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第二章 寺小姓立志譚

1.深窓の寺小姓(一)

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「それでね、おしゅさま。僕、仕方がないから、また貸本屋のおじさんに御本を持ってきてもらって、ずっと読んでいたんです」

 年の頃は十八を迎えたばかり。色づく頬に美しい笑みを浮かべながら、少し高めの明るい声で楽しげに話す美少年がひとり。寝間着にしている絹の白い長襦袢ながじゅばんが、華奢なその身を包む。
 彼は前髪立ちの若衆わかしゅ。大人になる十五を過ぎても敢えて幼げに前髪を残し、女髷おんなまげのようにふんわりと結いあげている。色白の可愛らしい顔立ちにそれは良く似合っていた。
 大きく澄んだ目に、すっと整った鼻筋。薄い唇は赤く色づいて、花のような笑顔は思わず相手を微笑ませる。知性と品を充分に備えつつ、くるくると動くその表情にはいまだ少年の無邪気さをも残していた。

 大人と子ども。男と女。その狭間を自在に行き来する寺小姓てらこしょう珠希たまきの魅力は、谷中清沙院やなかせいさいん院主いんじゅ慈風じふうの心を強く捉えて離さない。

 僧侶が女性と交わることは破戒はかいであり、公儀からも重罪と定められていた。けれども相手が男であれば禁には触れぬ。江戸の世で、僧侶は華やかなりし男色文化なんしょくぶんかの大きな担い手となった。
 僧侶らは美しい男娼だんしょうである陰間かげまの居並ぶ陰間茶屋かげまちゃやを上客として支え、さらには寺小姓という存在も産み出すことになる。

 主君に仕えるがごとく、刀を携え住職の側近くに仕える寺小姓。彼らは時にその寝所にもはべった。
 何しろ行儀作法に始まり、様々な手習いや教育が受けられるし、己の魅力が盛りを過ぎてしまえば自然と年季も明ける。その際にはこれまで可愛がられた分、安定した就業先や手堅い婿入り先を整えてもらえるとなれば、そこに勝機を見い出す者も出る。

 たとえばいつまでも実家にいては生涯何者にもなれぬ、弱小な武家の三男坊。彼らは敢えて大きな寺の寺小姓の御役に就くことで人生の一発逆転を賭け、盛んに住職の寵愛ちょうあいを競う。寺に彼らを託す親とてその思いは同じなのだった。

 うっすらとほどこす化粧、愛らしい前髪、はかまに合わせる洒脱しゃだつで華やかな振袖姿。浮世離れしたその佇まいは、美しい少年だけに許される寺小姓ならではの装いだ。
 美麗な寺小姓を脇に従えることは、住職らにしてみれば豊かさと高い寺格じかくの象徴であり、成功の証でもある。
 並みの者には手の届かぬ雲の上の美少年。そのためか寺小姓にまつわる物語はどれも、彼らに焦がれた者たちが陥る無間地獄を描いていた。

 たとえば明暦三年の「明暦の大火」、別名「振袖火事」にまつわる物語。
 上野寛永寺うえのかんえいじの奥深く住まう美しい寺小姓を見かけ、一瞬で心を奪われた町娘のお菊。叶わぬ恋に身を焦がしたお菊は、せめてもの慰めにと寺小姓と同柄の振袖を仕立てる。ぎゅうと振袖をかき抱き、会うことすら叶わぬ寺小姓への恋に身を焼くお菊は、とうとう病にせてこの世を去った。
 お菊の死後しばらくして古着屋に売り払われた因縁の振袖。だがその振袖を買った娘らが、お菊と同じぴったり十六で次々と早逝そうせいしていく。

 ――この振袖は、何かがおかしい…。

 人々はお菊の情念を供養しようと、振袖を火にくべた。しかし火に身をよじる振袖が突如ぶわりと妖風ようふうに舞い上がる。
 届かぬ寺小姓になおもその手を伸ばすがごとく燃え広がる炎。燃え盛る火は触れるもの全てを灰に変えながら、大江戸の町を焼き尽くしたのだという。

 そしてもうひとつ。
 井原西鶴いはらさいかくの「好色五人女こうしょくごにんおんな」に載ったことで広く世に知れ渡り、幾度も歌舞伎や人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり戯作げさくの題材に取り上げられた「八百屋お七」の物語。
 天和てんなの大火で焼け出され、とある寺に避難した江戸本郷ほんごうの八百屋の娘お七。お七は非日常の暮らしの中で、美しい寺小姓とうたかたの恋に落ちる。
 自宅が再建され、寺での暮らしが終わりを告げても忘れ得ぬ寺小姓の面影。お七は思い詰めたあげく、ひとつの結論に至った。

