居なかった親友と、勝手な片思いとは言え娘が出来た事が彼女の心境に変化を与えたのだろう。
誰にも厳しくまるで悪魔の様に恐れられていた彼女は、徐々に穏やかで優しい性格へと変わっていく。
このままこの母娘が幸せで有りますように……彼女はそう神に祈った。
だが、彼女の願いとは裏腹に時代のうねりと共に運命の歯車は大きく狂い出す。
それは……大いなる厄災。
果てなく続く悲しみと憎しみの連鎖。
人が紡ぐ愚かなる象徴。
そう、それは戦争である。
それまでも国境付近で幾度かの小競り合いは起こってはいたのだが、それでも王国自体は不戦の意志を貫いていた。
しかし、ある日周辺国を燻ぶっていた戦乱の火はとうとう王国にまでその全てを燃やし尽くさんと牙を剥く事となる。
他国との街道沿いに住んでいる親友母娘を危惧し、彼女は秘密裏に領都に呼び出し二人を匿おうと使いの者を出したが、時既に遅く領都に届いたのは二人ではなく辛い知らせだった。
街道の先の国は当初中立の立場を取っていたのだが、他の国と共謀して急遽王国へと侵攻したのだ。
それによって最前線となった街道近くの町は、瞬く間に戦火に包まれ多くの住民は犠牲となった。
運良く領都まで逃げ延びた数名の生き残りからの情報では、それは夜襲による焼き討ちで、凄惨を極める物だったらしい。
逃げ遅れた住人達の生存は絶望的だと言葉少なに語ったと言う。
それでも彼女は親友達の無事を神に祈りながら、八方手を尽くし捜索した。
それは多大な犠牲を払いながらもバルモア達四英雄の活躍によって戦争が終結し、この王国に平和が訪れた後も続けられたが、一行にその消息は掴めなかったのだ。
彼女はまた後悔の念に苛まれる事となる。
自分の判断が間違った所為だと、自分を責める日々。
自分が街道沿いのあの町への移住を斡旋しなければ……、いや元々母娘が住んでいた町は戦乱において大きな被害も無く無事であったのだ。
あの日怒りに駆られて母娘の家に乗り込まなければ、こんな事にはならなかった……。
悔やんでも悔やみ切れぬ思いに心傷めていた彼女が、故郷を捨てバルモアと共に逃げる様に王都に来たのは、そんな理由からだった。
程なくしてバルモアが聖女として名高いアンネリーゼと婚姻を結ぶ事となる。
彼女は始めてその姿を見た時は目を疑った。
容姿こそ違うものの、その身から発せられる輝きはまるで親友の……、そして自分の娘の様に思っていたアンリと見間違うものだったからだ。
名前もアンリとアンネリーゼ……とても良く似ている。
もしかしてアンリは生き延びてどこぞの貴族に拾われ、そしてアンネリーゼとして自分の前に現れたのかと思った程だ。
しかし、そんな筈はない。
聖女アンネリーゼはベルナルド侯爵の姪孫であり、その出自は確かなもので幼少の頃より聖女の片鱗の噂は絶えない人物である。
奥様となられた聖女との日々。
親友と娘を失ったあの日から後悔の念に苛まれ悲しみに暮れていた彼女の心に再び温もりが宿り出す。
使用人の自分にも優しく接してくれる聖女。
その仕草、その笑顔は違うと分かっているのだが、どうしてもアンリを重ねる自分が居た。
やがて温もりは光となり暗闇に閉ざされていた心を照らし出していく。
こうしてアンネリーゼの優しさによって、悲しみと後悔から立ち直った彼女はより一層人に優しくなろうと努める事にした。
過去は消えない。
かつて自分は調べ上げた親友の経歴を知り、侮蔑の感情と共にその言葉を吐き捨てた。
そう自分の犯した罪は消えはしない。
絶対に償わなければならない。
だが、二人の後を追うのはあの世で親友と娘に怒られるだろう。
二人なら絶対そう言う筈だ。
ならば二人のお陰で優しくなれた自分が出来る事は一つしかない。
人に優しく、そして誰にでも愛を注ごう。
これが現在誰からも慕われる彼女が生まれた真相である。
月日は流れ、親友の孫……そしてアンリの娘であるエレナがこの屋敷にメイドとしてやって来た。
とは言え、当初はそうだとは気付く筈もない。
ただ初めて屋敷に来たあの日、お嬢様に抱きかかえられたエレナを見た瞬間息を呑んだ。
周囲は異常なまでにエレナに対して敵意を剥く中、言い様の無い気持ちに包まれた彼女は、ただ茫然と立ち竦んでいた。
それから彼女はエレナの正体に気付かずとも、エレナを気に掛けるようになったのだ。
エレナは明るく振舞ってはいるのだが、その長年の勘はエレナの心の中に住み着いている闇の存在に気付く。
それが何か分からないが、いつかその闇が晴れるよう見守ってやろうと彼女は心に決めた。
