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第一話 優しい日常
第一話 五
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その後、持ってきていたもう一つの器に盛られた卵雑炊を夜桜の隣で紫苑もぱくついていた。二人の間に会話は少なかったが、夜桜は別段気にならなかった。
そんな食事の時間も終わり、食後のお茶を紫苑が淹れていたとき、思い出したように彼がぽつりと呟いた。
「……花」
「『はな』? それは植物の花のことでしょうか」
「そう。あなたは花が好き?」
記憶がないからか、それとも特別好きでも嫌いでもなかったからか、紫苑に花が好きかと問われても「……わからないです」としか答えられなかった。
「じゃあ、こっち来て。ゆっくりでいいから」
夜桜は紫苑に言われたようにゆっくりと立ち上がり、頼りなげな一歩目を踏み出した。
その様子を視界の端に収めながら、紫苑は障子の前に立ち、夜桜が側に来たところですっと障子を引いた。
室内の柔らかな明るさに慣れた目には、外の光はあまりに眩しく、夜桜は反射的に目を瞑った。そして次に目を開けたとき、眼前に広がる景色に僅かに目を見開いた。
障子の向こうには縁側があり、そのさらに奥には小さいながらもきちんと整えられた庭が広がっている。
小庭は目隠しになるように竹の柵に囲われていて、その片隅には桜の若木が植わっていた。根元には水仙が黄と白の花を咲かせ、鬱金香が土から芽をのぞかせている。よくよく見ると、地面には色とりどりの小花が咲いていた。白の薺、紫の菫、黄の蒲公英、青の大犬の陰嚢、赤の烏野豌豆など。樹木に園芸植物、そして野草ともいえる草花と一見すればまとまりのない組み合わせだが、この庭にはそういった雑然とした印象は受けない。それは花々を丁寧に世話し、庭をよく整えているからこそだろう。
それまでどこか茫洋としていた夜桜の赤い瞳に一瞬だけ光が煌めく。
「きれい……」
素直な感想が無意識に口からこぼれ落ちる。
「仏の座に、蓮華草まで……。春の花がたくさんありますね」
「……わかるの?」
「え? は、い……」
当然のように庭に咲き誇る春の花々の名前を口にした夜桜だったが、そういえばこの知識はどこで得たものなのだろう。それにここまで花のことを知っているということは、記憶を失う前の自分は花が好きだったのだろうか。
少し考えてみるが知識と紐づけられた記憶を思い出すことはない。
ただ、それはそれとして、夜桜はこの庭を好ましく思った。
「もう少し、眺めていてもいいですか」
「うん」
夜桜はじっと草花を見つめた。
(あれは土筆で、あれは酢漿草ね……)
心の内でひとつひとつ確かめるように植物とその名前を一致させていく。
だから庭の草花に集中している夜桜は気づかなかった。
紫苑が夜桜の横顔を見つめていたこと。そしてその夜桜の瞳がほんの僅かだが優しい赤色をしていたことに。
しばらくの間、夢中になって庭の花を眺めていた夜桜だったが、不意に吹きつけてきた早春の風にぶるりと身を震わせた。陽光は春の訪れを感じさせるけれど、風にはまだ冷たさが残っている。浴衣姿で縁側に居続けるのは少々難があるようだった。
「そろそろ中に戻ろう」
紫苑の促しに夜桜は素直に頷いた。
夜桜が室内に戻ったところで紫苑はぴたりと障子を閉じると「それじゃあ、僕は戻ってるね」と食器を盆に載せ直す。
「あなたはまだ休んでた方がいい。何かあったら呼んで、家の中にはいるから」
「はい」
襖の向こうへと紫苑は去っていき、そのうち食器のぶつかり合う音と水の流れる音が微かに夜桜の耳にも届いた。
(少し疲れたかしらね)
布団に戻り、夜桜は目を瞑った。
眼裏に先ほど目にした庭の花々を思い浮かべながら、夜桜は心地よい疲れとともに眠りに落ちた。
呪詛を受けたとはいえ紫苑の完璧な解呪と甲斐甲斐しい看病、十分すぎるくらいの休息のおかげで、夜桜はかなり回復していた。
部屋の中でじっと書を読んでいたり、気分転換に縁側から庭を眺めたりすることにもさすがに飽きがきていた夜桜は、朝食を持って部屋にやってきた紫苑に提案をした。
「『家事を手伝いたい』?」
「はい。許していただけないでしょうか」
ただ居候しているだけというのはどうにも居心地が悪く、かといって外で働くのは不安が大きい。そこで考えついたのが家事を手伝うということだった。
家主である紫苑に確認をとってみると、彼は「あなたがやりたいなら、止めないけど……」とちらりと夜桜の顔をうかがう。
この数日でわかったことがある。
紫苑は淡々とした態度ではあるものの、夜桜のことをかなり気にかけているということと、夜桜のお願いには弱いということだ。
ついこの間も手持ち無沙汰にしていた夜桜が「何かありませんか」と問うと、紫苑は難しい顔をして何冊かの書を持ってきてくれた。あまり無理をしないことを条件に紫苑から差し出されたそれらは、絵草子から専門書まで様々だった。
どうして夜桜にそこまで心を砕いてくれるのか。恐らく夜桜に『美桜』の影を重ねているからだろうが、それにしても甘くて過保護だと思う。
今だってそうだ。本当に家事を手伝わせていいものか、まだ安静にしていたほうがいいのではと葛藤しているが、結局は夜桜の意思を尊重したいと紫苑が折れることは容易に想像がついた。
