となりの京町家書店にはあやかし黒猫がいる！

プロローグ

　春雨前線が三月の京都の町を包み込み、観光客の足をわずかに鈍らせた。でもここ、祇園ぎおんのど真ん中はいつだって多くの人で賑わっている。
　春休みの熱に浮かされた学生たち、親子連れ、外国人カップル、たくさんの人が、情緒あふれるこの町を訪れる。艶あでやかな着物を着た若者たちが店の前を通り過ぎるのを見ていると、ずっと京都に停滞している私の方が、観光気分に浸らせてもらえる。

　新しい春が来た。

　四月、雨が過ぎ去ったあとのこの町には、一斉に桜の花が咲き乱れた。
　特に円山公園まるやまこうえんの枝垂れ桜を見に来た人たちが、私の店でそばを食べながら、嬉しそうにカメラの手入れをしていた。

「うーん、今日もいい天気！」

　お昼時のラッシュ地獄が終わり外に出てみると、うららかな春の陽気が、新たな春の始まりを運んできてくれた。
　にゃおん。
　ふと、耳を掠める小動物の声に、はたと顔を向ける。
　毛並みの美しい黒猫だった。
　黒猫は、そば屋『やよい庵』の隣に新しくできた『三つ葉書店』という看板の掲げられた建物からのそのそと出てきた。
　黄金色の瞳、すんと澄ました表情、細いひげ、光沢のある毛。
　私と目が合うと、猫はくるりと瞳を動かした。

「猫ちゃん、おでかけするの？」

　にゃああん。
　私の問いかけに答えるようにした鳴いた猫は、そのままタタタッと正面の道を走っていってしまった。

「魚でもくすねてくるのかな」

　猫＝魚という単純な方程式が頭に浮かんだ私は、大きく深呼吸をするとまた『やよい庵』の中へと戻る。
　さあ、まだまだ今日の営業は続いていく。
　美人な猫を見て癒されたところで、夜の仕事も頑張りますかっ！
　心機一転、気持ちを新たにした私は、厨房へと戻り、夜の仕込みを開始した。
　まさかこの黒猫との出会いが、私の人生を揺るがす大きな原因となることすら、知らずに——。