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第二章 寺小姓立志譚
4.邂逅(かいこう)(二)
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満月の夜だった。
鼻歌を歌いながら、珠希は裏長屋の暗い路地へと入って行く。
――お散歩してたらずいぶん遅くなっちゃったな。月がきれいだったから…。
戸を開き、部屋へ入ろうとしたその瞬間。
「んっ…!」
誰かが後ろから珠希を羽交い絞めにし、思い切りその口をふさいだ。驚愕する珠希の目の前にゆっくり回り込んできたのは、怒りを込めて自分を睨みつける仕事先の兄貴分、吉左だった。
――まずい!
必死に大声を上げようとするが、口も体も背後の男にものすごい力で押さえられている。
華奢な珠希が身をよじっても、とても敵わない。全く抵抗できないまま、珠希は家の中へ押し込まれてしまった。
「珠希、お前…よくもお美与を。最近やけにあいつに付きまとってると思ったら…さんざんその気にさせといて、弄びやがったな。あいつ、俺に泣きついてきたんだ。お前に傷物にされたって。仕返しをしてくれってな…!」
――やっぱり、お美与ちゃんのことか…。けど! 傷物って一体何! そんなこと僕がするもんか…!
懸命に説明しようとするが、ふさがれた口からはうめき声しか出てこない。吉左の取り巻きのひとり、怪力の熊五郎。角材を同時に何本も担ぐような男に背後から押さえ込まれ、珠希は動くことすらできなかった。
暗い目をした吉左は小刀を取り出し、珠希の目前で刃をちらつかす。
「俺が頭にきてんのは、お美与のことだけじゃねぇんだ。番頭さんに媚び売って、さんざん贔屓されてんのも気に食わねぇ。俺はなあ、小っちゃな頃からあそこで必死に働いてきた。番頭さんに散々叱られてな。今だってそうさ。なのに何で新入りのお前があんなに可愛がられて、簡単に贔屓されんだよ…!」
――あれは贔屓なんかじゃない…! 僕にはその気もないのに、番頭さんがしつこく誘いをかけてくるのをかわすのがどんなに嫌か!
そのせいで常日頃吉左さんに意地悪までされて…散々なのはこっちだよ!
けれども珠希の心の叫びはひとつも言葉にならなかった。
「お美与のことだってずっと俺は…なのに何でお前が! しかも捨てるなんて…!」
――分かってた。一緒に働くお美与ちゃんのことを吉左さんが好きなのは。だから意地悪の仕返しにやきもち焼かせてやろうって…わざと吉左さんの目の前で仲良くしてやった。だけど何だかお美与ちゃんが本気にしちゃって…。その気はないって断ったから、きっとその腹いせに…吉左さんに嘘ついたんだ。ああもう全部話せば分かることなのに…!
何も弁解できないまま、珠希はただ吉左の怒りの前に身を晒すしかなかった。
「お美与が受けた心の傷をお前も思い知れ! 二度と調子に乗れねぇように、その綺麗な面をざっくり傷物にしてやるよ!」
吉左は小刀の切っ先を、ひたと珠希の頬にあてる。
――い、いやだ、やめて、やめて、やめて! 誰か…誰か助けて、諒さん! 諒さん、諒、さん…。
見開かれた珠希の目に絶望の涙が溢れた。
***
「何だよ、空っぽか…」
酒瓶の中を覗き込み、秋司はため息をついた。
――つまらないな…。どこかの屋台で一杯ひっかけるか。適当に蕎麦でも食って…。
雑に襟元だけを合わせ、ふらりと外へ出た秋司はぼんやりと空を見上げた。冴え冴えと光っている丸い月。その光に照らされて、表の二階家の影が長く伸びていた。そのせいか裏長屋の路地の闇が、いつもよりも深まって見える。
何となく暗闇を見つめた秋司の目に、ふわふわと鼻歌交じりに歩く若者の姿が映った。
――あいつ、前に井戸のところで…俺を手伝ってくれようとした奴か。あの時はずいぶんな言い方をした気がする。悪かった、な…。
そのまま家に入ろうとするその若者を、見るともなしに秋司は目で追う。すると突然若者の背後から、二人組の男が飛びかかった。向かいに立てかけられた雨戸の陰に潜んでいたらしい。
「賊か…!」
驚いて目を凝らす秋司。三人の影はひとかたまりになったまま、家の中へ消える。
反射的に走り出そうとした秋司は、突然激しい恐怖感に襲われた。
――あの時も、こんな夜で…俺は刀を片手に朝陽の後を追った。
そのあとに起きた惨劇。血の海の中で自分を呼ぶ誠之助の青ざめた顔。生々しくよみがえる光景に身がすくむ。
「あ…」
足が、動かない。
――何してる…! 早く、早くあいつを助けに行かないと…!
斬り捨てた時の感触。かき抱いた体から流れ出た誠之助の血の温かさ。
頭の中にこだまするのはかすれた自分の声だった。
『無理だ…俺には誰も救えない…必ず守ると誓った誠之助様さえ俺は…殺したんだ…』
崩れ落ちそうな無力感が秋司を飲み込んでゆく。だが最後のひと欠片が飲み込まれようとするその瞬間、秋司の中で何かが抗った。
「そんな…こと言ってる場合か…! 俺は…助けたい。あいつを助けたいんだ…! だから…!」
何かを思い切り振り払うように、秋司は右手で宙を切り裂く。動かなかったはずの左手までもがゆるく拳を作りかけて震えていた。
「うあああああっ!」
秋司は一心に三人が消えた部屋へと走る。壊さんばかりに戸を開けると、頬に小刀をあてられた若者が涙の溜まった目で秋司を見つめていた。
***
鼻歌を歌いながら、珠希は裏長屋の暗い路地へと入って行く。
――お散歩してたらずいぶん遅くなっちゃったな。月がきれいだったから…。
戸を開き、部屋へ入ろうとしたその瞬間。
「んっ…!」
誰かが後ろから珠希を羽交い絞めにし、思い切りその口をふさいだ。驚愕する珠希の目の前にゆっくり回り込んできたのは、怒りを込めて自分を睨みつける仕事先の兄貴分、吉左だった。
――まずい!
