さみしがりっこ

あづま永尋

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「……」
 開いて、朝倉は無言で自室の扉を閉じた。
 記された部屋番号を見上げて己の部屋で違いないことを目視で確認した。幻覚か。同時に嗅覚にも裏切られて、傾げた毛のない後頭部をひと撫でする。
「入れよッ!」
 回れ右をした朝倉のスーツの首根っこを掴んで、トキが叫ぶ。
「家に食事があるとか、過労からの幻覚の極みだ」
「自覚あるなら、仕事の制限しろ」
 ため息ながら、鍋をかき回すでかいスプーンで小突かれる。
 義父からは『若ェ嫁だなァ』などと小指を立てて揶揄られたが、どちらかといえば世間一般に謳われている母親に近い感覚だ。順調に健康管理されている。
 朝倉から見て、トキは驚くほど生活能力があった。社会適応できていると豪語ごうごしただけある。
 いつの間にか設置された見慣れぬテーブルの横を抜けつつ、首元のノットを緩める。
「豪華だな」
 並べられるは溢れんばかりの皿で、さらにホールケーキも遺憾なく存在感を発揮している。いくら男二人とはいえ、食べきれる量ではない。第一、本日朝倉が帰宅するかどうかトキは知らないはずだ。よもや一人で食べるつもりだったのか。
「いいじゃん」
 もしくはどこかに差し入れかと思案しかけて、続く言葉に朝倉は固まる。
「だって俺、誕生日だし」
「……あ?」
 なぁー。
 そんな二人の間を、のんびり鳴いた三毛猫が縫って歩く。
 そういえば、どこぞの書類で流し読みした覚えもあった。
「カレンダー見たらそういえばって思い出した。今まで生まれたことに感謝しなかったから」
 示される以前無造作に鍵を貼り付けていた場所には、新たに暦が掛けられている。
 振り返れば、支配し搾取する父親の存在がなくなったのだ。精神面で余裕が生まれたのかもしれない。
「何か要るか?」
 暗にプレゼントを示唆しさすれば、首を横に振られる。
「いい。コレだって、あんたの財布から出した」
 この部屋の維持を任せる代わりに、好きなように使えと放った財布の中身で食材を調達したらしかった。
 仮に朝倉が本日戻ってこなければ、料理をどうするつもりなのかと問えば、おやっさんに裾分けするつもりだったとケロリと返ってくる。たとえ長年世話になっているとはいえ、分けるのは惜しいくらいにはトキの料理は美味い。
「そんなものでいいのか」
 珍しいほどの欲のなさだ。
「逆に聞くけど、今まであんた達はどうしてたの」
 片眉を跳ね上げた朝倉に浮かぶは、ただれた生活。
 怪しげな薬を含まされ、われるままに睦言をささやき、延々と続く熱に翻弄されて前後不覚に陥り記憶もあやふやで色濃く残るのが誕生日の辺りだった。自分と相手の誕生日が同じだったのも要因のひとつだろう。朝倉自身は己の生誕にそれほど深い意味を見いだせないが、相手にとっては別だったというだけだ。
 無言で潜めた眉間に合点がいったのか、トキに半目で見返された。
「食事にするから、さっさと手ぇ洗ってこい」