次の日からエレナの分からない事や慣れない事を優しく丁寧に教えた。
驚いた事に、教えた事に対して素直に感謝するエレナの笑顔が、在りし日の娘のソレを思い起こさせる。
だから彼女はより一層にエレナを可愛がる様になっていく。
テオドールの紹介と言う曲者新人故に少しギクシャクしている人間関係も、その間に入り仲良くする様にとりなしたし、各部署のリーダーの好み等もそっと伝えた。
そうした甲斐もあり、またエレナ自身の生来の性格はとても人好きするものだったお陰もあってか次第に周囲と打ち解けていった。
そんな事を知らないローズが恐れていたエレナの人心掌握能力のカラクリは彼女の貢献によるものが大きい。
だがエレナの心の闇はとても深いのであろう。
仲良くなったと思っていたが、その心に一歩でも踏み入ろうとすると誤魔化す様に話を変えてその場からするりと逃げ出す。
なによりどれだけ尋ねようとも、エレナは自身の過去について一切語る事はなかった。
そんなエレナを歯痒く思っていたある日、エレナがお嬢様に対して問題を巻き起こしたと言う知らせを耳にする。
恋の橋渡しによって、他の使用人達よちいち早くローズに心酔していた食堂付きの使用人達からの情報では、お嬢様に声を荒げ害を成そうとしたらしい。
その騒動自体は心変わりされたお嬢様の優しさによって収まったのだが、その時エレナの過去の一端を知る事が出来た。
エレナの母親はテオドールの元でメイドとして働いていたらしい。
だが既に故人でその伝手を頼ってこの屋敷に来たとの事だ。
その話を聞いた時、なにか予感めいた物が彼女の胸に過った。
もしかして……?
彼女はすぐにテオドールの屋敷にいまだ残っていると言う庭師の知り合いに手紙を出した。
それはエレナの母親の事についてだ。
その返信を見て彼女は歓喜と悲しみの涙を流す事となる。
エレナの母親は確かに今から十年程前までシュタインベルク領の領都にあるテオドールの屋敷で働いていたらしい。
身元についてはテオドールが何処かから連れて来たらしく、驚いた事に使用人となった初日からメイド業務を完璧にこなしていたようだ。
過去は多く語らず、ただ戦災孤児と言う事だけは知る事が出来たと書かれていた。
それから暫く後、王国中が聖女の急逝によって悲しみに暮れている最中、そのメイドは人知れず身籠ったらしい。
父親は不明で色々と噂は立ったものの、貴族家のメイドとはその様な事はままある為、面と向かって追及する事はしなかった様だ。
有力候補としては聖女の死を追うかのように死亡した御者の男ではないかとみられているとの事。
一応死因については突如馬が暴走した事による事故死とされている。
父親とみられる理由については、その男は生前エレナの母親と親しかったらしい。
しかし、それ以上に周囲の関心は聖女の死に向けられていた為、やがて誰も気に留める事は無くなった。
有能だったエレナの母親は、エレナを産んだ後も屋敷に残り職務に励みカナンお坊ちゃまの乳母まで務めたとの事だ。
だが、不幸にも流行病に罹った事により自ら屋敷を後にしたらしい。
手紙の主の庭師もエレナとその母親の事が気になっていたのだが、屋敷から去った後の消息は掴めず心配していたそうだ。
それから数年後、屋敷の門を叩く者が現れた。
どうやらその者は当時幼かったエレナらしかった。
エレナも庭師の事を覚えていたらしく、詳しく話を聞くと母親が亡くなったのでテオドールを頼ったとの事だ。
当時の事を覚えている使用人達は歓迎したが、テオドールとその側近達は屋敷にはこれ以上の人員は不要である為、兄バルモアの屋敷へと送ると使用人達に告げたらしい。
使用人達は残念だと思う物の、その方が彼女にとって幸せだろうと考えエレナを送り出したので面倒を見てやって欲しい、と言う言葉で手紙の最後が結ばれていた。
そして手紙の中に記されていたエレナの母親の名前はアンリと言う。
自分の中でエレナを通して感じていた予感は確信へと変わった。
我が娘アンリは戦火を生き延びテオドールの屋敷で働いていたのだ
戦災孤児だとの言葉から親友については不幸にも亡くなってしまった事を知ったのだが、それでもアンリは生きていてくれた。
彼女の心は歓喜した……だがそれも束の間だ。
彼女の心は歓喜以上に深い悲しみに沈みゆく。
我が娘は流行病によって数年前に亡くなってしまっていた。
テオドールの屋敷を去った後、何故自分を頼ってくれなかったのか。
連絡してくれさえすれば、すぐにでも駆け付け幾らでも援助しただろう。
自分が王都に居る事を知らなかったのだろうか?