必死に大声を上げようとするが、口も体も背後の男にものすごい力で押さえられている。
華奢な珠希が身をよじっても、とても敵わない。全く抵抗できないまま、珠希は家の中へ押し込まれてしまった。
「珠希、お前…よくもお美与を。最近やけにあいつに付きまとってると思ったら…さんざんその気にさせといて、弄びやがったな。あいつ、俺に泣きついてきたんだ。お前に傷物にされたって。仕返しをしてくれってな…!」
――やっぱり、お美与ちゃんのことか…。けど! 傷物って一体何! そんなこと僕がするもんか…!
懸命に説明しようとするが、ふさがれた口からはうめき声しか出てこない。吉左の取り巻きのひとり、怪力の熊五郎。角材を同時に何本も担ぐような男に背後から押さえ込まれ、珠希は動くことすらできなかった。
暗い目をした吉左は小刀を取り出し、珠希の目前で刃をちらつかす。
「俺が頭にきてんのは、お美与のことだけじゃねぇんだ。番頭さんに媚び売って、さんざん贔屓されてんのも気に食わねぇ。俺はなあ、小っちゃな頃からあそこで必死に働いてきた。番頭さんに散々叱られてな。今だってそうさ。なのに何で新入りのお前があんなに可愛がられて、簡単に贔屓されんだよ…!」
――あれは贔屓なんかじゃない…! 僕にはその気もないのに、番頭さんがしつこく誘いをかけてくるのをかわすのがどんなに嫌か!
そのせいで常日頃吉左さんに意地悪までされて…散々なのはこっちだよ!
けれども珠希の心の叫びはひとつも言葉にならなかった。
「お美与のことだってずっと俺は…なのに何でお前が! しかも捨てるなんて…!」
――分かってた。一緒に働くお美与ちゃんのことを吉左さんが好きなのは。だから意地悪の仕返しにやきもち焼かせてやろうって…わざと吉左さんの目の前で仲良くしてやった。だけど何だかお美与ちゃんが本気にしちゃって…。その気はないって断ったから、きっとその腹いせに…吉左さんに嘘ついたんだ。ああもう全部話せば分かることなのに…!
何も弁解できないまま、珠希はただ吉左の怒りの前に身を晒すしかなかった。
「お美与が受けた心の傷をお前も思い知れ! 二度と調子に乗れねぇように、その綺麗な面をざっくり傷物にしてやるよ!」
吉左は小刀の切っ先を、ひたと珠希の頬にあてる。
――い、いやだ、やめて、やめて、やめて! 誰か…誰か助けて、諒さん! 諒さん、諒、さん…。
見開かれた珠希の目に絶望の涙が溢れた。
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「何だよ、空っぽか…」
酒瓶の中を覗き込み、秋司はため息をついた。
――つまらないな…。どこかの屋台で一杯ひっかけるか。適当に蕎麦でも食って…。
雑に襟元だけを合わせ、ふらりと外へ出た秋司はぼんやりと空を見上げた。冴え冴えと光っている丸い月。その光に照らされて、表の二階家の影が長く伸びていた。そのせいか裏長屋の路地の闇が、いつもよりも深まって見える。
何となく暗闇を見つめた秋司の目に、ふわふわと鼻歌交じりに歩く若者の姿が映った。
――あいつ、前に井戸のところで…俺を手伝ってくれようとした奴か。あの時はずいぶんな言い方をした気がする。悪かった、な…。
そのまま家に入ろうとするその若者を、見るともなしに秋司は目で追う。すると突然若者の背後から、二人組の男が飛びかかった。向かいに立てかけられた雨戸の陰に潜んでいたらしい。
「賊か…!」
驚いて目を凝らす秋司。三人の影はひとかたまりになったまま、家の中へ消える。
反射的に走り出そうとした秋司は、突然激しい恐怖感に襲われた。
――あの時も、こんな夜で…俺は刀を片手に朝陽の後を追った。
そのあとに起きた惨劇。血の海の中で自分を呼ぶ誠之助の青ざめた顔。生々しくよみがえる光景に身がすくむ。
「あ…」
足が、動かない。
――何してる…! 早く、早くあいつを助けに行かないと…!
斬り捨てた時の感触。かき抱いた体から流れ出た誠之助の血の温かさ。
頭の中にこだまするのはかすれた自分の声だった。
『無理だ…俺には誰も救えない…必ず守ると誓った誠之助様さえ俺は…殺したんだ…』
崩れ落ちそうな無力感が秋司を飲み込んでゆく。だが最後のひと欠片が飲み込まれようとするその瞬間、秋司の中で何かが抗った。
「そんな…こと言ってる場合か…! 俺は…助けたい。あいつを助けたいんだ…! だから…!」
何かを思い切り振り払うように、秋司は右手で宙を切り裂く。動かなかったはずの左手までもがゆるく拳を作りかけて震えていた。
「うあああああっ!」
秋司は一心に三人が消えた部屋へと走る。壊さんばかりに戸を開けると、頬に小刀をあてられた若者が涙の溜まった目で秋司を見つめていた。
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