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第三話
賽の目(3)
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いつものように晴明は陰陽寮の書庫にこもっていた。
その日は特に急ぎの仕事もなく、一〇〇年ほど前に暦博士であった刀岐浄浜が書いたとされる陰陽道の書物を読みながら、退勤時間が来るのを待っていた。
晴明殿はやる気があるのか、無いのかわからない。若い陰陽師たちが、そう囁きあっている。その話を晴明の耳に入れたのは、葛道真であった。
普段、道真と晴明が親しくしている姿を他の陰陽寮の者たちがいる前では見せてはいない。何か用がある時は、道真が書庫へやってくるのだ。いつも布作面をつけている道真の表情を読み取ることはできない。そのため、同じ天文得業生や他の陰陽寮の人間たちは道真のことを腫れ物扱いしている節があった。道真はそのことを気にしてはいなかったし、その方が馴れ合いなどもなく楽だと晴明には告げていた。
きょうは書庫に道真が訪ねてくることもなく、静かに晴明は書を読み続けている。
しばらくすると、刻を知らせる守辰丁が銅鑼を鳴らす音が聞こえてきた。
読みかけであった書を棚に戻すと晴明は書庫を出て、帰宅をする支度をはじめた。すでに日は傾きはじめており、退勤時間なのだ。
陰陽寮の建物を出て、大内裏の朱雀門を抜けると、そこは京中となる。朱雀大路を羅城門に向けて真っ直ぐ歩き、途中の東市で川魚の干物を買い求める。屋敷に帰れば家人の作った夕食が待っているが、酒の肴を買って帰るのが晴明のひとつの楽しみでもあるのだ。
ちょうど屋敷に着く頃には夜の帳も下りて、辺りは真っ暗になる。
今宵は新月だ。月明かりは無い。
晴明は屋敷の縁側に腰を下ろすと、兼家より貰った酒の入った瓶を用意し、買ってきた川魚の干物を焼くように家人に命じる。
月明かりのない夜空は、星の姿がよく見える。吉平が帝の星と名付けた星も良く輝いていた。
庭に気配があった。晴明が目を凝らすと、そこに人がいるのがわかった。闇の中にいるのは、晴明に仕える式人である。それは闇の中に影のように溶け込む背丈の小さな男だった。
「どうかしたか」
「葛道真様がこちらへ向かってきております」
「ほう、道真が」
珍しいこともあるものだと晴明は思った。普段、道真が陰陽寮の書庫で声を掛けてくることはあるが、晴明の屋敷を訪ねて来るのは初めてのことであった。何か特別な用事でもあるのだろうか。そんなことを思いながら、晴明は道真を迎える準備をはじめた。
「何か道真について噂を聞いていたりはせぬか」
「特には……」
そこまで言いかけて、式人は何かを思い出したような顔をしてみせた。
「どうした」
「そういえば、本日の昼間に道真様が賀茂保憲様の屋敷に向かったと、他の者が申しておりました」
「ほう、保憲のところにも顔を出しているのか」
これは何かあるな。晴明はそう思い、懐の巾着袋から賽子を取り出して振ってみた。出た目は、別れを意味する目だった。そういうことなのか。晴明は小さくため息をつくと、家人を呼んで縁側に宴席の用意をさせることにした。
しばらくすると、家人が来客を告げた。すでに晴明は道真が来ることを知っていたので、縁側まで案内するように家人に告げる。
「夜分に失礼いたします」
家人に連れられて道真が入ってきた。
「よい。座れ」
晴明はそう言うと、道真に盃を取らせた。
「どなたか、客人が来られる予定でしたか」
「いや、お前が来るのを待っていたのだよ」
「まさか……」
「その、まさかさ」
そう言って晴明は笑って見せる。
「ほら、さっさと座れ」
晴明は道真を座らせて、盃に酒を満たしてやると、自分の盃にも酒を注いだ。
この時ばかりは、道真も布作面と取って自分の脇に置いた。顔の半分以上が火傷のせいで爛れた皮膚となっており、目や鼻、口といった部分はわかるがそれ以外の凹凸は失われていた。
そんな道真の顔を見ても晴明は驚かなかった。火傷したばかりのもっと酷い時の顔を見ているし、特に見た目がどうといったことを晴明はあまり気にしない男なのだ。
「さあ、飲もう」
そう言って晴明が盃を唇へと運ぶと、道真も同じように盃を傾けた。
しばらくの間、ふたりは無言で酒を飲んだ。酒は兼家より貰ったものの残りであり、肴は晴明が東市で買い求めてきたものを家人が炙ったものであった。
「晴明様、実は……」
「わかっておる。お前を一人前の陰陽師に出来なかったのは残念だ」
「すみません」
陰陽師になることを諦める。それを道真は否定しなかった。
「それで、どうするのだ」
「とりあえず、故郷へ帰ろうかと思います」
「たしか、生まれは播磨であったな」
「はい。もし、播磨にお立ち寄りすることがあれば」
「ああ。会いに行こう」
晴明はそう言って盃を呷った。
「大したものはやれんが、餞別だ」
「これは」
懐から晴明が取り出したのは巾着袋だった。道真は両手でその巾着袋を受け取る。
「泰山府君より授かりし、賽子よ」
「ありがとうございます」
晴明の口にした泰山府君とは道教の神のひとりであった。大陸より伝わった陰陽五行思想を基に作られた陰陽道は、道教の教えも共に伝わっており、その中でも晴明は泰山府君を信仰していた。泰山府君は長寿の神とされており、晴明は泰山府君の名のもとに健康に関する祈祷などをおこなったりもしていた。