戦争で死んだと思っていたのだろうか?
もしかして……もしかしてアンリは遠き過去、あの日に自分が言ったシュタインベルク家の跡継ぎに会うのをやめるよう言った事を気にして連絡して来なかったのか?
いやしかし、テオドールはその時言った領主そのものではないか。
ならば何故……?
アンリの最後に想像と否定と後悔が渦巻き悲しみが押し寄せる中、彼女は一つの答えを導き出した。
我が娘が自分を頼らなかった理由はいまだに分からない、しかし今自分の前には我が娘の子、言うなれば自分の孫とも呼べるエレナが居る。
最初はエレナに自分とアンリの関係を話そうかと思ったが、それは止める事にした。
アンリが自分を頼らなかったと言う事もその理由の一端では有るが、それ以上にかつて親友と交わした『何があろうとも私達母娘の事は秘密にして欲しい』と言う約束を守る為だ。
言葉にしなくても想いを伝える事は出来る。
エレナに優しくしよう、我が孫として愛を注ごう。
彼女は天国に居る親友と娘にそう誓った。
お嬢様に対して問題を起こした後、エレナの心の闇が晴れて行っているのを感じた。
お嬢様の優しさに触れて闇が消え去ったのだと彼女は安堵した。
しかし、闇の根は深かかったのか、またもやエレナは問題を起こす。
度重なる失敗。
深く濃くなっていく心の闇。
どうすればエレナを救えるのだろう?
彼女はそれだけを考える日々を送った。
それも突然終わりを告げた。
先日食堂で起こったお嬢様の大切な形見破損事件。
エレナの勘違いだった為に未遂で終わったが、その日以降彼女の心の闇は消えた。
だが、彼女の不安は消えなかった。
闇が消えた後、そこの残ったのは何かを思い詰めた決意の様に思われたからだ。
それに今まで以上にエレナとの距離が遠くなったのを感じている。
そして、先程いつも通りに買い出しの仕事を受けたエレナの目に今まで以上の違和感を覚えた。
何か、エレナがこのまま遠くに行ってしまいそうな……そんな言いようの無い不安が彼女の中に湧いて来る。
だから思わず彼女はエレナに『何か悩み事が有るんじゃないかしら?』と言う言葉を掛けたのだ。
「大丈夫ですよ。もう悩み事なんてありません」
彼女の問いにエレナはにっこりとほほ笑んだ。
やはりその仕草はいつも通りの様に見える。
しかし彼女の不安は消えはしない。
「お嬢様も言っていたでしょう。この屋敷に住まう私達は家族も同然なの。だからもっと私達を頼りなさい」
「……はい。でも大丈夫です。家族……。そう家族の為なんです」
彼女の言葉にエレナはそう答え微笑んだ。
しかし彼女はエレナの言葉の意味を捉えかねていた。
それが意味する理由を聞く為に、声を掛けた様とした彼女をエレナが遮る。
「早く行かないと遅くなってしまいます。それでは行ってまいります」
エレナはそう言って頭を下げて扉の外に出て行った。
追い掛けようとしたが、確かにエレナの言う通り仕事の手を止めてまてする事ではない。
それに帰ってからでも遅くないだろうと彼女は思い直した。
そして彼女は天国に居るであろう親友と娘に許しを乞う為、謝罪の言葉を祈りに込めた。
それは新たな罪。
親友と交わした約束を破り、自分達の関係を孫であるエレナに話すと言うものだった。
「私達は家族よ。エレナ」
彼女はエレナが出て行った扉に向かってそう呟いた。
だが、彼女の祈りはまたしても叶う事がなかった。
その日、エレナは屋敷に帰ってくる事はなかったのだから……。
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