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第一部
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僕が黙ってると、彼女は今度は怒ったように「なんとか言ったらどうなの」と僕を睨んでマグをローテーブルに置き、僕の方へ体を向けた。なんでも言ってこい、たちまち言い返してやる、とでも言ってるような挑戦的な目つき。僕はそれだけで戦意喪失だ。
「いや……ほんとにその通りなんで……」
「じゃあ、別れてくれるのね」
「や……それはできないです……」
「何故? あなたと一緒にいたら、透もその程度って判断されるのよ」
それは本当にそうなんだけど、僕は僕で彼を好きな気持ちだけは誰にも譲ることが出来なかった。むしろ僕は僕よりも、その気持ちの方が大事なんだ。たとえどれだけ僕をこき下ろされようとも。
「あなた。松崎さん、だったかしら。どうしたら透と別れて貰える? 別のアルファ男性を紹介して差し上げたいけど、あなたを気に入ってくださりそうな方に心当たりがないの」
「僕は透と別れるつもりはないです。透が別れたいって言うんじゃない限り」
「……そう。なら透と話すわ。それに、澄香ちゃんにも伝えておくわね。LiNEで繋がってるから」
僕は目をを見ていられなくなって俯いた。彼女……澄香さんに伝えるって、何を。透と話すって、僕と別れてくれって? 透が人に言われたからという理由で何かを決める所なんて想像出来ない。でも澄香さんは……例えば透とヨリを戻すようにって押されたら、動き出すんだろうか。
気まずい沈黙が流れる……いや、気まずかったのは僕だけだろうけど。彼女はスマホを素早い指の動きで操作してて、それはもしかすると澄香さんに送っているメッセージかもしれなかった。
透がもし元カノから連絡を貰ったとしたら。前よりももっと魅力的になった彼女が、ヨリを戻したいって言ってきたら。気持ちは絶対揺らがない? かけらも? 一度は結婚まで考えた相手からそう言われても?
彼女の方が身を引いたって言ってた。ってことは、透は彼女のことが嫌になって別れた訳じゃない。そんな相手が、やっぱり好きって言ってきたら。
僕は信じてる……というか、しがみついてる。透が僕を愛してくれる気持ちに。でも僕はオメガで透はアルファで、有無を言わさぬ本能的な結びつきがあるからこそ気持ちが上位にある保証がない。もし気持ちで彼女を求めて、でも体が僕を求めたら……透はどうするんだろう……?
悶々と考えてる僕の思考に割って入るように、階下で物音がした。どうやら、透が帰ってきたらしい。反射的にほっとして、少ししてから緊張する。
どうしようもないことだけど、澄香さんのことを知らせて欲しくなかった。今は疑いようもなく僕を愛してくれてる透に、余計なことを言って欲しくない。透が聞く耳を持ちませんように……そう願いながら、僕は早足で玄関に向かった。
鉄階段を靴が踏む確かな音を聞いて、玄関のドアを開けた。近くまで上って来てた透が顔を上げて、「中に入れたんだな」と小声で訊いてくる。
「うん……一応アトリエでって言ったんだけど……」
「まぁ、そうなるよな。悪かった。気ぃ遣わせて」
急いで来たことを裏付けるように透の額にはうっすら汗が滲んで、僕の横をすり抜ける時には纏っていた熱気がふわりと香る。それはそうだろう。外は、日が落ちてもまだまだ気温が高かった。
「雛子。お前、突然来るなよ。迷惑だ」
透の遠慮のない口調に、僕の方がドキリとする。そうか、彼女、雛子ちゃんっていうんだ。そう聞いてから、僕の方は名乗ったけど彼女の名前を聞いていなかったことに気付いた。
「透!」
雛子ちゃんは立ち上がってパタパタ駆け寄ると、透にぎゅっと抱き付いた。
「だって最近全然逢ってくれないじゃない。LiNEしてもスルーするし。ここに引っ越したことだって教えてくれてなかったし」
「お前に関係ないだろ。暑い。離れろ」
「嫌よ。前はお買い物とかドライブとか連れてってくれたのに、雛子寂しいんだから……!」
「学生のお前と違ってこっちは忙しいんだ。単純に時間がないからお前に付き合えない。それだけだ」
雛子ちゃんが放そうとしないのを、透はムッとした顔をしながらも許してる。その空気感が近くって、さすが兄妹だなって感じがする。
「とにかく。用事は何だ。この後仕事に戻らなきゃいけないんだから、早くしてくれ」