 大層なお人よしだ。
 美味い飯で腹が膨れたら、今度は寝ろと布団へ蹴り飛ばされた。
『眠れないなら子守歌でも歌ってやる。……あ、知らないや』
 朗らかに笑い、朝倉の頭を軽く叩く手はあたたかい。
『まずは休め』
 すべてを見透かされるような澄んだ瞳に射貫かれ、仕方なしに形だけでもと潜り込んだせんべい布団にそのまま意識を奪われた。そうして目を覚ませば、二人仲良く居眠りしている。時間的には短いが、お陰と頭はだいぶスッキリした。
 隣で寝息を立てている姿は、いつぞや朝倉の部屋にあがり込んだ頃のあどけなさの残る顔から、シャープさが増したようだ。半月会わない内に、身長は抜かされた。目を閉じたままの茶色の前髪を梳き、ついで日焼けの残る指を頬に這わせる。
 トキの手前、外していた輪っかは姿を消した。役目を終えたためか。
「……いや、逆か」
 静かな室内に、ポツリと朝倉の声が響く。
 見上げた先では細い月が瞬く。まるで浅慮せんりょな朝倉を嘲笑ちょうしょうするかのように。
 肌身離さず持っていたはずだった。
 この部屋でも、職場でも、心当たりあるところはすべてひっくり返したがついぞ見つけ出せなかった。
 あの男はそんな殊勝な性格ではなかった。失ったことで、より存在感を植え付けられる。以前も今も。在る時はそれほど認識していなかったのに、無くなったとなれば惜しくなる。現金なものだと、口角を上げようとして失敗する。
 同じように、トキにも置いて行かれるだろう。
 あの男と指輪は紛失という形であったが、彼には成長という違いによって。
 朝倉のくたばるさまを見ていると言ったが、若者には未知なる可能性が広がっている。阻む父親も居なくなった。生い立つ若い竹のように伸びる身長に越され、同時に拓かれたその視界はさらに無限となった。いつまでも自分の元には留まっていない。
「ぜんぶ、なくなる。何もかも……」
 あの男も、指輪も、トキも、自分の存在意義も。
 トキと出会う前の自分を構成していたのはあの男であったし、現在ではトキがその中心を担いつつある。他者によって自らの価値が確立するのは、アンバランスであることも承知している。だが、その方法でしか自己を見いだすことができない。
 自分はもろい。
 トキによって剥がされた、まとっていた心の鎧の中身は『すっげぇヨワムシ』。年齢だけは重ねた、図体だけはデカい迷子だ。
 自分の無骨な手は、大切にしているものがすり抜ける。握りしめる拳は、空ばかり切って手の内に掴めるモノはない。
 うなだれつつも向けた視線が合って、朝倉は息を呑んだ。
「起きたか」
 思考を振り払うように、努めてやわらかな声を出す。他者に悟られぬよう、本心を覆うことばかり上手くなっていけない。
「まだ、クマ残ってる」
 差し出される指先を黙って受け入れれば、撫でられる目の下。
「俺が口出しできることじゃないけど」
 身体を起こしつつ、トキから気遣わしげな視線が寄越される。
「そんなに仕事って大切なモン?」
「……いや」
 むしろ詰め込んで、今回も上司や同僚に半ば無理やり取らされた連休だった。
「ヒドイ顔なの気づいてないだろ」
 眠いのか、トキはちいさなあくびをひとつする。
「そうか」
 髭と頭部を剃る必要最低限でしか鏡を見ないので、現状がどんな様子かは見当つかない。元々見ていても楽しくない顔だ。それに顔色が悪いのはひとえに仕事だけではないだろう。指輪を探していて、寝不足だったのもある。
「起こして悪かった」
「あんた、眼ぇ見えてる?」
 謝罪は素通りされ、怪訝な顔のまま凝視される。
「ああ」
 裸眼で困ることもないし、動体視力も仕事で差し支えない。
「俺は?」
 至近距離で手をひらひらと振られる。
「見える」
 内心首を傾げながら顎を引く。トキはまだ寝ぼけているのだろうか。もしくは仕事の詰め込みすぎで変調を来したと思われているか。さすがにもう少し調整しなければならないと、周囲の反応からかえりみる。
「あれは?」
「ねこ」
 月光で踊る尻尾は三毛のもの。あまりに人の行動や気持ちに機敏であるため、そろそろ二股に分かれるかもしれないとどうでもいいことを考える。
「あと、おやっさんいるだろ。職場には一緒に働くヤツラもいるだろ? 元旦那はいないけど」
 硬く握ったままだった拳をトキによってひとつずつ丁寧に開かれ、ぼんやりと飛ばした思考を戻される。
「……で、俺がいる」
 彼は自らを示す。
「――ああ。」
「あんたは、なくすことを知っているから、今この瞬間も怖いんだろ」
 そう、かもしれない。
 ストンと腹に落ちる。
 今までモヤモヤと渦巻いていたものに、名前を付けられたようだ。
 あの男も、猫の子も、トキに関しても。驚くほど自分は無力だ。
 口をつぐんだ朝倉に、諭すようトキは続ける。
「なくなったものを悲しむのは大事だと思う。それだけ大切なものだって証拠だから」
 コン。
 手の内の硬い感触に、声なく目を見開く。
 見覚えのあるリングが、そこにあった。
 ついでトキに送った、縋るような視線を。
「大切なモンなんだろ。俺に気を遣って、外してたのは知ってる。あんたずっと帰って来ないから渡せなかった。連絡するにも仕事だろうし、第一知らねえし」
 拗ねたような雰囲気はするものの、滲む視界では上手く捉えられない。
 そういえば朝倉の部屋で会うことばかりなので連絡先の交換の必要性を感じていなかったと、遅れて気づく。
「まぁ確かに元旦那に対して妬けるところはあるけど。ソイツがいたから、今のあんたがいるんだし。今あんたの前に居るのは、オレだ」
 静かな声で続けられる。
「なくすのが怖いなら、つなぎ止めてやるから」
 指輪とは別の、流れる感触を覚えて再び視線を下げる。
「……ト、キ……」
 無様に掠れた声が、つぎを紡げない。
「大体な、あんたみたいな適当なヤツがリングだけで持っていて、落とさない訳がないだろ。こまめに部屋掃除して、拾ったオレに感謝しろ」
 恩着せがましく茶化しながら、摘まんで持ち上げられる。
「……ああ、コレはあんたの財布じゃなくて、オレからのプレゼントな」
 金の出所だなんて、正直どうでもいい。
 捨てることも、気づかないふりをすることもできただろう。だがそれをせずに拾い、尚且つ新たな提案をしてくれる。昔の男を承知している云々が口先だけでなく、態度でも示されるその心意気に感謝する。本当にお人よしだ。
 輪っかが、鎖に通される。
「もし、あんたが落としそうだってんなら、オレがいるから。拾ってつなぎ止めてやる。だから安心して、今あるものを数えて幸いを噛みしめろよ――と、思う」
 忘れかけて一度はなくした、あの男と朝倉の誓いを、今を生きるトキがつなぐ。
「生きていることに負い目を感じなくていいんだ。あんたも、オレも」
 予期せぬ許しを、もらう。
 月が二人を照らしつつ微笑んでいた。