「いけませんか……?」
駄目押ししてみると、紫苑は「……わかった」と渋々ながらも頷いた。
「だけど約束して。無理や無茶はしないって」
「はい」
こうして夜桜の生活は変化しようとしていた。
そんな食事の時間も終わり、食後のお茶を紫苑が淹れていたとき、思い出したように彼がぽつりと呟いた。
「……花」
「『はな』? それは植物の花のことでしょうか」
「そう。あなたは花が好き?」
記憶がないからか、それとも特別好きでも嫌いでもなかったからか、紫苑に花が好きかと問われても「……わからないです」としか答えられなかった。
「じゃあ、こっち来て。ゆっくりでいいから」
夜桜は紫苑に言われたようにゆっくりと立ち上がり、頼りなげな一歩目を踏み出した。
その様子を視界の端に収めながら、紫苑は障子の前に立ち、夜桜が側に来たところですっと障子を引いた。
室内の柔らかな明るさに慣れた目には、外の光はあまりに眩しく、夜桜は反射的に目を瞑った。そして次に目を開けたとき、眼前に広がる景色に僅かに目を見開いた。
障子の向こうには縁側があり、そのさらに奥には小さいながらもきちんと整えられた庭が広がっている。
小庭は目隠しになるように竹の柵に囲われていて、その片隅には桜の若木が植わっていた。根元には水仙が黄と白の花を咲かせ、鬱金香が土から芽をのぞかせている。よくよく見ると、地面には色とりどりの小花が咲いていた。白の薺、紫の菫、黄の蒲公英、青の大犬の陰嚢、赤の烏野豌豆など。樹木に園芸植物、そして野草ともいえる草花と一見すればまとまりのない組み合わせだが、この庭にはそういった雑然とした印象は受けない。それは花々を丁寧に世話し、庭をよく整えているからこそだろう。
それまでどこか茫洋としていた夜桜の赤い瞳に一瞬だけ光が煌めく。
「きれい……」
素直な感想が無意識に口からこぼれ落ちる。
「仏の座に、蓮華草まで……。春の花がたくさんありますね」
「……わかるの?」
「え? は、い……」
当然のように庭に咲き誇る春の花々の名前を口にした夜桜だったが、そういえばこの知識はどこで得たものなのだろう。それにここまで花のことを知っているということは、記憶を失う前の自分は花が好きだったのだろうか。
少し考えてみるが知識と紐づけられた記憶を思い出すことはない。
ただ、それはそれとして、夜桜はこの庭を好ましく思った。
「もう少し、眺めていてもいいですか」
「うん」
夜桜はじっと草花を見つめた。
(あれは土筆で、あれは酢漿草ね……)
心の内でひとつひとつ確かめるように植物とその名前を一致させていく。
だから庭の草花に集中している夜桜は気づかなかった。
紫苑が夜桜の横顔を見つめていたこと。そしてその夜桜の瞳がほんの僅かだが優しい赤色をしていたことに。
しばらくの間、夢中になって庭の花を眺めていた夜桜だったが、不意に吹きつけてきた早春の風にぶるりと身を震わせた。陽光は春の訪れを感じさせるけれど、風にはまだ冷たさが残っている。浴衣姿で縁側に居続けるのは少々難があるようだった。
「そろそろ中に戻ろう」
紫苑の促しに夜桜は素直に頷いた。
夜桜が室内に戻ったところで紫苑はぴたりと障子を閉じると「それじゃあ、僕は戻ってるね」と食器を盆に載せ直す。
「あなたはまだ休んでた方がいい。何かあったら呼んで、家の中にはいるから」
「はい」
襖の向こうへと紫苑は去っていき、そのうち食器のぶつかり合う音と水の流れる音が微かに夜桜の耳にも届いた。
(少し疲れたかしらね)
布団に戻り、夜桜は目を瞑った。
眼裏に先ほど目にした庭の花々を思い浮かべながら、夜桜は心地よい疲れとともに眠りに落ちた。
呪詛を受けたとはいえ紫苑の完璧な解呪と甲斐甲斐しい看病、十分すぎるくらいの休息のおかげで、夜桜はかなり回復していた。
部屋の中でじっと書を読んでいたり、気分転換に縁側から庭を眺めたりすることにもさすがに飽きがきていた夜桜は、朝食を持って部屋にやってきた紫苑に提案をした。
「『家事を手伝いたい』?」
「はい。許していただけないでしょうか」
ただ居候しているだけというのはどうにも居心地が悪く、かといって外で働くのは不安が大きい。そこで考えついたのが家事を手伝うということだった。
家主である紫苑に確認をとってみると、彼は「あなたがやりたいなら、止めないけど……」とちらりと夜桜の顔をうかがう。
この数日でわかったことがある。
紫苑は淡々とした態度ではあるものの、夜桜のことをかなり気にかけているということと、夜桜のお願いには弱いということだ。
ついこの間も手持ち無沙汰にしていた夜桜が「何かありませんか」と問うと、紫苑は難しい顔をして何冊かの書を持ってきてくれた。あまり無理をしないことを条件に紫苑から差し出されたそれらは、絵草子から専門書まで様々だった。
どうして夜桜にそこまで心を砕いてくれるのか。恐らく夜桜に『美桜』の影を重ねているからだろうが、それにしても甘くて過保護だと思う。
今だってそうだ。本当に家事を手伝わせていいものか、まだ安静にしていたほうがいいのではと葛藤しているが、結局は夜桜の意思を尊重したいと紫苑が折れることは容易に想像がついた。
「いけませんか……?」
駄目押ししてみると、紫苑は「……わかった」と渋々ながらも頷いた。
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