「この人と別れて」
雛子ちゃんは唐突に、きっぱりと言った。もちろん彼女のひとさし指は僕を指してる。どきっとした僕とは対照的に、透は眉ひとつ動かさずに「何言ってんだお前」と呆れた声で即答した。
「それこそお前には全く関係ない。用事がそれだけならもう帰れ。谷光を呼ぶから」
「関係あるわよ!透は私のものなんだから!大きくなったら結婚してくれるって言ったくせに!」
「いつの話をしてるんだ!ガキの頃のことだろ!」
「約束は約束よ!」
雛子ちゃんは大真面目で、涙を浮かべながら透に訴えてた。僕にも妹がいるから分かるけど、なんか女の子って無茶苦茶でパワーがあって、年齢関係なく勝てない感じがする。
透はおでこに手を当ててはぁ、とため息をひとつついた。
「雛子……また友達と何かあったのか」
透が抑えめの低い声で訊ねると、雛子ちゃんは俯くように透の胸に額を押し付けて黙り込んだ。まるでその通りだと、肯定するように。
「俺の所に来たって何も解決しない。相手と話し合うとか、それが無理ならいっそ開き直って一人でいるとか。自分でなんとかできるようになれよ」
「雛子は透がいたらいいもん」
「俺は困る」
「雛子は困らない!」
ぎゅーっと透を抱き締める雛子ちゃんは駄々っ子みたいになってて、透はイライラしてるような困ってるような顔をして腰に手を当てた。
話から想像するに、友達ともめたか、喧嘩したか……そういうことがあると雛子ちゃんは透を頼るらしい。結婚うんぬんは言ってるだけだとしても、透を本当に好きで信頼してることは、言葉や態度以上に雛子ちゃんの縋るような視線に現れてた。
「今度の休みに付き合ってやるから。取りあえず今日は帰ってくれ。マジで仕事が忙しいんだ」
「今度っていつ……?」
「今週の日曜の午前中だけなら空けられる」
「ええ~!?少ない!」
「うるさい!我が儘言うな!」
帰るぞ!と言って、透はとうとう雛子ちゃんを引き剥がし、白くて細い手首を掴むようにしてぐいぐい玄関の方へ歩いた。
「留丸。悪いけど玄関閉めといてくれる」
「もう!痛いってば!」
「分かった。あの、気を付けて」
怒涛の時間を経て玄関のドアが閉まると、家の中は途端にシンと静まり返った。透と雛子ちゃんがいた空気だけがもやもやと残って、それがゆっくり馴染んで寂しさに変わっていく。それは今までいた人がいなくなった寂しさであり、兄妹と他人との間にある壁が疎外感を生んだ余韻でもあった。
「いや……ほんとにその通りなんで……」
「じゃあ、別れてくれるのね」
「や……それはできないです……」
「何故? あなたと一緒にいたら、透もその程度って判断されるのよ」
それは本当にそうなんだけど、僕は僕で彼を好きな気持ちだけは誰にも譲ることが出来なかった。むしろ僕は僕よりも、その気持ちの方が大事なんだ。たとえどれだけ僕をこき下ろされようとも。
「あなた。松崎さん、だったかしら。どうしたら透と別れて貰える? 別のアルファ男性を紹介して差し上げたいけど、あなたを気に入ってくださりそうな方に心当たりがないの」
「僕は透と別れるつもりはないです。透が別れたいって言うんじゃない限り」
「……そう。なら透と話すわ。それに、澄香ちゃんにも伝えておくわね。LiNEで繋がってるから」
僕は目をを見ていられなくなって俯いた。彼女……澄香さんに伝えるって、何を。透と話すって、僕と別れてくれって? 透が人に言われたからという理由で何かを決める所なんて想像出来ない。でも澄香さんは……例えば透とヨリを戻すようにって押されたら、動き出すんだろうか。
気まずい沈黙が流れる……いや、気まずかったのは僕だけだろうけど。彼女はスマホを素早い指の動きで操作してて、それはもしかすると澄香さんに送っているメッセージかもしれなかった。
透がもし元カノから連絡を貰ったとしたら。前よりももっと魅力的になった彼女が、ヨリを戻したいって言ってきたら。気持ちは絶対揺らがない? かけらも? 一度は結婚まで考えた相手からそう言われても?
彼女の方が身を引いたって言ってた。ってことは、透は彼女のことが嫌になって別れた訳じゃない。そんな相手が、やっぱり好きって言ってきたら。
僕は信じてる……というか、しがみついてる。透が僕を愛してくれる気持ちに。でも僕はオメガで透はアルファで、有無を言わさぬ本能的な結びつきがあるからこそ気持ちが上位にある保証がない。もし気持ちで彼女を求めて、でも体が僕を求めたら……透はどうするんだろう……?
