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第五章 また逢う日まで

第89話 大切な皿

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「あぁ、申し訳ありません! お嬢様」

 ガシャーーーン!

 この声はここ最近の風物詩の様になっている。
 日に一度二度、時には四度五度と屋敷に木霊する事もあった。
 声の主はエレナ、本来このゲームの主人公である筈の人物だ。
 だが、この叫び声はゲーム本編でもとのイベントの際にはその開始の合図とも言うべきものでプレイヤーだった野江 水流にとってその後巻き起こる胸糞展開に溜息が出たものである。
 このゲーム『メイデン・ラバー』はクソゲーテンプレのユーザーインターフェースでありながら辛うじて本編中の既読スキップ機能は存在していた為、一度見たら余程の事が無いと二度見はしなかったものなのだが、ゲームの中の登場人物であるローズに転生した現在、現実的にそんな便利機能が働く訳も無く、飛ばす事の出来ないノンスキップイベントが始まるのだ。
 しかしながら、胸糞イベントはがゲーム本編と同じだった場合の話である。
 そのとは『悪役令嬢ローズ』であり、野江 水流としての記憶を思い出し、更に無垢だった頃のローズと悪役令嬢だった頃のローズの意識と融合を果たした現在において、胸糞イベントが始まる訳も無く代わってドジを踏むエレナを心配するローズの声が屋敷に響くのであった。

「エレナ大丈夫? やっぱり疲れているのではないの?」

 目の前で大きく転び、両手に持っていた掃除用具を盛大に廊下へばら撒けたエレナに対してローズが駆け寄った。
 先日のお茶会での騒動の後、やはり医者の診察を拒否していたエレナに対してローズは当主代理としての権限を以って無理矢理受信させたのだが、それによると風邪などの疾患は見付からなかったものの、かなり疲労が溜まっているおり無理をしている状態だと言う診断結果だった。
 身体より特に精神的な疲れの方が強いらしく、それによって夜もあまり寝れていないとの事で、今はまだ若さのお陰で病気にならずに済んでいると言っても、このままだと時間の問題だろうと医者はローズに伝えた。
 これを聞いたローズは少々過保護めいてはいるが、今まで以上にエレナの事を気遣うようになる。
 単純に心配だと言う思いと、ゲームとして雌雄を決する相手とは万全を期して全力で戦いたいと思う気持ち。
 それだけではなく、自身がこの世界に転生する事になった切っ掛けがその心理に大きく影響していた。
 ローズ……いや野江 水流としては恥ずかしい話なのだが、三十路過ぎた身でありながらゲームクリアにムキになって碌に水分や食事も取らずに三徹した結果、そのまま死亡すると言う情けない人生の結末を迎えたのだ。
 野江 水流の最後の記憶としてはただの寝落ち気分だったのだが、現にこの世界に転生している以上あそこで死んだのだと思っている。
 少なくともそれ以降の記憶が無いのだから、切っ掛けは寝落ちだったとしても倒れる際に当たり所が悪い倒れ方をしたのだろう。
 本当に馬鹿な事をしたものだと深く反省していた。

 だからこそ前世の二の轍を踏んで欲しくないと、今回の様にエレナだけじゃなく他の使用人達にも少しでも身体の調子の悪い者は申告する様に伝えてある。
 幸いな事に今の所、その様な報告は無いので大丈夫なのだと思いたいが、あくまで自主申告なので安心は出来ない。
 もしかすると申告した場合後々ペナルティが有ると思われているのかもと、まだまだ自分の事を完全に信頼して貰えていない可能性を思い、まだまだ頑張らなきゃと日々闘志を燃やしている。
 実際はそんな事は無く、幸運な事に使用人全員が現在健康であるだけだったのだが、その事実をローズは知る由もなく、最近ではいっその事半年に一回使用人達の定期検診を義務付けようかしら? などと計画を練っていた。

「だ、大丈夫です。お嬢様。ちょっと足が引っ掛かっただけです。申し訳ありません」

 エレナは慌てて立ち上がり元気そうに笑った。
 そう最近は自分に対して笑ってくれる。
 しかし、ローズはその笑みを見て余計に悲しくなるのだった。
 笑顔を浮かべるその目には自分が映っていない。
 張り付いた笑顔をこちらに向けているだけ。
 その瞳は自分の方に向けているにもかかわらず、まるでこの身体を通して背後の虚空を見ているかのようだった。
 
