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8、夏の悪夢
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「翼宿、マジ寝じゃん」
望が、ベッドに横になって眠る翼宿を見ながら呆れたように言った。
まだ蝉の声が、窓を閉めていても家の中に入ってくる暑い夏の日。宿題を一緒にやるという口実ですばるの家に集まっていた。
望が転校してきてから、もうすぐ一年になろうとしていた。
二年生になり、三人ともばらばらのクラスになったが、家が近いこともあって、登下校は一緒だし、変わらず仲が良かった。特に、すばるの一軒家と翼宿のマンションは、道路を挟んで目の前だから、本当に幼馴染なのだ。
望が、翼宿のくつろぎように呆れながらも、ふっと優しく笑った。
「望?」
「いや、本当に仲がいいんだなと思って。そうじゃなければ、ここまで人んちで寝れねーよ」
「まぁ、しょっちゅう行き来してるから」
すばるは、相変わらずニコッと笑って答えた。
「望だって、いつでも来ていいよ? 俺も行くし」
「いや、もうじゅうぶんだろ。この前、めっちゃナチュラルに、うちにただいまって二人で入ってきてただろうが」
そう、今では、持ち回りのように、三人それぞれの家に行き来をしている。三人そろうこともあれば、ランダムな組み合わせになることもあるが、気負うことなく一緒に居られる。
もちろん、お互いクラスにも友達はそれぞれいるが、ここが揺らぐことはなかった。
「小学生からの幼馴染とか、俺の入る余地はないと思ってた・・」
望は、つい、本音を呟いてしまった。
「あはは! 望って、たまにそういうこと言うよな。俺たちに遠慮してるとことかあるし」
すばるは、ローテブルの一番ドア側に座っていたが、立ち上がって、ベッドの近く、さっきまで翼宿が座っていたところに座り直した。何をするのかと思ったら、翼宿のノートに、くすくす笑いながら落書きを始めた。
その手を止めずに言う。
「友達ってさ、時間も大事かもしれないけど、それだけじゃないしさ。ってか、望と出会ったのなんて一年前くらいなのに、ここまで仲良くなってるし。時間じゃなくって、馬が合うっていうやつなんじゃない?」
「そっか。そうだな・・」
そう答えて、すばるの落書きを覗いて笑った。
でも、望はわかっていた。すばると翼宿が、特にすばるが、広く受け入れてくれたから、俺はここまで仲良くなれたのだと。恥ずかしいから、感謝など言わないけれど。いじめられなければいい程度に思っていたのに、今は、とても楽しい。そして、ふと思い出した。
「そういえばさ、俺がこっちに引越し決まって、家を探そうと思った頃に、隣のA中学でいじめによる自殺があっただろ?」
すばるは、顔を上げて「あー、うん。あったね」と、眉間にしわを寄せて悲しそうな顔をした。いつもにこにこしているから、珍しい表情だった。
「本当は、A中学の学区に引っ越そうって話になってたんだけど、それがあって、急遽B中学にしたんだ」
「あ、そうだったんだ」
「そう。本当は、もっと全然違うところにするっていう案もあったけど、仕事場とかそういうことを考えて、結局ここら辺になったんだ。でも、結果、すばるたちと家が近くなったわけだし」
「お。じゃあ、結果オーライだな」
「まぁ、そうかもな」
すばるは、いつものにこにこ顔に戻ったが、直ぐに痛そうな顔になった。
「自殺したのって、俺らと同い年だよな・・。辛かっただろうな」
すばるが、自分の胸の辺りをぎゅうっと掴んで、痛そうな顔で俯くから、本当にそう思っていることが分かる。あまりに真剣に相手を思いやっているから、望もつられて被害者のことを思う。
もしも、俺がその立場だったら・・。いや、転校してきた時は、その立場になってもおかしくなかったはずだった。少し、何かが違えば、あれは、俺だったかもしれない。もし、転校した時にすばるや翼宿が同じクラスじゃなかったら? たったそれだけの違いで、どうなっていたかわからない。では、自殺した生徒のクラスメイトにすばるや翼宿がいたら? こんなことにはならなかったかもしれない。俺のように、救われていたかもしれない。
