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インパチェンス

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 腕が重くなって手を止めた。気がつけば咲ちゃんの声ももう聞こえない。私を好きならその声を止めないでよ。聞こえるのは私の荒い息と複数の人間が話す声が重なりあった雑音が遠く聞こえるだけ。先ほどまであんなに静かで、彼女の愛の言葉だけが私の頭の中を巡っていたのに、そこに彼女の声はない。
 中学生になって初めての夏休み。隣の家のチャイムを鳴らして咲ちゃんを呼びだした。昼過ぎだったが、眠そうな顔をして彼女は扉を開けた。その頭には寝癖がついたままだ。
「×△神社の夏祭りに行こう」デートに誘うには似つかわしくないスニーカーと銀色のスコップ。「そっか」と呟いて、咲ちゃんは誘いに乗ると準備をするからと扉を閉めた。
「遅くなってごめんね」
 肩まで伸ばした黒髪をざっくりとふたつに分けて耳の下で括る。ツインテールと呼ぶには少し大人びたその髪型がよく似あっている。白のブラウスのフリルの甘さにマッチしていて、とても可愛らしい。咲ちゃんはお洒落だ。隣に並ぶと自分が余計にみすぼらしく感じてしまう。
「何、見てるの?」
 咲ちゃんと視線がぶつかる。意地悪く咲ちゃんの瞳が歪んだ。ほんのりと赤く染まった唇が弧を描く。なんでもないと目線を逸らす。私の頬に手を伸ばして無理矢理視線を戻させる。
「ちゃんと見て」
 彼女の瞳の中で私が困ったように笑っている。変な顔。こんな顔、見ないで。強制的にぶつかった視線が恥ずかしくて、逸らしたい。見たくないんじゃないの、見られたくないの。私の思いと裏腹に咲ちゃんは私を見つめ続ける。「可愛い」なんて呟いた咲ちゃんの声が頭の中で響いた。
 先程まで見上げていた彼女を今は見下ろす。彼女は顔だけが潰れて、私を見上げている。瞳の色はどんなだったっけ。どんな風に笑うんだっけ。その瞬きはどれだけ私と彼女の間の壁となっていたっけ。風に揺れて、甘い薫りを振りまいていた黒髪が、赤く染まって地面にへばりついている。咲ちゃんの唇の色とは違う、もっと深い赤。大人の女性が引くルージュのような赤に、咲ちゃんが遠くへ行ってしまったような錯覚を抱いた。
 私が砕いた咲ちゃんの顔に触れる。咲ちゃんは温かかった。私の手を包みこむ咲ちゃんの温もりがなんだか嬉しかった。土と草の匂いに咲ちゃんの薫りが混じりあって、知らない匂いがした。私の知っている咲ちゃんはもっと甘い、お花のような薫りだ。たまに咲ちゃんはバニラの薫りの香水をつけていて、その薫りも好きだった。その薫りを嗅ぐたびに、可愛らしい咲ちゃんがお菓子になってしまったのかと思った。甘い、甘い薫り。食べてしまいたいと思った。咲ちゃんを探せば、あの薫りにまた会える気がして、必死になって手を伸ばした。
 私を映していた瞳を探す。顔であったものをゆっくりとかき回す。美しく弧を描く唇と瞳を繋ぐようにぽつんと落ちた涙のような黒子が色っぽくて、私はそこにずっと触れたかったことを思い出した。確か、右の頬にその黒子はあった。右ってどっちだっけ。咲ちゃんから見て右だっけ。私から見て右だっけ。多分、私からみて右の頬。赤く染まった手のひらが渇いて少し気持ちが悪い。ポロポロと零れ落ち始めた彼女の欠片を埋め込むように頬に触れた。この辺りに彼女の涙が落ちていたはず。……やっと、拾えた。
 指先が球体に触れる。見つけた。少し引っ張ったら簡単に手に取れた。この瞳は私の好きだった咲ちゃんの瞳。月明かりが瞳を照らす。全体に膜がかかったように薄汚れた瞳は全然綺麗なんかじゃなかった。
 水の入ったゴムボールみたいに手の中でぐにゃりと歪んだ。長く伸ばした私の爪が弾力に逆らうように沈んでいく。肉に触れる柔らかな感覚。弾けるようにして爪が入りこんだ。すぐに握り込んだ手の中が液体で溢れた。弾力を持ちながらも固い物体がゴムの中に隠れているのに気が付いた。赤と灰色に染まった球体だったものを剥ぐようにして取り出すと透明なキャンディのようなものが出てきた。それは、咲ちゃんが好んで食べていた薄荷味のキャンディに似た形をしていた。指で弄るとぐにぐにと柔らかく私の手の中で弾力を示した。
 笑うと細く消えてしまう咲ちゃんの瞳が好きだった。手の平の上で目玉が転がる。この瞳はこんなにも丸い。咲ちゃんの瞳はもっと細くて、綺麗で。……違う。違う!
