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ミステイク

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 目が合う度にその人のことを好きになっていった。
 好きという感情を認めたくないという時期もあった。しかし、その人と触れる度、声を交わす度に胸の鼓動がはやるのを感じた。ああ、恋をしているのだと認めてしまうほうが楽なのだと気が付いたのは胸の高鳴りに気が付いてから半年経ってからのことだ。
 その人は会社の同期で、二つ年上。大学に二回失敗し、俺と同じスタートラインを歩むことになった。名を村上と言った。少し幼い風貌ながら、仕事のミスも殆どなく、新人ながらエリート街道をこのまま突き進んでいくのが目に見えるようで、俺はそんな姿をただぼんやりと「凄いな」などと思いながら見ていた。当の自分はと言うと、大まかな仕事は問題なくこなすことができるというのに、細かなミスがたまに出る。日付の間違いや、計算ミス。見落としによる記入漏れなど、初歩的なミスが多かった。それがなければもっと使えるのに、と上司に零された際は最もだと思い凹んだ。その日の帰りは珍しく居酒屋でハイボールを五杯も飲んで終電で帰った。そんな俺を尻目に順調に業績を上げていく村上は、あまり酒の席の誘いに乗らないことで有名だった。
 なんでも村上は酒が弱いらしい。泣いたり、怒ったりという絡み酒をするようなタイプではないというのだが、一度だけ共に呑んだことがあるという同僚に話を聞いても、酒を呑んでいる姿は見たことがないという。情報通である事務職の高橋さんに話をきいても返事は同じ。ソフトドリンクを頼み、席の隅で煮魚をつついていることが殆どだという。頑なに呑まないと聞くと反対に酒を呑む姿がみたくなるというものだ。俺は意を決して村上を酒の席に誘ってみることにした。
 意外にも村上はあっさり着いてきた。仕事をこなす村上の姿からはお堅いイメージがあり、俺のようなブ男からの誘いに乗るとは想像もつかなかったから驚いた。安い居酒屋に入るのがなんだか気が引ける。酒に対する噂もあるので、隣に並ぶレストランのほうがいいのだろうかなどと考える。横目で村上の表情を伺いながら、店の前で思考の海に飛び込みかける。「入らないのですか」と村上が催促をかけるので動揺したように返事をすると変に裏返ったような声がでた。恥ずかしい。なんでこんなにもテンパっているのだ。ただ一緒に酒を呑もうと誘っただけであって、やましい思いなどないのだ。ない、はずなのだ、
 村上はなかなか入店しようとしない俺に呆れをなしたのか、俺の横を通りすぎて暖簾をあげた。「入りますよ」と振り返る村上の目線が、少し高い。入口の段差で俺を見下ろす形になったのが新鮮で、その瞳を黙って見つめてしまっていた。何時間も見つめていたような数秒にも満たない時間の中で、大きな瞳が俺を捉えていたという事実に胸が躍るような思いだった。
 村上はきゅうりの浅漬けを食べながらハイボールを煽った。俺もそれに続く。予想していたよりもずっと親しみやすいと思った。そして、噂で聞いていたのとは違い、村上はよく酒を呑んだ。食の好み、価値観の一致は何よりも二人の空間を過ごしやすいものにする。酒癖が悪いというのはどこから出た話であったのだろうか。あまりにも酒を呑む姿を見ないことで誰かが言った憶測が飛びまわっただけのものだったのではないか。そう考えると、しっくりときた。俺はすっかり二人の席を楽しんでいた。
 ふと、村上が口を開く。
「なぜ、私を誘ったのですか」純粋な問いかけだった。
 俺と村上は、部署は同じだが会話の機会は少なかった。その理由として、俺が村上へ感情を抱いてしまったことも大きな原因だが、第一に村上自身が、俺のように地味で、仕事でも単純なミスを犯すような男と会話をしてくれると思っていなかったからである。交流の少なかった俺たちが改めてこうして酒を交わすことが不思議だと感じていたのだろう。「ちゃんと話したことなかったから、話したくて」と答えると納得したように残りの少なくなったジョッキを傾けた。他愛のない会話を繰り返しては酒を煽る。そんなことを繰り返していたら、一時間はあっという間に過ぎていった。なんとなく時計を見る。まだ時計の針は十時を回ったところだ。店の中も賑わいを増し、店員の声が右往左往している。俺は村上の酒癖の悪さというものを理解できずにいた。普通に会話をして、普通に呑んで。それだけで充分であるし、一般的な食事での有り方として何も逸脱した面を見ていない。楽しい。そうだ、今の時間が俺は楽しいのだ。好きな相手とこうして酒を交わしている。幸せなことだと認識できた。村上自身も俺との会話に笑ったり、ツッコミをいれたりしてくれる。会社では見たことのないフレンドリーな村上の姿に感情を抑えることができなくなっていた。万が一のことがあれば、酒のせいで誤魔化せるとも思った。我ながら、ずるい精神である。そろそろお開きにでも、という村上の手を引いて俺は口を開く。
「好きだ」
 この三文字が、こんなにも重い。さっきまでの会話の中で「鰆が好き」などといっていたのとは訳が違う。告げてから俺は村上の左手に指輪がはまっていたことに気が付く。村上は「嫌いじゃないですよ」と素っ気なく返事をくれた。それはきっと、同僚としての答えだ。「違う、そうじゃないんだ」という俺の言葉で真意に気が付いたのか、村上は顔をしかめ、困ったように首を振った。村上はその困った表情のまま口を開く。
「嫁が待っているので、すみません」
 少し乱雑に置かれた千円札たちが、無表情のまま俺を見上げていた。
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