「あ、でも、確か、自殺に失敗して、半年くらい意識不明の重体だったけど、目を覚ましたって聞いた」
何かの折に、母親がそう言っていたことを思い出して、すばるに教えた。
「ホント?!」
すばるが、パッと顔を上げるから、驚きつつ答えた。
「母親から聞いた話だけど、クラスの友達も言ってたし、多分、そう」
そう言って、確信を得るためにスマホを出して検索しようとしたら、すばるが、ぱっとスマホの上に手を置いた。
「いい。調べるほどのことじゃないし」
すばるは遠慮がちに笑い、
「自分だったら、どんな理由であっても、検索なんてされたくない・・」
といい、大きな目がきらりと光るから泣くのかと思ったが、俺がスマホをテーブルに置くとホッとした顔になった。
「そっか、でも、本当にそうだといいな」
すばるは、胸に手を当てて、被害者に祈るように少し目を閉じていたが、目を開いた時はいつものすばるに戻っていた。
去年の夏休み明け、新学期が始まったばかりのころは、隣の中学校で起きたことだ、クラス中がその話題だったはずなのに、きっと、すばると翼宿は、話を合わせるだけで積極的に調べたり聞きまわったりするようなことはしなかっただろうと想像できる。多くの人がそうはできない。手に入る情報をひけらかす奴だっていただろうに。
(どうして、この二人は・・。いや、特にすばるは・・)
その時、望のスマホのアラーム鳴った。
「あ、もうこんな時間か。じゃあ、俺、帰るわ」
もともと、クラスの友達と約束があって途中で抜けることは言ってあったから、すばるも、「あ、ホントだ」と、引き留めることはなく、あっさりと手を振った。
「また明日な」
「うん」
明日、どこで何時に会うなど何も決まっていないのに、当たり前のように、また明日といって別れられることに、望は安心感を覚えながら約束へと向かった。
玄関で望を見送った後、部屋に戻ってきたすばるは、さっきと同じ、翼宿のノートが広げてある場所に座った。
ここに座ったのには、本当は意味があった。ノートに落書きするためじゃない。ベッドから落ちそうになっている翼宿の手を背中に感じるためだ。
翼宿が悪夢を見る前に起こしてやりたいと思ったのだ。
さすがに、翼宿が叫んで飛び起きるのを、望が目の当りにしたら驚くだろうし、どんな夢を見るのか、どうしてそんな夢を見るのか、疑問に感じると思ったからだ。
くるっと、顔だけ後ろを向いて、翼宿の顔を観察した。
目の下のクマが濃くなっている。少し、やせたんじゃないだろうか。
一年を通して悪夢を見ることは知っているが、やはり、夏は頻度が桁違いなのだろう。それにしても、去年から酷くなっている気がする。
(今年は、さらにか・・)
そういえば、望が転校してきた去年の夏も、夜八時に寝てしまって送られた動画を見てないとか、そういう話をしたっけ。あの時も、頻繁に見る悪夢のせいであまり寝られていなかったのだろう。
すばるは、またローテーブルの方を向いて、自分の麦茶を飲むと、その結露を指で撫でた。
随分前に、小学生からの幼馴染だと、翼宿が望に話しているのを聞いた。でも、本当は、違う。翼宿の記憶にないだけで、翼宿との出会いはもう少し前だった。
翼宿に初めて会ったのは、通っていた幼稚園だ。あと半年で卒園というタイミングで入園してきたのだ。
もちろん、その時は、新しい友達が来たという、日常に投げ込まれた変化にはしゃいだだけで、あと半年なのにとか、そんなことは何も気にならなかった。
最初に女の子たちが、翼宿を取り囲み、たくさん話しかけたが、しどろもどろになって結局俯く翼宿に呆れたようにいなくなった。次に、男の子たちが、自分たちの遊びに誘い、翼宿はどうしていいのかわからない様子で、しばらくみんなの後ろをついて回っていたが、やがて、隅に座りこんでしまった。
俺は、その様子を他の子たちと遊びながら観察していた。最初からたくさんの人に話しかけられても、困るんじゃないかと思って、タイミングをうかがっていたのだ。
両手で大きく分厚い図鑑をもって、翼宿の横に座った。
「いし、きれいだよ」
開いた図鑑は、石や鉱石のきれいな写真に説明が書いてあるものだった。例え興味がなかったとしても、違う図鑑を持ってくればいいし、図鑑じゃなくて本でもいい。本なら、会話が少なくても平気だし、眺めているだけで楽しめるんじゃないかと思ってそうした。