「貴方、誰?」
 目の前で倒れているこの女が咲ちゃんだなんて、言いきれない。咲ちゃんは本当にここにいたのだろうか。誰が咲ちゃんを隠したの? 壊された彼女の顔面を元の形に戻さないと、この女が咲ちゃんかどうかなんてわからない。ぐちゃぐちゃになった顔にもう一度触れる。元の形? あれ、咲ちゃんって、どんな顔をしていたんだっけ。元に戻そうにも、私はもうその答えがわからない。
 手の中に閉じ込めたままの球体を眺めていると、不意に食べたいと思った。咲ちゃんの好きだった薄荷キャンディ。鼻から抜ける爽やかな薫りと、ほんのりと甘い不思議な味。早く、味わいたい。透明なキャンディに似たその物体を口に放る。砂糖菓子みたいに甘くて、私は頬が落ちるのを堪えるように頬っぺたに手を当てる。それを見て咲ちゃんが「大袈裟」と笑うのだ。私はそれに「だって、美味しいんだもん」とちょっとだけ涙を浮かべる。その涙を拭うように咲ちゃんが私に手を伸ばす。「可愛い」なんて言葉を添えて。
 舌の上に咲ちゃんはいない。苦くて、しょっぱくて、喉が痛くなった。全然甘くなんてなかった。
 涙が頬を伝うのがわかった。涙を拭って、愛の言葉を囁く咲ちゃんはいない。本物の咲ちゃんならこんなに不味いわけがない。私の味覚が拒否反応を示すなんてあり得ない。だって私は咲ちゃんが大好きで、咲ちゃんも私のことが大好き。初めての口づけのときみたいにバニラとイチゴの甘い薫りが鼻腔を支配して、口の中に広がって、心まで満たされるようなあの快感を得られるはずなのに。
 味覚が咲ちゃんであることを否定する。咲ちゃんが私を受け入れてくれなかったのだと悲しくなった。次から次へと零れる涙が私の呼吸を妨げた。好きだったのは、私だけだったのだろうか。私のことをあんなにも熱く「好き」という言葉で彩ったのは咲ちゃんじゃない。全部全部嘘だったの。
 耐えられなくて、噛み砕いた透明を吐き出した。口の中に残った欠片が気持ち悪くてぺっぺと唾と共に飛ばす。舌に残った苦味はどうしても消えなくて、顔をしかめた。
 私がスコップを振り下ろすまでは確かにそこにいた咲ちゃん。笑って私を見上げて繰り返し私に言うのは愛の言葉。
「好きだよ。だから全部あげるの。こんな風に私のこと見てくれたのが嬉しいの」
 待っていた。そう言って目を閉じた。
「私も、大好き。愛してるよ」
 私は笑みが堪えられなかった。嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。大好きな咲ちゃんを見つける人間がこの先誰もいなくなる。この美しさは世に放ってはいけないのだと私は悟ったのだ。私だけが知っていればいい。誰も知らないで。見つけないで。
 握りしめたスコップを持ちあげる。とても重いと思っていたのに重さなんて忘れて大きく振り上げた。痛い思いをさせたくなくて、ありったけの力で振り下ろす。ぐしゃりとスコップの下で固いものが潰れるような感覚がした。振り下ろす度に水音が混じっていく。小さく咲ちゃんが喉を鳴らしたのが聞こえた。聞こえないふりをして繰り返す。早く、もっと早く。苦しまないで、咲ちゃん。私は咲ちゃんに喜んでほしいの。私の中で永遠になれることを、誇らしく思って。
「…………大好き」
