たとえ私がいなくても

葉方萌生

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泣きそうな夜道

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***


 徹は会社に行く道すがら、コンビニでおにぎりを買うと、いつもより早足で職場へと向かっていた。

 今日から一ヶ月間、家事をストライキします。

 妻の美智子が月曜日の朝からとんでもないことを言って、徹の忙しいながらも平穏な日常は崩れ去った。
 ストライキ。
 労働者なら誰もが認められる当然の権利だ。徹の会社でも、何年か前に働き方改革を訴えて、全員でストライキを起こした。その結果、会社全体の就業規則が見直され、残業時間が減り、定時で帰れる日が増えたのは徹の記憶にも新しい。その時まで、ストライキは仕事をサボりたい人たちが勝手に仕事を放り出す行為だと思っていた。でも、ちゃんと労働基本権の一つとして認められていると知り、目から鱗だったのを覚えている。
 だが、それはあくまで会社で働いている労働者に当てはまるものだという認識しかなかった。まさか、専業主婦である美智子がストライキを発動させるなんて。法律で認められているわけではないけれど、妻のストライキを、ただごとではないと真摯に受け止める自分がいた。
 俺は、今まで美智子が家族のために働いてくれていると思いながら過ごしていたか?
 美智子に対し、感謝の気持ちを持てていたか?
 会社に着いて、コンビニで買ったおにぎりを素早く食べている最中も、美智子のストライキについて考えてばかりで、部下から声をかけられたことにも気づかなかった。

「……村さん。花村さん」

「え? あ、ああ。どうした?」

「大丈夫ですか? 朝から思い詰めた顔をしてますけど。そりゃ月曜日だから、誰だって憂鬱なのは分かりますよ? でも、鬱々とした気持ちが伝播するのでこれ以上はやめてくださいぁい」

 二十代前半の部下の、怖いもの無しの物言いに、徹は「はあ」とため息をつく。
 この子には、仕事以外で大した悩みがなさそうだ。まだ独身で、その気になれば素敵な男性と結婚できる。気になる異性との交際も、まだまだこれからだ。心底羨ましいと思う。

「あ、花村さん、今私に『悩みがなさそう』って思ったでしょ」

「な、なんでそれを……」

「はあ。もう、やめてくださいよ。私にだって悩みくらいありますからっ」

「たとえば?」

「今日発売の絶対売り切れる駅前のスイーツを買いたいのに、仕事があるせいで買えないことです」

「……」

 ……やっぱりこの人が羨ましい。
 海苔付きのおにぎりが喉に詰まらないようにごくりと飲み込むと、これまたコンビニで調達した緑茶を一気に注ぎ込む。
 ああ、昼ごはんも今日はお弁当がないのか。
 美智子が毎日作ってくれる愛妻弁当を、普段何の気なしに食べていた。朝七時台に出かける自分や祐樹のためにお弁当を作る労力がどれほどのものなのか、徹は考えたこともなかった。
 今日一日が、いや、今日から一ヶ月が思いやられるなぁ……。
 朝礼の間も、営業で外回りをしている時にも、頭の中ではずっと今朝の美智子の宣言がちらついて、集中できずに一日の仕事を終えた。
 帰りの電車の中で、一体美智子はどうして突然ストライキなんかしたのだろうと考える。行き着く答えは、「自分に対する復讐ではないか」というものだった。
 徹は、美智子と結婚した時から、一度も進んで家事をしてこなかった。いや、もっと正確に言えば、イヤイヤでさえ、家事をしてこなかったのだ。
 時代がそうだったと言っても、言い訳にはなるまい。確かに徹が結婚した当初は、まだ専業主婦の女性が多く、亭主関白気質な男がわんさかいた。現に、徹の同期の男たちのほとんどは、妻が専業主婦かパートをしている。そして彼らは皆一様に家事など全然しない。子供のオムツだって替えたことがない。それでも、働いて金を稼いでいるからいいのだと言い張るのだ。たばこ休憩の際に自信満々に言ってのける輩だっている。今の若い男の子たちが聞いたら、耳を疑うかもしれない。
 徹も多分に漏れず、家事や子育てについては常時美智子に任せきりだった。
 結婚の際に取り決めをしたわけでもなく、気づいたらまったく家のことができないおじさんに仕上がっていたのだ。
 それでも更生の機会はあったはずだ。
 時代の流れに乗って、男性も家事をして当然という意識が芽生えれば、美智子だけに負担がいくことはなかった。

「専業主婦は、金銭の享受という対価がないだけで、家族生活を円満に回すために必要不可欠な立派な仕事をしていますよ」

 と、最近中途で入った三十代の男が飲み会の席で話していたのを思い出す。
 彼の隣にいた二十代の女子は、その令和的な考えを聞いて目を輝かせていた。
 反対に、徹や徹と同世代の同僚たちは、みな「そうだよなあ」と相槌を打ちながら、ドキリとさせられる。
 美智子も、心の中でずっと、不満がどんどん溜まっていったのではないか。
 自分は美智子の「専業主婦」という立場に甘え、彼女のことを労わろうとしなかった。その仕返しをされているのだと思う。

「なんとか、ならないかなぁ……」

 自宅の最寄駅に降り立って、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。でも、美智子のストライキをやめるよう説得させるだけの力は徹にはない。ストライキをしているのだから、彼女の労働状況を改善するのが先決だろう。
 すっかり暗くなった住宅街の夜道をとぼとぼと歩きながら、これから始まる壮絶な闘いを思って、徹は泣きそうになった。
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