「そう? 本当に気を付けてね」

 そして、今の様にドジを咎めず労わる言葉を掛けると、その表情が微かに歪むのだ。
 この様にローズは最近のエレナの本心が読めずに首を捻る毎日を送っていた。



 そんなある日の事、いつも通りの朝練も終わり湯浴みでさっぱりしたローズだが、昨夜のディナーを軽めに済ませた所為で少々お腹の虫の誘いに抗う事が出来ず、いつもより少し早めに食堂に入ってしまった。
 迷惑になるかなとは思いながらも、朝食の準備に取り掛かっている使用人達の素晴らしい仕事振りを頼もし気に眺めていると、またもやエレナの声が食堂に響く。

 ガッ! ガシャーーーン! ドスン! ベコッ!

「も、申し訳ありません!」

 もはや風物詩となって久しいエレナのドジ風景。
 周りの者は連日のに呆れ顔だ。
 一人心配顔なのはローズだけだった。

「大丈夫エレナ? 今凄い音したけど」

「え? あっ! あぁぁぁっーーーー! すみません!すみません!」

 ローズが声を掛けると、転んで尻餅をついていたエレナは慌てて腰を上げ今自身のお尻があった場所を覗き込んで悲鳴を上げたかと思うとまるで懇願でもするように謝罪しだした。
 その態度にローズだけでなく他の使用人達も一体何が起こったのだとその手を止めエレナに集中した。
 テーブルに並べるパンでも踏んずけたのだろうか?
 それともドレッシングをぶちまけ絨毯を台無しにしたのだろうか?
 どちらにせよ良くない事が起こったのは確かだろう。
 辺りに使用人達の溜息の合唱が広がった。

「落ち着いてエレナ。何をそんなに謝っているの?」

「本当に申し訳ありません」

 ただただごめんなさいと繰り返すエレナに、今の様に心を閉ざす前に一度心を開いてくれる事となった切っ掛けとなる事件が重なった。
 自分を陥れようと言う作戦だったのだと思うのだが、まるで悪役令嬢の折檻に許しを乞う如きの謝罪の絶叫を上げたエレナに対し、あの時のローズは何も出来ず無敵の主人公の作戦に自らの敗北を覚悟する。
 しかしながら二人の仲を取り持った事によって信頼してくれる様になっていたダニアンとユナの機転によって救われ、その後激しく糾弾しようとした皆からエレナを庇う事で、その閉ざされていた心を開く事が出来たのだ。
 もしかして、最近のエレナのドジは体調の不調ではなく再度『悪役令嬢ローズ』からの叱咤による同情ポイントの獲得を目指す作戦なのでは? そんな考えが頭に過った。
 だが、あの時助けてくれたダニアンとユナは元々食堂付きの使用人であるので、二人は今もこの広間に居る。
 そして、他の使用人達とも最近は仲が良い。
 誰も見ていない場所での謝罪の絶叫は効果が有るだろうが、今の様な皆が見ている場所でしても効果が無いどころか、逆に自身の立場が悪くなるだけではないのか?
 無敵の主人公にしてはそれは悪手過ぎだと、そんな考えを捨てる事にした。

「謝ってるばかりじゃ分からないわ。ちゃんと説明してくれる?」

「こ、これを……。お嬢様の大切なお皿を壊してしまいました。本当に申し訳ありません」

 そう言ってエレナは自らがお尻で踏んだ事によってひしゃげてしまった銀製の皿を差し出してきた。
 ローズは一瞬エレナが何を言っているのか分からなかった。
 大切なお皿? と首を捻る。
 目の前の皿だった物は真ん中から球面に凹んでおり、それがエレナの臀部の形なのかと推測出来るほど見事に用途を成さないモノと成り果てていた。
 一応縁には金細工とメノウで装飾され元は豪華そうには見えるものの、ローズにとってまで別段気にした覚えが無い、その他の食器と変わりない程度の認識だ。
 ローズは先日取り戻した自身の過去の記憶を漁さってみる事にした。