 私も、と返ってくるはずの声はもう聞こえてこなかった。聞こえているはずの当たり前の声はもう記憶の中。形を変えてその声は私のものと混じって消えていく。咲ちゃんが消えていく。記憶を追いかけて、目を閉じて、音を殺して。私の中に咲ちゃんが何処にもいないことに気がついた。
 数分前の愛の言葉は一体何処に行ってしまったの。全て妄想だったのかもしれない。咲ちゃんなんて元からいなかった。そう思った方がしっくりくるくらい咲ちゃんの姿を見つけられない。大好きだと言ったなら私を見つけてよ。私を全て受け入れてよ。咲ちゃんに投げかける言葉も静寂に飲み込まれる。肉塊になり下がった目の前の少女を見下ろして、虚しくなった。頬を伝うのは、彼女の体液か、私のものか。それすらもわからなかった。
 口の中がザラザラする。両手の紅は黒く変色して剥がれ落ち始めている。それすらも咲ちゃんが私を拒絶しているように感じて、悲しくなった。私の元からいなくならないで。咲ちゃんでいっぱいになった両手を頬張る。しょっぱくて、少し苦くて、鼻の奥がツンとするような変な匂いがした。ああ、全然美味しくないや。
 咲ちゃんを殺してしまえば、私だけが咲ちゃんを支配して、全てを手に入れられると思っていた。この先、私の知らない男に咲ちゃんを穢されることも、知らない誰かのもとへ行ってしまうこともないと思っていた。
 気がつけば、咲ちゃんは私の中からもいなくなってしまった。
 私の口内に残るのは、後悔だ。この中に残る咲ちゃんを追い出さんとするように、唾液が止めどなく溢れる。飲み込むことも忘れて、私は唾液を垂れ流した。ぽたぽたとほんのり赤く色づいた透明の液体が、私の顎を伝って咲ちゃんだったものに落ちていく。咲ちゃんは抵抗することもなく、私の唾液を受け止める。滴る赤と混じりあって、どちらの体液かわからなくなった。
「好きだよ」
 聞こえた気がする咲ちゃんの声に不意に脚の力が抜ける。地面についた膝からじんわりとズボンが彼女の体液を吸っていくのを感じた。しっとりと重くなっていく足元。私の罪を表しているようだった。
 私は、咲ちゃんのことが好き。そう信じていた。信じて、疑うことなく咲ちゃんのことを見てきた。自分の中にある咲ちゃんへの気持ちは「好き」の感情なのだと疑うことはなかった。咲ちゃんのことを壊してしまえば、彼女を永遠にすることができると思った。私だけの特別になって、咲ちゃんを永遠に愛することができるのだと思っていた。私をまっすぐ見つめた咲ちゃんは、怖いとか、嫌だとか私を否定する言葉を口にしなかった。咲ちゃんは私を全て受け入れて、命を差し出したのだ。私を、受け入れていた。咲ちゃんは私に全てを捧げたのだ。
「ああ、あ、ああ…………!」
 違った。全部違った。私は始めから間違えていた。受け入れていなかったのは、私の方。愛していたのは咲ちゃんの方。私は、咲ちゃんのことなど、好きでなかった。好きの感情を私は知らなかった。分かっていなかった。恋人はデートをして、キスをする。そういうものだと思っていた。キスを交わしたことで、私は咲ちゃんと恋人なのだと、私は咲ちゃんを好きなのだと勘違いをしていたのだ。
 ああ、なんて残酷な運命なのだろう。
