笑顔の向こう側

ゆん

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出会い編

ぶっきら王のスタンダード

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一段を上がるごとにだんだんと事務所が見えてくる。

間仕切りのないオープンオフィス。向い合せたデスクがずらーっと並んでるのはよく見る普通の会社と同じ。

でもそのデスクは事務机じゃなく下のカフェとお揃いみたいな黒いスクエア型で、コンクリート打ちっぱなしの壁に飾られた絵やあちこちに置かれた観葉植物、テナントそのもののおしゃれさが、ここがクリエイティブな仕事の空間であることを伝えてる。

みんなパソコンのディスプレイに顔を突き合わせて黙々とお仕事をしてて、時々僕に気付いた人がにこやかに微笑んで会釈した。

「こっち」

透さんが僕に肩を貸そうとしてふと考えるように立ち止まり、自分もジャケットを脱いだ。多分湿った上着に僕が触れて冷たくないように。でも僕は、その気遣いに感心しながらふわっと鼻に届いた匂いに圧倒されてた。

ワイシャツの上半身から香る爽やかなフレグランス。その微かな芳香に混じる、アルファの匂い。反射的に近寄って身を任せたくなるのに、勝手に身体が震え始めて恐怖を感じる。先に身体が反応して、気持ちが後からついてくる感じだ。

それは具体的な記憶を伴わない。思い出したくはないあの頃のことを振り返っても震えたりすることはないのに、アルファの持つ空気感や匂いには身体は敏感に反応した。

それを、透さんは濡れて寒いせいだと思ったみたいだ。

「やっぱり今日はやめるか。風邪をひかれても困るし」
「いえ!また改めてお時間を割いて頂くのも申し訳ないですし、僕の事は気にしないでもらえたら」

元気だってことを表すためににこっと笑ったら、分かったと言って僕に肩を貸し、僕は僕で相変わらず震える体に治まれ、治まれと念じながら透さんの案内する部屋まで歩いた。

そこは一見するとモデルルームみたいな感じで、奥にはベランダに続く掃き出し窓があって、ソファやローテーブル、ダイニングテーブル、キッチン……奥の部屋にはベッドもあった。透さんの話では、ここは応接室兼、会議室兼、社員の宿泊室兼、コーディネイトの実験や機材の性能チェック室になっているらしい。

透さんは僕をダイニングの一席に座らせて天井の明かりをてきぱきと調整し、電気スタンドとパソコン、字の読みやすさをチェックするための適当な書類を用意して照度計を使いながら色や明るさについて細かく訊いた。

僕は電球の色合いの違いがこんなにあることを知らなかったし、「こっちとこっちは?どっちがいい」と訊かれても首を捻りながらどっちだろうと考えるくらい差が分からないものもたくさんあった。

けど、透さんに ”どっちでもいいです” は禁句だって分かってたから、一生懸命判断した。苦手な選ぶという決断を、何回も何回も。



全部の質問項目に答えた後、透さんがノートパソコンをつついてまとめている間に部屋の中を見回してた僕は、壁にかかった一枚の絵に気付いた。

それはマティスのような色彩の静物画だった。包丁やしゃもじ、おたまなどのキッチン用品がカラフルに表現されてる、面白い絵。なんでもない題材なのにすごく新鮮。

そこに前にも感じたことがある ”あったかみ” を感じた。温度的なものじゃなくて、人……つまりは描き手の存在感。

絵の印象とはまた別の、気配のようなもの。

そうだ、透さんだ。これは透さんのあの新事務所の画像とか、玄関の絵とかに感じたやつだ。

「そちらの絵、透さんが描かれたものですよね」

僕が絵を見ながら訊ねると、少しの間を置いて「ああ」という短い返事が聞こえた。やっぱり。透さんの雰囲気とは違うのに同じ気配が漂うなんて、不思議だな。なんか、目に見えない名札みたい。

作業を終えたらしい透さんがパソコンを閉じ、機材を片付けて、おもむろに「なんで分かった」と訊いてくる。

一瞬、「なんで分かった」の ”なんで” がどこに繋がってるのか分かんなくて固まり、しばらくして絵の話だと気付いた。

「あ、なんとなく、なんですけど。今まで見た透さんの作品と同じ雰囲気を感じたので」
「作品?あぁ、天使の」
「はい。あと、新事務所のプラン別の画像ありましたよね。あれとか」

透さんはまたいつもの不躾なくらいの視線で僕をじりじり炙り、それから「照度の確認はこれで終わりだ」と言って部屋の電気を消し、また僕に肩を貸すべく傍に来て背を屈めた。

「送ってく。会社と家、どっちがいい」
「えっいいですよ!タクシー呼ばせて貰いますから!」
「元々送って行くつもりだった。そのための時間も取ってちゃんとスケジュールを組んでるんだから、余計な気は回さなくていい」
「そ、そうですか」

つっけんどんな物言いだけど、前よりちょっとだけ怖くなくなってる。これが透さんのスタンダードだって、分かってきたからかな。





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