悶々と考えてる僕の思考に割って入るように、階下で物音がした。どうやら、透が帰ってきたらしい。反射的にほっとして、少ししてから緊張する。
どうしようもないことだけど、澄香さんのことを知らせて欲しくなかった。今は疑いようもなく僕を愛してくれてる透に、余計なことを言って欲しくない。透が聞く耳を持ちませんように……そう願いながら、僕は早足で玄関に向かった。
鉄階段を靴が踏む確かな音を聞いて、玄関のドアを開けた。近くまで上って来てた透が顔を上げて、「中に入れたんだな」と小声で訊いてくる。
「うん……一応アトリエでって言ったんだけど……」
「まぁ、そうなるよな。悪かった。気ぃ遣わせて」
急いで来たことを裏付けるように透の額にはうっすら汗が滲んで、僕の横をすり抜ける時には纏っていた熱気がふわりと香る。それはそうだろう。外は、日が落ちてもまだまだ気温が高かった。
「雛子。お前、突然来るなよ。迷惑だ」
透の遠慮のない口調に、僕の方がドキリとする。そうか、彼女、雛子ちゃんっていうんだ。そう聞いてから、僕の方は名乗ったけど彼女の名前を聞いていなかったことに気付いた。
「透!」
雛子ちゃんは立ち上がってパタパタ駆け寄ると、透にぎゅっと抱き付いた。
「だって最近全然逢ってくれないじゃない。LiNEしてもスルーするし。ここに引っ越したことだって教えてくれてなかったし」
「お前に関係ないだろ。暑い。離れろ」
「嫌よ。前はお買い物とかドライブとか連れてってくれたのに、雛子寂しいんだから……!」
「学生のお前と違ってこっちは忙しいんだ。単純に時間がないからお前に付き合えない。それだけだ」
雛子ちゃんが放そうとしないのを、透はムッとした顔をしながらも許してる。その空気感が近くって、さすが兄妹だなって感じがする。
「とにかく。用事は何だ。この後仕事に戻らなきゃいけないんだから、早くしてくれ」
「この人と別れて」
雛子ちゃんは唐突に、きっぱりと言った。もちろん彼女のひとさし指は僕を指してる。どきっとした僕とは対照的に、透は眉ひとつ動かさずに「何言ってんだお前」と呆れた声で即答した。
「それこそお前には全く関係ない。用事がそれだけならもう帰れ。谷光を呼ぶから」
「関係あるわよ!透は私のものなんだから!大きくなったら結婚してくれるって言ったくせに!」
「いつの話をしてるんだ!ガキの頃のことだろ!」
「約束は約束よ!」
雛子ちゃんは大真面目で、涙を浮かべながら透に訴えてた。僕にも妹がいるから分かるけど、なんか女の子って無茶苦茶でパワーがあって、年齢関係なく勝てない感じがする。
透はおでこに手を当ててはぁ、とため息をひとつついた。
「雛子……また友達と何かあったのか」
透が抑えめの低い声で訊ねると、雛子ちゃんは俯くように透の胸に額を押し付けて黙り込んだ。まるでその通りだと、肯定するように。
「俺の所に来たって何も解決しない。相手と話し合うとか、それが無理ならいっそ開き直って一人でいるとか。自分でなんとかできるようになれよ」
「雛子は透がいたらいいもん」
「俺は困る」
「雛子は困らない!」
ぎゅーっと透を抱き締める雛子ちゃんは駄々っ子みたいになってて、透はイライラしてるような困ってるような顔をして腰に手を当てた。
話から想像するに、友達ともめたか、喧嘩したか……そういうことがあると雛子ちゃんは透を頼るらしい。結婚うんぬんは言ってるだけだとしても、透を本当に好きで信頼してることは、言葉や態度以上に雛子ちゃんの縋るような視線に現れてた。
「今度の休みに付き合ってやるから。取りあえず今日は帰ってくれ。マジで仕事が忙しいんだ」
「今度っていつ……?」
「今週の日曜の午前中だけなら空けられる」
「ええ~!?少ない!」
「うるさい!我が儘言うな!」
帰るぞ!と言って、透はとうとう雛子ちゃんを引き剥がし、白くて細い手首を掴むようにしてぐいぐい玄関の方へ歩いた。
「留丸。悪いけど玄関閉めといてくれる」
「もう!痛いってば!」
「分かった。あの、気を付けて」
怒涛の時間を経て玄関のドアが閉まると、家の中は途端にシンと静まり返った。透と雛子ちゃんがいた空気だけがもやもやと残って、それがゆっくり馴染んで寂しさに変わっていく。それは今までいた人がいなくなった寂しさであり、兄妹と他人との間にある壁が疎外感を生んだ余韻でもあった。
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