 ごめんなさい、咲ちゃん。咲ちゃんは永遠に報われない。誰にも愛されることなく、その美しかったはずの顔を潰された彼女は、もう誰を愛することもない。確かにあったはずの「美」をこの先誰も知り得ないのだ、私が潰した。壊した。その顔も、咲ちゃんの未来も。
 眼前に広がるのは、好きだったはずの女の子と、その子を塗り固めた強い赤色。遠くから聞こえてくる花火の音が不規則に鼓膜を揺らした。この花火も、一緒に見るはずだったのだ。綺麗だよ、咲ちゃん。ほら、緑と青の花が咲いたよ。花火の音は苦手だけれど、咲ちゃんと一緒ならずっと見ていられるような気がした。
「見て咲ちゃん、綺麗だよ」
 どんな声で咲ちゃんは私の言葉に答えただろうか。咲ちゃんの声は高かっただろうか、低かったのだろうか。私の中の咲ちゃんは微笑む顔すらぼやけて見える。彼女の存在はもう何処にもない。今この場にいる咲ちゃんの姿を見て、人はどう思うのだろうか。夜空に咲く花のように美しいと思う人はいるのだろうか。こんな姿、美しいだなんて言えるわけがない。私だって、思えないよ。ごめんね。
 穢れた私の手を誤魔化すように、地面に擦りつけた。土の色と咲ちゃんの色がごちゃ混ぜになった。爪の間に入り込んだ土が、咲ちゃんを覆い隠す。咲ちゃんの色の方が私は好きだったかもしれない。良かった、好きだと言える。咲ちゃんのことを明確に好きだと言えることができたよ。
「咲ちゃんのことを殺して私だけのものにしたいの」
 私の言葉に驚いて、そして笑った。咲ちゃんの声が一瞬だけ思いだせたような気がした。
「ねえ、咲ちゃん。今、私もそっちに行ったら、私も咲ちゃんのものになれるかな」
 贖罪のように、私は顔のない彼女に語りかける。咲ちゃんのことなんて本当は好きじゃなかった。私の中の感情は愛でなかった。そんな私が願うには傲慢な願い。でも、私にはもう帰る場所が咲ちゃんの隣しかない。汚れたスコップじゃ、私は咲ちゃんの元に行けない。だけれど、ここから離れたくはない。咲ちゃんの隣で旅立ちの準備をしないと咲ちゃんに二度と会えない気がした。世界は、私と咲ちゃんを運命の糸で繋いではくれない。
「神様も怒ってるのかなあ、我が儘言うなって」
 咲ちゃんの隣に寝ころぶ。空の黒が、私を見下ろす。気がつけば、花火も終わっていた。私の見上げるこの空は何を思っているのだろう。咲ちゃんと同じように感情がわからない。
 咲ちゃんの手に触れる。力の入っていない咲ちゃんの腕は驚くほどに重かった。握りしめたままのその手をそっと握る。手を繋げば、ひとりじゃないような気がした。
「咲ちゃん、好きだよ」
 自分に言い聞かせるように、私は咲ちゃんに愛を囁いた。私は、咲ちゃんが好き。そうだよ。好きだよ。自分の行為を正当化するように私は繰り返す。彼女は返事をくれないけれど、照れたように、困ったように微笑んでいるのだろうと思いながら私は何度も繰り返した。
 そっと瞼を閉じる。握りしめた手はそのまま。瞼の裏に、見つかるはずがない彼女の笑顔を探した。
 遠くから聞こえてきた知らない誰かの話し声。近づく足音が私たちに気がつくときが、お別れのときだ。こうして並んで目を閉じていたら、この瞬間だけでも恋人に間違われたりしないかな。なんてね。
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