 『この皿に思い入れは無かった筈よね? エレナ何言ってるのかしら? お皿を壊したと言ってもちょっとビビり過ぎよね。 ……ん? ちょっと待って? エレナが……お皿を壊す? 何処かで聞いた覚えが……。あっ!!』

 目の前の皿だった物からの推測では記憶に引っ掛からなかったが、『エレナが食堂で大切な皿を壊した』と言う状況を顧みる事によってやっとその意味を理解する事が出来た。
 そうこれは主人公叱咤イベントの一つその名も『大切な皿』イベントと同じ状況であったのだ。
 ローズは基本胸糞悪いゲーム中のローズからの叱咤イベを既読スキップしていた所為で、すっかりとその存在を今の今まで忘れていた。

 『あぁ、そうそう。こんな状況だったわ。セリフまでそっくりね。勿論ゲーム中のローズは私が言った何倍以上の悪意を込めて『なに謝ってるの? 本当に愚図ね。さっさと理由を喋りなさい、このノロマ!』って怒鳴りつけるのよ』

 ローズは懐かしそうにそのイベントを回想する。
 野江 水流としての記憶ではたった一ヶ月半前の事だが、ローズとして生きた十八年の月日を思い出した今となっては遠く懐かしい記憶となっていた。
 ゲーム中、大切にしていた皿を壊されたローズの怒りはそれは筆舌に尽くしがたい苛烈なものとなる。
 さすがの使用人もゲーム中語られはしなかったものの『聖女アンネリーゼ』縁の品と言う事だったのだろう、当初は珍しくローズに同情の念を抱いていたのだが、エレナに対する執拗な責め苦の数々によってローズへの同情はマイナスへと向きを変え、その全てがエレナへの同情と変わって行くのだった。
 それによってローズと使用人達の間に修復不可能な溝が出来る事となる。
 ここから派生するイベントは数多く、ディノルートへの扉である『エレナの騎士宣言』イベント、シュナイザールートの開始の『シュナイザーの挫折』イベント、カナンルートの条件の一つ『おててつないで』イベント等々数多のイケメンルートへの道が開かれるのだ。

 『本来はもっと後に起こるイベントの筈。確かお父様が死ぬ一週間前くらいだから赤草の中頃だったかしら? 使用人達の態度がかなり険悪なものに変るのよね。当時はエレナ視点だったから、ざまぁ!って思ってたけど、ローズの身としてはこんな恐ろしい事この上ないイベントは無いわ』

 『王城からの召喚状』イベントとの開始は前後するものの、同じ様に繰り上げで今後の行く末を左右する『大切な皿』イベントが開始してしまったと一瞬焦ったローズであったが、すぐそれが間違いである事に気付いた。
 確かに繰り上げで始まったのは確かなのだが『王城からの召喚状』イベントと大きく異なる事がある。
 それは主人公の有無だ。
 開始に様々な状況の要因や人員が関係する『王城からの召喚状』イベントに対して、『大切な皿』イベントの発生に関してのトリガーはエレナ主人公だけである。
 ゲーム中はそれまでの間に発生条件を幾つか整えてやる必要が有るのだが、
 条件など整えなくてもいつでも発生させる事が出来る。
 そう、その後発生する絶大な効果の程を知っていれば、今の様に青草の中頃にだって……。
 そして、目の前に居るメイドはそのトリガーを引く事の出来るエレナ主人公である。
 ここでローズはやっと理解した。
 悪手だなんてとんでもない。
 人が居る今こそその真の威力を発揮する時なのだと。



 だが、ローズはそれを知っても慌てる様子は無かった。
 逆にやはりエレナは体調が悪い訳じゃなく作戦行動中だったのだと心から安堵さえしたのだ。
 言われてみると最近のドジもゲーム中で発生した叱咤イベントの状況に似ている物が多々あった。
 なるほど、エレナはこの隠しルート『聖女の如き悪役令嬢』編を必死に通常ルートに戻す為に、自分の不興を買おうとわざとドジな振りをしていたのかと、心の中で笑みを浮かべる。

 『う~ん、エレナって思ったより可愛いわね。自分の知っているルートに戻そうと頑張ってたのか。けどちょっと焦り過ぎじゃない? 起死回生の為に繰り上げで『大切な皿』イベントを起こそうとしたのだろうけど、まぁこれに関しては私の方にって事ね』

