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第二章 寺小姓立志譚
1.深窓の寺小姓(二)
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――暑っ。まだ五月だってのに、もう夏みてぇじゃねぇか。
諒は首にかけた手ぬぐいで、流れる汗をぬぐう。
表庭にかかりっきりの親方や兄弟子たち。その現場をこっそり離れて中庭に回り込んだ諒は、木陰を探して一息つこうと決めた。
背中と襟元に大きく屋号を染め抜いた、黒の庭師半纏。ぴらぴらするのがうるせえや、と細帯で締め付けた腰から下には藍色の股引をぴったり履き込んでいる。
ちょうど二十歳になる諒は、いかにも江戸っ子風情の若き植木職人だ。諒はお誂え向きの場所を探し、日に焼けた顔を左右に向けながら、ぐるりとあたりを見回した。
親方の上得意様のひとつ、谷中清沙院。そのお庭が今日からしばらく諒の仕事場となる。
今回親方はいつものお手入れに加え、大がかりな改装の話を引っ張ってきた。猫の手でも借りてぇからさ、と、いつもはこの現場に来ない諒にまでお呼びがかかったのだ。
――こりゃ確かに大仕事だぜ。やってもやっても終わらねえ。
けどまぁこの分じゃ…
はは、しばらく誰も中庭までは来られませんよ、っと。
広い中庭の奥まった一角には、今や盛りと咲き誇る大きなつつじ山があった。
――おお。あそこの裏手に入りゃ、表から見えねぇから…ちょうどいいかもな。
諒は足早につつじ山の裏へ回り込む。ところがそこには意外なことに、すでに先客がちょこんと座り込んでいた。
袖の袂に細竹の意匠がほどこされた、涼しげな深青の振袖に水色の袴姿。ゆったりと結いあげた前髪の下のおでこが心地良さげに温かい日差しを受けていた。
美しい女の様子は色とりどりに咲き誇るつつじを脇にして、まるで美人画の中からそのまま抜け出してきたかのようだ。諒は口をぽっかり開けて、ぼんやりその女を見つめる。
――見たこともねぇぐらい、綺麗な女だな…。
女は形の良い口元につつじの花をあてがい、そっと蜜を吸おうとした。
「あっ…! そりゃ駄目だって、お嬢さん!」
諒はとっさに女の元に走り寄り、つつじを持ったその手をぐっと掴んで引き寄せる。
「えっ…?」
女はそのまま、諒の胸に倒れ込んだ。女の着物に焚きしめられた、香のかぐわしさがふわりと諒を包む。夢見心地で目を閉じた諒は、次の瞬間はっと我に返った。
「わ、悪りぃ、ごめんな!」
弾かれたように女の体から身を離すと、諒は慌てて飛びのいた。
「つつじの蜜は、毒があるんだよ。だからさ…」
目を見開いて諒を見つめていた女は、ふっと表情をやわらげにっこり笑った。
「…そうなんだ。知らなかったな、ありがとう! だけど僕…お嬢さん、じゃないよ」
――僕…? 聞き慣れねぇ言い方しやがるな。
いぶかしがる諒は女をまじまじと見る。と、女の白い喉元に小さな、しかし見紛うことなき喉仏を見つけた。
「あ? 何だよ、お前ぇ、男なのか!」
反射的に言葉を放った諒は、次の瞬間さあっと青ざめた。
――やっちまった、またこの口が!
いっつも親方に言われてんのに、三つ数えてから喋れって…。何で気付かねぇんだ、どう見てもこいつぁ、寺小姓じゃねぇか!