翼宿は、恐る恐るという感じで図鑑を覗き込んできた。そして、その目がキラキラと光るのを確かに見た。
「このいし、えんぴつのしんになるやつ。でも、もっとぎゅってなると、ダイヤモンドになるんだって」
俺の説明に、翼宿は微かに「わぁ」と、声を上げた。それがすごく嬉しくて、何度も読んだ図鑑だったから、夢中になって説明した。
その時点で、転園生という肩書はなくなり、ただのクラスメイトとなった。他の子たちも、さっきまでとは違って、大人しく本を読むタイプのそういう子なのだという認識で、特に話しかけることもなくなった。
それからしばらくは、毎日、一緒に図鑑を読んだ。教えてあげることが楽しかった。
「すばるくん、サッカーしよう」
いつものように図鑑を広げていたら、確か、こー君と呼ばれていた同じクラスの子に誘われた。
「うん、サッカーやる! たすきくんもやる?」
俺は、図鑑も楽しかったけれど、最近ずっと読んでいたから、サッカーもやりたいと、翼宿を誘った。
「・・あ、ぼく、ううん、いい」
翼宿は消え入りそうな声でそう言うと、俯いてしまった。
「じゃあ、すばるくん、さきいってるよ!」
そう言ってグラウンドに向かうこー君を追いかけようと立ち上がったが、やっぱり翼宿が気になって、もう一度誘う。
「たすきくん、サッカーしない? たのしいよ」
俯いたままの翼宿に、(まぁ、したくないなら、しょーがないか)と、背を向けようとした時、翼宿が鼻をすする音が聞こえてびっくりした。
「たすきくん、どこかいたいの?」
てっきり泣いていると思って覗き込んだら、翼宿は、涙を我慢した目で首を振った。
「ううん。だいじょうぶ。ぼ、ぼくも、サッカーしてもいい?」
後半になるにつれ、聞き取れないほどか細い声でそう言った。
「もちろん! いっしょにやろう!」
俺は、嬉しくて翼宿の手を掴んで園庭へと走った。
幼稚園児のサッカーは、うまい下手の差がほとんどなく、とにかく自分にボールが来たら蹴るという、ルールもないに等しかったから、最初は戸惑っていた翼宿も直ぐに馴染んで、夢中でボールを蹴っていた。
やがて、片づけを始める音楽が流れてきて、自由時間は終わりだと園庭で遊んでいた子供たちが皆、それぞれ遊んでいた道具を持って、所定の場所へと走っていく。
その時、事件は起きた。
「こら! お友達を押したりしたらダメでしょう! ケガをしたらどうするの!」
滑り台の階段を降りようとした園児が、自分の前にいた園児を押したらしく、中堅の女の先生が厳しめに叱ったのだ。
でも、それは、幼稚園で過ごしていれば、頻繁とはいわなくても、よく見る光景だし、ものすごく怒られているわけでもなかった。それに、危険個所にはだいたい先生が気を配っているので、押された子もケガなどなかった。それなのに、翼宿は真っ青になってその場で立ち尽くしてしまった。
最初は、翼宿が立ち尽くしたことにすら気づかなかった。俺たちは、園庭の真ん中の方にいて、滑り台からは離れていたし、自分たちが怒られているわけではなかったからだ。
「たすきくん?」
教室に戻るんだよと、教えるつもりで翼宿の水色のスモッグの袖を引っ張った瞬間、翼宿は、頭を抱えてしゃがみ込み、石のようにぎゅっと硬く固まってしまった。
「たすきくん? おへやにもどるんだよ?」
片付けの音楽も終わりに近づき、他の子はみんな教室に戻っていくから、俺は少し焦って翼宿の手を引っ張ったが、ビクともしなかった。力いっぱい翼宿の手を引くが全く動かなくて諦めた時、やっと、翼宿の様子が普通じゃないと気づいた。
真っ青な顔で、ガタガタと震えていたのだ。
「たすきくん?」
声をかけたけれど、返事を望める状態じゃないことくらいわかったから、「せんせー! せんせー!」と、大きな声で先生をよんだ。
しかし、近くで出された大声は、翼宿にとっては恐怖でしかなっかったのだろう、どさりと、俺の足元に倒れてしまった。
それから、翼宿は一ヶ月ほど幼稚園に来なかった。
俺は、どうして翼宿が倒れたのか、全く想像できず、ただひたすら自分のせいだったのでは・・と胸が痛かった。