その晩は遅くまでふたりで酒を飲み明かし、道真は晴明からもらった賽子の入った巾着袋を大事そうに握りしめていた。
第三話 賽の目 了
その日は特に急ぎの仕事もなく、一〇〇年ほど前に暦博士であった刀岐浄浜が書いたとされる陰陽道の書物を読みながら、退勤時間が来るのを待っていた。
晴明殿はやる気があるのか、無いのかわからない。若い陰陽師たちが、そう囁きあっている。その話を晴明の耳に入れたのは、葛道真であった。
普段、道真と晴明が親しくしている姿を他の陰陽寮の者たちがいる前では見せてはいない。何か用がある時は、道真が書庫へやってくるのだ。いつも布作面をつけている道真の表情を読み取ることはできない。そのため、同じ天文得業生や他の陰陽寮の人間たちは道真のことを腫れ物扱いしている節があった。道真はそのことを気にしてはいなかったし、その方が馴れ合いなどもなく楽だと晴明には告げていた。
きょうは書庫に道真が訪ねてくることもなく、静かに晴明は書を読み続けている。
しばらくすると、刻を知らせる守辰丁が銅鑼を鳴らす音が聞こえてきた。
読みかけであった書を棚に戻すと晴明は書庫を出て、帰宅をする支度をはじめた。すでに日は傾きはじめており、退勤時間なのだ。
陰陽寮の建物を出て、大内裏の朱雀門を抜けると、そこは京中となる。朱雀大路を羅城門に向けて真っ直ぐ歩き、途中の東市で川魚の干物を買い求める。屋敷に帰れば家人の作った夕食が待っているが、酒の肴を買って帰るのが晴明のひとつの楽しみでもあるのだ。
ちょうど屋敷に着く頃には夜の帳も下りて、辺りは真っ暗になる。
今宵は新月だ。月明かりは無い。
晴明は屋敷の縁側に腰を下ろすと、兼家より貰った酒の入った瓶を用意し、買ってきた川魚の干物を焼くように家人に命じる。
月明かりのない夜空は、星の姿がよく見える。吉平が帝の星と名付けた星も良く輝いていた。
庭に気配があった。晴明が目を凝らすと、そこに人がいるのがわかった。闇の中にいるのは、晴明に仕える式人である。それは闇の中に影のように溶け込む背丈の小さな男だった。
「どうかしたか」
「葛道真様がこちらへ向かってきております」
「ほう、道真が」
珍しいこともあるものだと晴明は思った。普段、道真が陰陽寮の書庫で声を掛けてくることはあるが、晴明の屋敷を訪ねて来るのは初めてのことであった。何か特別な用事でもあるのだろうか。そんなことを思いながら、晴明は道真を迎える準備をはじめた。
「何か道真について噂を聞いていたりはせぬか」
「特には……」
そこまで言いかけて、式人は何かを思い出したような顔をしてみせた。
「どうした」
「そういえば、本日の昼間に道真様が賀茂保憲様の屋敷に向かったと、他の者が申しておりました」
「ほう、保憲のところにも顔を出しているのか」
これは何かあるな。晴明はそう思い、懐の巾着袋から賽子を取り出して振ってみた。出た目は、別れを意味する目だった。そういうことなのか。晴明は小さくため息をつくと、家人を呼んで縁側に宴席の用意をさせることにした。
しばらくすると、家人が来客を告げた。すでに晴明は道真が来ることを知っていたので、縁側まで案内するように家人に告げる。
「夜分に失礼いたします」
家人に連れられて道真が入ってきた。
「よい。座れ」
晴明はそう言うと、道真に盃を取らせた。
「どなたか、客人が来られる予定でしたか」
「いや、お前が来るのを待っていたのだよ」
「まさか……」
「その、まさかさ」
そう言って晴明は笑って見せる。
「ほら、さっさと座れ」
晴明は道真を座らせて、盃に酒を満たしてやると、自分の盃にも酒を注いだ。
この時ばかりは、道真も布作面と取って自分の脇に置いた。顔の半分以上が火傷のせいで爛れた皮膚となっており、目や鼻、口といった部分はわかるがそれ以外の凹凸は失われていた。
そんな道真の顔を見ても晴明は驚かなかった。火傷したばかりのもっと酷い時の顔を見ているし、特に見た目がどうといったことを晴明はあまり気にしない男なのだ。
「さあ、飲もう」
そう言って晴明が盃を唇へと運ぶと、道真も同じように盃を傾けた。
しばらくの間、ふたりは無言で酒を飲んだ。酒は兼家より貰ったものの残りであり、肴は晴明が東市で買い求めてきたものを家人が炙ったものであった。
「晴明様、実は……」
「わかっておる。お前を一人前の陰陽師に出来なかったのは残念だ」
「すみません」
陰陽師になることを諦める。それを道真は否定しなかった。
「それで、どうするのだ」
「とりあえず、故郷へ帰ろうかと思います」
「たしか、生まれは播磨であったな」
「はい。もし、播磨にお立ち寄りすることがあれば」
「ああ。会いに行こう」
晴明はそう言って盃を呷った。
「大したものはやれんが、餞別だ」
「これは」
懐から晴明が取り出したのは巾着袋だった。道真は両手でその巾着袋を受け取る。
「泰山府君より授かりし、賽子よ」
「ありがとうございます」
晴明の口にした泰山府君とは道教の神のひとりであった。大陸より伝わった陰陽五行思想を基に作られた陰陽道は、道教の教えも共に伝わっており、その中でも晴明は泰山府君を信仰していた。泰山府君は長寿の神とされており、晴明は泰山府君の名のもとに健康に関する祈祷などをおこなったりもしていた。
その晩は遅くまでふたりで酒を飲み明かし、道真は晴明からもらった賽子の入った巾着袋を大事そうに握りしめていた。
第三話 賽の目 了
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