寺小姓と言えば、御院主様のお側付き。きっとどこかの武家の御子息に違いない。いくら驚いたとはいえ、そんな口のきき方はあり得なかった。
諒は慌てて首にかけた手ぬぐいをはずし、深く深く頭を下げる。
「す、すいやせんっ! つい…」
相手はさも面白そうに、けたけたと笑った。
「あはは、忙しくって、面白い人だね。ね、お名前は?」
「り、諒って言いやす」
「諒さん。何だか素敵なお名前。僕は、珠希」
すっ、と差し出された右の手をどうしろというのか、諒にはよく分からなかったが、とりあえずぱんぱんと手についた土をはたき、両手で握ってみる。
「うわ」
ひんやり冷たいその手はありえぬほどすべすべしていて、驚いた諒は思わず手を離した。
「わあ、熱烈な握手だね。僕だけ片手じゃ失礼か」
珠希は両手で諒の手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
「あの…一体ぇこりゃあ、何の真似で…?」
「やだな、ふふ、錦絵にあるじゃない。ペリーさんとか、外国の方たちの御挨拶」
「外国…、錦絵…」
普段諒が仲間と交わす会話とは、あまりに内容が違いすぎる。
――さすがは寺小姓…。
噂に高い寺小姓を町で見かけたことはあった。しかし直接話すのは、さすがに初めてだ。
「諒さん、目がまんまるになってる。そんなに開けたら、目玉が零れ落ちてしまうよ?」
座り込んだままの珠希から上目遣いにじいっと見つめられ、諒はぞくぞくっと、何だか妙な心持ちになった。
「ね、ここへ来て座って? 僕の隣へ」
珠希は自分の隣の芝生をぱんぱん、と叩く。
「は、はい…失礼しやす」
「そんな、丁寧な言葉を使わなくてもいいよ。僕はただの寺小姓。お主さまじゃないし」
「いや、そうは言っても…」
まごつく諒の様子をちらっと横目で見ると、珠希はきゅっと膝を抱え、その上に左の頬をとん、と乗せた。諒を切なく見上げる長いまつげが、悲しげにしばたく。
「諒さんは…僕とお友達になるのが、嫌なの?」
珠希はすとん、と視線を落とし、うなだれるようにうつむいた。
――わ、何だよ、泣くのか?
諒は大いに焦る。
「分かった、分かったよ、普通に喋るからさ、泣くなよ…」
「ふふ、そうだよ諒さん、その調子。僕のことは珠希って、呼び捨てにしてね」
珠希はさも満足げに、にっこりと笑った。
諒は首にかけた手ぬぐいで、流れる汗をぬぐう。
表庭にかかりっきりの親方や兄弟子たち。その現場をこっそり離れて中庭に回り込んだ諒は、木陰を探して一息つこうと決めた。
背中と襟元に大きく屋号を染め抜いた、黒の庭師半纏。ぴらぴらするのがうるせえや、と細帯で締め付けた腰から下には藍色の股引をぴったり履き込んでいる。
ちょうど二十歳になる諒は、いかにも江戸っ子風情の若き植木職人だ。諒はお誂え向きの場所を探し、日に焼けた顔を左右に向けながら、ぐるりとあたりを見回した。
親方の上得意様のひとつ、谷中清沙院。そのお庭が今日からしばらく諒の仕事場となる。
今回親方はいつものお手入れに加え、大がかりな改装の話を引っ張ってきた。猫の手でも借りてぇからさ、と、いつもはこの現場に来ない諒にまでお呼びがかかったのだ。
――こりゃ確かに大仕事だぜ。やってもやっても終わらねえ。
けどまぁこの分じゃ…
はは、しばらく誰も中庭までは来られませんよ、っと。
広い中庭の奥まった一角には、今や盛りと咲き誇る大きなつつじ山があった。
――おお。あそこの裏手に入りゃ、表から見えねぇから…ちょうどいいかもな。
諒は足早につつじ山の裏へ回り込む。ところがそこには意外なことに、すでに先客がちょこんと座り込んでいた。
袖の袂に細竹の意匠がほどこされた、涼しげな深青の振袖に水色の袴姿。ゆったりと結いあげた前髪の下のおでこが心地良さげに温かい日差しを受けていた。