あの時、翼宿を誘わずに、一緒にずっと本を読んでいればよかったと、誰も座らない翼宿の席を見るたびに思った。そして、次に翼宿が来たら、たくさん本の説明ができるように、たくさん本を読んだ。外遊びの時間も、あまり園庭に出なかった。
そんな俺の変化に気づいた母親が、幼稚園に相談したのか、大人たちの間でどういう話し合いがあったのか、なぜか、家に翼宿が母親と一緒に遊びに来たのだ。
戸惑いながらも、俺は、家中の図鑑や、面白いと思った絵本を持ってきて、リビングで翼宿に見せた。翼宿も、幼稚園で過ごした時と同じように、目を輝かせて一緒に見入った。
翼宿の家は、道路を挟んで目の前のマンションだったこともあって、幼稚園から帰ってくると、ほぼ毎日、近くの公園かどちらかの家で遊んだ。ただ、どうして幼稚園に来ないのか、怖くて本人にはきけなかった。でも、罪の意識に耐えきれず、結局、母親たちに聞いたのだ。
雨の日で、公園ではなく、俺の家で遊んでいた時、たまたま翼宿が昼寝をしたタイミングだった。
「たすきくん、ようちえんにこないの、ぼくのせい?」
翼宿の母親も俺の母親も、最初は全く意味が分からなかったようで、俺がなんのことを言っているのか、辛抱強く聞き出してくれた。
「・・あぁ。あの時、翼宿が倒れた時、すばる君が先生を呼んでくれたんだもんね」
既に母親たちはソファーからおりて膝をつき、俺と目線を合わせてくれていたから、翼宿の母親が、すっと手を伸ばして頭をなでてくれた。
「あの時、先生を呼んでくれてありがとう」
「でも、・・そのあと・・」
「翼宿が幼稚園に行っていないのは、すばる君のせいじゃないよ。大丈夫」
俺のせいじゃないと翼宿の母親に言われて安堵したけれど、原因がわからず、「じゃあ、どうして?」と、重ねて質問をした。
母親たちは、互いに目を合わせて困った表情をしたが、翼宿の母親が、ゆっくりと簡単な言葉で説明してくれた。
「あの時、滑り台で先生が他の子を注意したでしょう? それが怖かったのよ」
「たおれちゃうほど?」
誰かが怒られているのを見たり聞いたりすると、確かにビクッとなってしまうのはわかるけれど、翼宿のは、そういうレベルじゃなかった。
「おばちゃんね、翼宿の本当のママじゃないの」
翼宿の母親の説明に、今度は、俺の母親が驚いていたけれど、止めたりはしなかった。
「え?! たすきくんのママは、ほんとうのママじゃないの?! ままははってこと?!」
まま母という言葉は、絵本からも知っていたが、こんなに身近な人の話ではなく、どこか遠い、自分とは関係のない場所の話だと思っていたから、あまりに驚いて大きな声を出してしまった。
すかさず、両母親とも、唇に人差し指をあてて「しー」と、リビングで眠る翼宿を見たが、翼宿は、子供用のマットレスの上で健やかに眠っている。翼宿が寝ていることを確認すると、翼宿の母親は少し悲しそうに笑った。
「そうなの。おばちゃんは、翼宿の本当のママじゃないの」
あまりの事実に、信じられなくて呆然と翼宿の母親を見つめる。
「ほんとうのママは、しんじゃったの?」
「ううん。生きてるわ」
「じゃあ、どうして?」
「翼宿の本当のママ、翼宿を叩いたり、怒鳴ったり、いつも翼宿を怒るの。翼宿は、ずーっと、ずーっと、そうやって、怒られてきたの。これからもずーっと、翼宿は悪くないのに怒られ続けたら、どうかな?」
「・・そんなの、かわいそう」
「そうだよね、かわいそうだよね。だから、おばちゃんが翼宿のママになることにしたの」
「たすきくんのママは、おこったりしない?」
翼宿の母親は、一瞬、目を開いて驚いたが、直ぐに笑顔になった。
「おばちゃんも、最初は、可哀そうって気持ちがあったけど、今は、翼宿のママになりたいって思ってる。だから、悪いことや危ないことをした時、ちゃんと怒るのもママの仕事だから、そういう時は、怒るかな」
俺は、黙って頷いた。
「でも、悪ことをしてないのに怒ったりしないから、大丈夫。おばちゃん、翼宿のことがすごく、すごーく大好きなの。だから、何もしてないのに怒ったりしないわ」
俺は、翼宿が何の躊躇もなく、完全に安心した表情で「ママ」と、呼んでいる姿を思い出して、
「うん。たすきくんのママがおこってるの、みたことない」
と、安心して笑った。
