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第一章 遠邊家顛末記

5.流砂(一)

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「あの…おこらないで、きいて…?」

 ことの終わりに半身を起こした翠は、乱れた髪を押さえつつ、ふっと瞳を逸らした。

「あたし、やや子が、おなかに」

 一瞬何を言われているのか分からずに、誠之助はぼんやりと翠を見つめる。

「誠之助さまの、やや子が…」

 翠はいやいやをするように、誠之助の胸に顔をうずめた。

「流すのは、いや…。だから、おこらないで、ね?」

 衝撃が熱く誠之助の中を走った。

「身ごもったのか、私の…子を!」

 こくり、とうなずく翠。

「あたしのところにきてくれるのは、誠之助さまだけ…」

 博打で得た資金により、ここふた月ばかりかなり足しげく翠の元へと通えていた。何故だか今のところ全く負け知らずなのだ。
 懸命に他の客を取らずにいてくれたのかもしれない。体調がすぐれぬとでも言って、ごまかしているのだろうか。 

 ――気づかぬところで苦労をさせていた。
 誠之助は翠を腕の中に固く閉じ込めた。

「子…か。そうか、翠…」

 翠はおずおずと誠之助を見上げる。

「誠之助さま…あたしを、しからない?」

 優しく翠の頭を撫でる誠之助。

「ふふ、どうして叱るんだ。少し驚いたけれど…嬉しいよ、むしろ」

 ほっとしたように微笑んだ翠は、再び悲しげに顔を曇らせた。

「なら、誠之助さまが…あたしをここから、だしてください」

 翠は、ぽつりとつぶやいた。

「そうしないと、流せって、いわれちゃう…」

 ――これはもう、天啓なのかもしれぬ。
 誠之助は心に押し込めていた望みを口に上らせる。
 
「大丈夫だ、翠。私もそうしたいと…お前をここから出したいと…思っていたんだ」

 堰を切ったように流れ出す言葉。何だか少し楽になったような気がする。満ち足りた思いで誠之助は息をついた。

「一緒にここを出よう、翠。そして…私たちの子と共に…三人で幸せに暮らそう。江戸を出て…どこか遠い、遠い場所で」

「誠之助、さま、そんなこと…できるの? ほんとうに?」

「ああ。きっと…きっと、何とかしてみせる」

 ――幸せに…なりたい。冷えきった場所から逃れ、翠と二人、温かい場所で…生きていきたい。

「何とかなる。何とか、なるはずだ」

 翠を胸にかき抱きながら、まるで自分に言い聞かせるかのように、誠之助は同じ言葉を幾度も繰り返した。

「あたしの、剣士さま…」

 誠之助の頬にそっと手を触れながら、翠は幸せそうに笑う。

「誠之助さま、あたし、がんばる…。やや子をまもって、誠之助さまを、ここで、まってる…」


 ***


「朝陽、朝陽っ!」

 駆け出すように妓楼から出た誠之助は、外で待っているはずの朝陽を必死に探す。

「誠之助様…どうしたんです? 大声出して」

 路地裏からぬっと出てきた朝陽は、血相を変えた誠之助の顔を見てふっと笑った。

「子どもみてぇに…何かあったんですか?」

 誠之助は朝陽に縋りつく。

「身請けがしたい。翠を…廓の外に請け出したい」

「はは…やだな、熱くなっちまって。ま、思いますよね、いっぺんは。けど…無理ですよ。尋常じゃない金がかかるんだから」

「本気だ、本気なんだ。翠を請け出さなきゃ…」

「ったく…。だけどさ誠之助様。身請けしたとして…一体ぇそのあとどうするおつもりなんです? どうせどうにもならない…」

 誠之助は爪が食い込むほど強く拳を握る。

「私は…遠邊家を捨てる。翠を連れ、母上のお里…上州の村へ行く。母上のお力を借りながら…翠と共に温かい家を作りたい」

「上州の、村…?」

 朝陽はふんと鼻を鳴らした。

「へえ、驚くねぇ。武家のお坊ちゃまが百姓の真似ごとでもなさるんですか? はは、そんなの…夢物語だよ。生半可な暮らしじゃねぇんだぜ? すぐ音を上げるに決まってらあ」

 気分を害したように顔をしかめる朝陽。誠之助は懸命に言葉をつないだ。

「朝陽…決して百姓の暮らしを見くびっているわけじゃない。朝陽が言うんだ、きっととても辛いのだと思う」

 泣き出しそうになりながら、誠之助は心の内をとつとつと朝陽に打ち明ける。

「でも遠邊家での暮らしだって…私には辛かった。身を切られるように日々悲しかった。でも朝陽、私は耐えたよ。今日まで耐えられたんだ…私ひとりきりでも」

 誠之助は朝陽の両手を取ると、激情をぶつけるかのように幾度もその手を揺らした。

「でもこれからは翠がいる。ひとりじゃないんだ、だから信じている、私はもっと強くなれる、翠と二人なら今より辛いことだって…きっと乗り越えられる」

 誠之助の言葉を黙って聞いていた朝陽は、探るようにその目をじっと覗き込む。

「…けど、翠の気持ちは…どうなんです。あいつも…それを望んでるんですか」

 誠之助は強くうなずいた。

「ああ。実は…廓の者には秘密だが…翠が身ごもったんだ、私の子を」

「…っ!」

 朝陽は大きく目を見開く。

「知らぬところで他の客を断ってくれていたらしい。私の子であることは確実なようだ。子を流したくないと…あの翠が、懸命に廓の者から子を守り、私が身請けする日を信じて…ひとりあの部屋で待っているんだ」

 しばらく黙りこくっていた朝陽は、やがて低い声でぽつりと呟いた。

「いつの間に…そんな、ことに…」

 ゆっくりと視線を宙に彷徨わせた朝陽。

「それは、色々と…確かめなきゃな…」

 自らに言い聞かせるかのように、うなずく。

「俺…妓楼の女将に…身請けのこと、確かめてきます。話、長くなるかもしれねぇから…誠之助様は、いつもの茶屋で…待っててください。いいですか、俺に任せて…誠之助様は大人しく…待っててくださいよ」

 朝陽は妓楼の中へ一心不乱に走りこんだ。


 ***
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