 ――ああ…そうだ。また、火事になればいい。
 家が焼ければ寺に行ける。あの人に、会える…。

 理性を失い、付け火の重罪を犯したお七。お七は捉えられ、自らの情念に身も心も焼かれるように、鈴ヶ森刑場すずがもりけいじょうで火あぶりとなった。

 いずれの物語においても、寺小姓が何をしたというわけではない。寺小姓はただそこにいるだけで、人の情念をかき立て事件を呼ぶのだ。

 江戸の世に美しく、妖しくその存在を光らせた寺小姓。珠希もまた、その御役目においては彼らの系譜を継ぐ者のひとりなのだった。

 慈風の自室は中庭に建つ離れにある。その部屋でうつ伏せになった慈風の広い背中を揉みながら、珠希はとりとめもないおしゃべりを熱っぽく続けていた。

「それがね、お主さま。おじさんたら、また御禁制の人情本の写本をこっそり持ってきてくれたんですよ。僕の大好きな恋愛物のお話を。主人公は町火消の粋な男で、たまにすごく優しいのにいつもはとってもつれなくて、挿絵も素敵で…ふふっ、僕、もうすっかりうっとりしちゃいました」

 珠希の話に優しく相槌を打つ慈風は、大人の余裕をたたえた三十路の男盛りだ。
 清沙院は浄土真宗の寺である。真宗はその独自の教義で、僧に対し敢えて肉食妻帯にくじきさいたい、つまりは教え導く門徒もんとらと変わらぬ暮らしをいとなめと説いている。
 ゆえに公儀もそれを尊重し、御禁制の妻帯が暗黙の了解としてお目こぼしされていた。

『困るねぇ。慈風様が奥様をお迎えにならなけりゃ、あたし達の煩悩ぼんのうは募るばかりだよ』

 門徒の女性らがお決まりの笑い話にするほど、彫りの深い目鼻立ちをした美僧、慈風。先代院主である父がずいぶんと歳を重ねてからの子どもだった慈風は、三十路の若さで院主の座を継ぐことになった。

『この先のこともある。慈風様にはそろそろ身を固めていただかなくちゃいけないね』

 寺を支える門徒たちのあいだで交わされるそんな囁きを、慈風自身も無論知っている。世襲の家に生まれた者の宿命として、跡継ぎを心待ちにする皆の思いも分からぬではなかった。しかし慈風が女性を側に置くことはない。

 慈風は全ての女性に分け隔てなく温かい微笑みを絶やさなかったが、それは誰に対しても一線を置いているのと同義なのだった。

「人情本、か…」

 慈風はふと珠希をからかいたくなって、わざと眉根を寄せ苦々しげな声色を作る。
 
「人情本は風紀を乱すからと、御公儀が幾度も御禁制にしているけれど…もっともなことかもしれないね。珠希はいつだって、ひどく熱に浮かされたようになる。あまり読むのは関心しないな。貸本屋にもよく注意しておかなければ」

「え…? お主さま…?」

 珠希は心から驚き、切なげに胸の前で手を合わせた。

「そんな…ねえ、お主さまお願い、おじさんを叱らないで…だって、だって、お主さまがお忙しすぎるからいけないんですよ、僕をずっとお寺の奥に放っておくから…だから僕、さみしくて…おじさんは、そんな僕を可哀想に思って、僕の好きな御本を持ってきてくれただけなのに…」

 今にも泣き出しそうな珠希。慈風は体を横向きに起こし、楽しげにふふ、と笑った。

「…嘘だよ、珠希。ほんの冗談だ」

「冗、談…」

「済まなかったね、寂しい思いをさせたのは私なのに…ついお前をからかってしまった。もちろん貸本屋を叱ったりはしない。珠希は好きな本をいくらでも、好きなように読めばいいんだから」

 珠希の顔が、ぱっと明るくなる。

「ほんとうに? ああ…ああ、良かった! まるで知らないお主さまみたいで…ああ、まだこんなにどきどきしてる…」

 胸に右手を当てた珠希は、甘えるように慈風の体を揺すった。

「意地悪は嫌です、お主さま。僕の好きなお主さまは、お優しいお主さまなんですからね?」

 慈風は揺れながら、そっと視線を落とす。

「優しいだけか。珠希の読んだ人情本の主人公とは、ずいぶん違うけれど…」

 手を止めた珠希は、からかうような瞳で慈風を覗き込んだ。

「ね、お主さまったら…もしかして妬いてらっしゃるの?」

 慈風は珠希の左手を掴み、ぐっと自分のほうへ引き寄せる。

「…おいで、珠希」

「…もう…仕方がないなあ、お主さまは」

 微笑む珠希は少しだけ焦らすように、蝶に結んだ腰紐の垂れをくるくる指に巻き付けて、やがてそのまますうっと下に引いた。
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