翼宿の母親は、俺が話をちゃんと理解していると確信して頷いた。
「でも、翼宿は、まだ怒ってる人の声が怖いみたい。だから、幼稚園には、怖くて行きたくないんだって。でも、ちょっとずつ行くつもりだから、その時は、遊んであげてね」
「うん! でも、すごいね!」
翼宿の母親は、目をぱちぱちと瞬きをして、俺の言葉に首を傾げた。
「だって、やさしいままはは、はじめてみた!」
「・・ふ、あはは。そっか、そういう、すごいか」
そう笑いながら、翼宿の母親は、涙を流した。それが、どういう意味の涙なのか、全く分からず、すごく戸惑ったのを覚えている。
「ふふ。ありがとう。おばちゃん、翼宿のことが大好きなの。だから、いけないことは叱るけど、たくさん笑ってもらえるように頑張ってるんだ。すばる君とすばる君のママみたいに、本当のお母さんと子供になりたいんだ」
もうすでに、本物の親子にしか見えなかったけれど、どう説明していいのかわからず、大きく頷いた。
「それと、一つだけ約束してほしいの。翼宿は、おばちゃんが、本当のお母さんじゃないことは知ってるけど、他のみんなは、それを知らないの。すばる君と、すばる君のママしか知らないの。だから、翼宿にも誰にもすばる君が知ってるって言わないでくれる?」
本物のお母さんじゃないことを知られたくない気持ちは、幼くてもというか、幼いからこそよくわかった。でも、なぜ本人にもダメなのかわからなかった。
「たすきくんにも?」
「うん。翼宿からすばる君に言う時まで黙っててあげて」
「うん、わかった」
翼宿の母親の真剣さに、理由など聞かずにしっかりと頷いて約束した。
そして、今まで、本当に誰にも言ったことはない。でも、大きな秘密だったから、抱えきれなくなりそうな時は、翼宿の母親と自分の母親には、よくその話をした。だから、幼稚園の記憶がない理由も今はわかっている。
あの事件以来、翼宿は幾度か幼稚園に来ていたが、数えるほどだった。そのため、翼宿は自分が幼稚園に行っていないと思っていたし、あの事件は、他の人には日常でも、翼宿には恐怖体験となって、記憶から消してしまったようだ。
俺と毎日のように遊んだことも、一年生の時の記憶としてあやふやになっている。
でも、別にそれでいい。
一緒に遊んだ記憶が、幼稚園の頃だろうと一年生の頃だろうと大差はない。遊んでいたことを楽しい記憶として覚えていてくれるのなら、どっちでもいい。だから、翼宿が小学生からの幼馴染だと言っても、俺は一度も否定してこなかった。
それにしても、あの時、なぜ、翼宿の母親がこれだけ重大な秘密を打ち明けてくれたのか、真意はわからない。幼い子供だ。次の日には、色んな人に内緒だよと言いつつ、言いふらしていたかもしれないのに。それでもいいと思っていたのだろうか。いや、そんなわけはない。本当に、ただ単純に、俺を信用してくれていたのかもしれない。
とにかく、約束を守り続ける俺は信用され、成長するにつれ、翼宿の母親は、詳しい話を少しずつ教えてくれるようになった。もちろん、俺に迷惑や心配をかけないように十分配慮してくれていたが。
小学生低学年の時に教えてもらった、翼宿が実母から受けた暴力の内容は、きっと、表面だけを教えてくれたのだろうけれど、そのことを思うたびに胸が苦しく、涙が滲んだ。そして、一番衝撃だったのは、やはり、翼宿の姉が虐待で死んだという事実だった。
教えてもらったのは、五年生の夏だった。
翼宿が授業中ぼんやりしていることが多くなり、夏休み前の半日授業の後、家に遊びに行くと、昼ご飯も食べずにソファーで寝ていたのだ。
「翼宿、どこか具合悪いんですか? 最近、ずっと眠そうで」
そう聞くと、「ちょっと怖い夢を見るみたい」と、翼宿の母親は詳しく話さなかったが、直ぐに俺は察した。
「怖い夢って、本当のお母さんの夢ですか?」
翼宿の母親が目を大きく開いて驚いたのを見逃さなかった。
「まだ教えてもらってないことがあるんですね? 教えてください」
「・・翼宿は、たくさんたくさん辛い目にあったけど、だからこそ、すばる君みたいな子とお友達になれたのかもしれないわね」
そう言って、教えてくれた。
虐待で姉が死に、重度の栄養失調で翼宿が発見されたのは、夏。