美しい女の様子は色とりどりに咲き誇るつつじを脇にして、まるで美人画の中からそのまま抜け出してきたかのようだ。諒は口をぽっかり開けて、ぼんやりその女を見つめる。
――見たこともねぇぐらい、綺麗な女だな…。
女は形の良い口元につつじの花をあてがい、そっと蜜を吸おうとした。
「あっ…! そりゃ駄目だって、お嬢さん!」
諒はとっさに女の元に走り寄り、つつじを持ったその手をぐっと掴んで引き寄せる。
「えっ…?」
女はそのまま、諒の胸に倒れ込んだ。女の着物に焚きしめられた、香のかぐわしさがふわりと諒を包む。夢見心地で目を閉じた諒は、次の瞬間はっと我に返った。
「わ、悪りぃ、ごめんな!」
弾かれたように女の体から身を離すと、諒は慌てて飛びのいた。
「つつじの蜜は、毒があるんだよ。だからさ…」
目を見開いて諒を見つめていた女は、ふっと表情をやわらげにっこり笑った。
「…そうなんだ。知らなかったな、ありがとう! だけど僕…お嬢さん、じゃないよ」
――僕…? 聞き慣れねぇ言い方しやがるな。
いぶかしがる諒は女をまじまじと見る。と、女の白い喉元に小さな、しかし見紛うことなき喉仏を見つけた。
「あ? 何だよ、お前ぇ、男なのか!」
反射的に言葉を放った諒は、次の瞬間さあっと青ざめた。
――やっちまった、またこの口が!
いっつも親方に言われてんのに、三つ数えてから喋れって…。何で気付かねぇんだ、どう見てもこいつぁ、寺小姓じゃねぇか!
寺小姓と言えば、御院主様のお側付き。きっとどこかの武家の御子息に違いない。いくら驚いたとはいえ、そんな口のきき方はあり得なかった。
諒は慌てて首にかけた手ぬぐいをはずし、深く深く頭を下げる。
「す、すいやせんっ! つい…」
相手はさも面白そうに、けたけたと笑った。
「あはは、忙しくって、面白い人だね。ね、お名前は?」
「り、諒って言いやす」
「諒さん。何だか素敵なお名前。僕は、珠希」
すっ、と差し出された右の手をどうしろというのか、諒にはよく分からなかったが、とりあえずぱんぱんと手についた土をはたき、両手で握ってみる。
「うわ」
ひんやり冷たいその手はありえぬほどすべすべしていて、驚いた諒は思わず手を離した。
「わあ、熱烈な握手だね。僕だけ片手じゃ失礼か」
珠希は両手で諒の手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
「あの…一体ぇこりゃあ、何の真似で…?」
「やだな、ふふ、錦絵にあるじゃない。ペリーさんとか、外国の方たちの御挨拶」
「外国…、錦絵…」
普段諒が仲間と交わす会話とは、あまりに内容が違いすぎる。
――さすがは寺小姓…。
噂に高い寺小姓を町で見かけたことはあった。しかし直接話すのは、さすがに初めてだ。
「諒さん、目がまんまるになってる。そんなに開けたら、目玉が零れ落ちてしまうよ?」
座り込んだままの珠希から上目遣いにじいっと見つめられ、諒はぞくぞくっと、何だか妙な心持ちになった。
「ね、ここへ来て座って? 僕の隣へ」
珠希は自分の隣の芝生をぱんぱん、と叩く。
「は、はい…失礼しやす」
「そんな、丁寧な言葉を使わなくてもいいよ。僕はただの寺小姓。お主さまじゃないし」
「いや、そうは言っても…」
まごつく諒の様子をちらっと横目で見ると、珠希はきゅっと膝を抱え、その上に左の頬をとん、と乗せた。諒を切なく見上げる長いまつげが、悲しげにしばたく。
「諒さんは…僕とお友達になるのが、嫌なの?」
珠希はすとん、と視線を落とし、うなだれるようにうつむいた。
――わ、何だよ、泣くのか?
諒は大いに焦る。
「分かった、分かったよ、普通に喋るからさ、泣くなよ…」
「ふふ、そうだよ諒さん、その調子。僕のことは珠希って、呼び捨てにしてね」
珠希はさも満足げに、にっこりと笑った。
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