 運が有った。
 そう、ローズには運が有ったのだ。
 過去の記憶を探ると『大切な皿』と言える物は一つだけ。
 それは王家伝来の銀食器。
 幼い頃母から譲り受けた母の形見に他ならない。
 確かにエレナが差し出してきた銀の皿に似てなくはない。
 同じく縁に金細工とメノウが付いている豪華なものだ。
 だが、やはり伯爵家の常用食器と王家伝来の物ではその装飾の差は雲泥の物と言えた。
 ローズは無意識に行った自らの行為を心の中で褒め称える。
 それは何故かと言うと、現在母の形見はこの屋敷に無く、それははるか遠い危険な地で国の為に働いている父と共にあるからだ。
 バルモア出立の朝、偶然目に付いた矢が当たっても大丈夫そうな皿がその形見の品でありローズがお守りとしてバルモアに贈ったのだった。
 ローズは当時の事を思い出してなるほどと頷く。
 皿を送られたバルモアだけでなく、周囲の使用人達までその光景に感動して嗚咽交じりの声を上げていたからだ。



 ここへ来てエレナの顔に焦りの色が浮かんできた。
 それはローズがまるで子供かそれともペットでも見ているような温かい目で見詰めて来る事もだが、周囲の使用人達の態度にも違和感を思えたからだ。
 一体どう言う事なのだ? と周囲を見渡す。
 大切な品を壊した筈なのに誰も咎めようとして来ない。

「あ、あのお嬢様。怒らないのですか?」

 恐る恐るローズにそう尋ねるエレナ。
 ローズはにっこり笑ってそれに答える。

「そうね、お皿を壊した事には勿論怒るわよ?」

「な、なら何故笑ってらっしゃるのでしょうか?」

 エレナは酷く困惑した顔で焦っていた。
 ローズは心の中で吹き出しそうになる。

 『そりゃ仕方無いわよね。ゲームにはお皿の絵なんて出て来なかったもの。多分誰かにデザインを聞いたのでしょうね。縁に金細工とメノウの装飾が施されているお皿だってね。だけど調査が足りないわ。そのお皿がこの屋敷に既に無いって事までは掴んでなかったのね』

「だってそれは私の大切にしていたお母様の形見ではないのですもの」

「えっ? そ、そんな……」

 エレナはその言葉に驚いている。
 その顔を見てローズは少しだけ『ざまぁ』と心の中で主人公に対する留飲を下げた。

「形見のお皿はお父様の元に有るわ。出立の日にプレゼントしたのよ」

「……そうですか……」

 真相を語るともっと悔しそうな顔をするのかと思っていたローズだが、エレナの反応に少し困惑した。
 それは悲痛と怒りが入り混じった様な感情の発露と言える不思議な顔だ。
 だがローズには、その感情は自分に向いている様には感じられなかった。
 エレナの目には別の誰かが映っている……何故だかそう思えたのだ。

 その時エレナが小さく呟いたのを近くに居たローズだけが聞いた。

「……大切な皿って母親の形見だったなんて……そんなの教えてくれなかった……」

「エ、エレナ? 今なんて……?」

「え? い、いえ。こちらの事です。私の勘違いで良かったです。亡くなられた奥様の形見でなくて本当に良かった……です」

 ローズの問い掛けに慌てて立ち上がったエレナはそう言って深く頭を下げて来た。
 その声には安堵の想いが込められているように感じた。

「すぐに代わりのお皿をお持ちいたします。今度はドジをしませんので安心してください」

「ちょっと待って、エレナ?」

 頭を上げたエレナの顔には声から感じた通りの安堵の感情が浮かんでいた。
 そしてその理由を聞こうとしたローズの制止を振り切るかのように足早に食堂から立ち去って行ってしまった。

 残されたローズと使用人達の間に沈黙が広がる。
 頭の中には『?』が飛び交っていた。
 勿論ローズと使用人達の『?』の理由は全く異なるのだが……。
 『今のは何?』と言う疑問だけは共通していた。

「どちらにせよ、お皿を壊した事だけは注意しないといけませんね」

 皆今起こった事に立ち直れず沈黙している中、フレデリカが半ば呆れたと言うような声でそう言った。
 その言葉に皆が「確かに」とハモるように頷いた。
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