だから、夏に悪夢を見る頻度が上がるのだ。
母親に追いかけられ、恐怖で足が思うように動かず追い詰められ、追いつかれる夢。
あの時の翼宿は、寝るのが怖いというほど憔悴していて、それでも、昼間、眠気に耐えきれず寝てしまうのだ。夏休みに一緒に出かけることもあったが、ほとんどをどちらかの家で過ごしたから、翼宿はうちで寝てしまうことも多かった。だから、今日、翼宿が何の抵抗もなくうちで眠るのを見て、望が驚いていたのも無理はない。
そして、俺は、何度も、悲鳴をあげて汗だくになって飛び起きる翼宿を見てきた。
少し振り返って、眠る翼宿を見た。
まだ悪夢を見ず、健やかに眠る翼宿にほっと安堵した。
翼宿の姉が死んだという事実を知った日の夜、一人、俺は布団をかぶって泣いた。暴力だけでも、既に、翼宿の耐えてきた現実を思うとあれほど辛かったのに、もっとつらい経験をしたのかと、涙が止まらなかった。翼宿の耐えてきた過去は、どうやっても変えることはできず、これからずっと背負っていくのだと思うと、代わってやりたいとすら思った。
その時、心がぎゅぅーんと押し上げられる感覚が起きた。どこまでも上に、ものすごいスピードで。あまりのことで自分の変化に、驚き戸惑い、全身に鳥肌が立つ。けれど、どこまでも、頭はとても冷静になっていく。自分を客観的に見つめる感覚。
高い場所から自分を見ていた。
あの時から、物事を客観的にみられるようになったし、他の人よりもずっと達観した考え方になった。
いや、もともとそういう素質はあったのだろう。そうでなければ、これほどの秘密を誰にも喋らないということは、なかなかできなかったはずだ。そして、翼宿の秘密を知ってからより一層、他の人よりは大人びた考え方をする子供になったと思う。
翼宿によって、二度、大きく引き上げられた精神年齢は、今も向上中で、たまに、自分の頭なのに、自分でも驚くようなものの見方をすることがある。ただ、今は、少し停滞中だ。
翼宿の心の奥底に、過去を閉じ込めた頑丈な箱があるのはわかる。俺は、それを翼宿が開いてくれるのをずっと待っている。翼宿が打ち明けてくれることがゴールだとでもいうように。
いつになったら言ってくれるのだろう?
目を閉じて、溜息をつく。
まだ、俺に何ができるのかわからない。でも、あの夜、一人、布団の中で祈ったことは、今も変わらない。
これから先、どうか、翼宿が過去にとらわれて苦しみませんように、幸せになりますようにと。
背中で翼宿の手がビクンと動いた。見ると、翼宿の顔は恐怖に歪んでいた。
ためらうことなく、激しく揺さぶって、翼宿を過去から引き揚げる。
「翼宿! 翼宿!」
翼宿がかすかに目を開けたから、揺さぶるのをとめた。
「・・あ。・・ごめん、俺、また寝てた?」
「まぁな。でも、体が動いてたから、起こしちゃった。また悪夢?」
「いや・・、多分、大丈夫。悪夢になる前に、すばるが起こしてくれたから。ありがとう」
翼宿からは、夏は悪夢をよく見るんだとしか言われていない。内容は、「なんか、追いかけられる夢」とだけ。だから、深く追及することはしていない。
「また悪夢の夏かー。大変だな」
軽い口調でそう言った。なんでもないことのように。こっちの態度に、翼宿は、ほっとしたように笑った。
「そうそう、またこの時期だよ。なんだろうな、これ」
「頻繁なの? 寝不足そうに見えるけど?」
あえて、翼宿の方は見ずに、また麦茶を一口飲んだ。翼宿が起き上がる気配がした。
「いや、うん。ちょっとな。でも、大丈夫」
翼宿はそう言うくせに、大きく伸びてあくびをしていた。
「そっか、あんまり無理するなよ」
「今少し寝たから、スッキリしたよ。すばる、ありがとう」
翼宿のごまかしように、やはりなと思う。頼ってくれてはいるのだと思うが、翼宿は、俺には決して過去を明かさないのではないかと思うのだ。
他に何かできるかとも考えるが、そもそも、翼宿に打ち明けられないのではないかという思いが、最近は、確信になりつつある。
でも、なぜ? 何がダメなのか、わからない。俺では、どうしてダメなのだろうと、答えが分からず、ずっと、考えが停滞している。
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