 細い紫煙がゆるく風に流される。
 本当に何も残さない男だ。
 遺骨さえも。
 ヤツの望み通りとはいえ散骨され、『存在』った形跡はことごとく消されている。あとは朝倉とおやっさんと、他の共通する人間の思い出くらいだろう。
 好きでもない煙草をしゃぶっていたのも、忘れないための無意識の行動だったのかもしれないと自らを振り返る。
 独特な匂いを立ち上らせながら、線香が故人をとむらう。
 昨日朝倉が自宅に戻ったのは、命日の前日だからだ。よもやトキがいるとは、考えもしなかった。ひとりからい酒をあおり、鬱々と感傷に浸る。ただそれだけを思い描いていたのが、いい意味で見事に裏切られた。
 そうして予測しない許しをもらい、これほどまでに軽い心持ちでこの日を迎えられるとは思ってもみなかった。
「……悪かった」
 唸りつつ探しあぐねたものは、存外ありきたりなものだった。項に手を当てつつ零した言葉は風に攫われる。
 当時、別れた時の些細な言い合いの謝罪を、はじめて口にする。恥ずかしい話、真正面から向き合う心構えができていなかった。
 自己満足なのは承知している。
 今更だとへそを曲げられるかもしれない。だが、最終的には苦笑交じりに朝倉を許すふところの深い男であった。
「結局は、忘れようと、していた」
 短い懺悔ざんげは誰にも届かない。
 あの男との思い出は、何にも代えがたい。
 自分に施してくれた様々。自分は彼に何を返していたのかと言われれば、何もない。好意に胡座をかいていたと言われても、否定できない。まず、それだけの価値を自らに見いだせていなかったというのもある。
 どちらにせよ、何もしていなかったのは事実だ。
『いいんだ、忘れなくて。今までのあんたがあって、今のあんたが居るんだから』
 トキから送られた言葉に、あの男の存在を生かされる。言った当人は無意識だろうが、その思考に救われる。
 忘れようとしていたつもりはなかった。しかし日々忙殺されていなければ、居ない中で生きていけなかった。ひっくり返せば、過去の者にしようとしていたのに気づかされる。
 確かに過去の男ではあるが、その存在を自分の中で抹消するか否かは全くおもむきが変わってくる。
 慣れない首元の感触が意識を逸らす。
 ふ、と頬がゆるむ。
「仕切り直しだ」
 これこそ自己満足であるが。
 トク、トク、トク。
 封を切って流れるように注ぐ。
「生きている時に、もう一度あんたと交わしたかった」
 アルコールの入ったグラスを傾ける。
「しあわせだった。ありがとう」




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