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その11(完)
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*
父さんの肺に癌が見つかったのは、父さんが定年を迎えてから三か月。僕が二十歳になった事を家族皆で祝ってくれた、僅か四日後の出来事だった。
父さんの肺に棲みついた悪魔は、年齢の所為か進行は遅いが、既に他の場所にも転移が見つかり、正直完治は難しいと言うのが、僕達家族がお医者さんから手渡された重い現実だった。
抗癌剤の治療や本格的な入院などが始まり、体力が落ちてしまう前に、父さんを旅行に連れて行こうと純二兄が言い出したのが、告知から二日後の昨日。強行スケジュールでの旅行は、こうして幕を開けた。
今回の旅行は、僕は言わずもがなだった。
口には出さなかったが、言わずもがな、反対だった。
まるで父さんとの最後の思い出作りのようなスタンスが、全く僕には理解が出来なかった。だけど、純二兄の提案に嬉々として顔を綻ばせ、それなら鬼怒川に行きたいと笑う父さんの顔を曇らせたくはなかった。父さんの反応を見て、三葉姉も渋々賛同したし、それならばと僕は、考え方をシフトする事にした。
父さんが安全に旅を楽しめるようにしようと。
父さんが、もう一度来たいと思えるような旅にしようと。
病気と闘う原動力になるような旅にしようと。
そう、思ったんだ。
*
旅館に戻った僕達は、折角だからともう一度、朝から露天風呂に浸かった。部屋に戻った後、未だにグースカ寝ていた二人を起こす。寝ぼけ眼の二人を引き連れて朝食を頂き、帰り支度を済ませてチェックアウトをした。
「あ~あ、私も最後に温泉入りたかったなぁ」
「俺もだよ」
「伸ちゃん何で起こしてくれなかったのよ」
「父さんもだよ。二人してさっぱりしやがってよぉ」
漸く目が覚めて来た二人が、車に乗り込みながらそんな恨み言を呟いた。
一泊二日の楽しかった旅行が、名残惜しくも過ぎ去ろうとしている。
窓の外で流れていく景色が、まるで手でも振っているように感じられるのは、この旅行がとても楽しく、そして、日常に戻ってしまう事が堪らなく寂しいからだろう。
残酷だからこそ、輝くものもあるのかもしれない。だけど、どれだけ自分にそう言い聞かせても、胸の内で眠らせている寂しさに、気付かないふりは出来そうになかった。
そう、ちちんぷいぷいとかけた魔法は、いつかは、解けてしまうのだ。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりなんてしない。
明けない夜が無いように、止まない雨が無いように、割れないしゃぼん玉なんて、本当はどこにも無いと言う事に、いつかは気づいてしまうのだ……。
行きはのんびりだった旅だが、帰りは寄り道をせずに真っ直ぐ帰る手筈になっていた。
「楽しかったね」
「ああ、楽しかった」
三葉姉と純二兄が、明るい声を出す。
僕は父さんに尋ねた。
「父さんはどうだった?」
「ああ、とても楽しかった」
「本当に?」
「勿論だ。みんなのお陰で、とても楽しい時間だった」
「そうか、父さんがそう思ってくれて良かった」
それだけが、この旅の救いだと、僕は思った。
「……このまま、どっかに行っちゃいたいね。帰らないでさ、ずーっと、日本中を旅したりしてさ……」
「……それいいな。帰らないで、ずーっと日本中旅すんのか、悪くねぇな!」
そう言いながらも、純二兄は進路を変更する事は無いし、三葉姉もそれ以上この話を広げようとはしない。
家へ着いたら、父さんを病院へ連れて行く準備をしなければいけない。その事を考えると、気が重かった。
だけど、楽しかった旅の最後に、僕が湿っぽい顔をしても、何の為にもならない事は分かっている。父さんの為にも、母さんの為にも、これからの僕達家族の為にも、僕は、笑おうと決めたのだから。
「父さん、また来ようね」
後ろを振り向かず、前を向いたまま、僕は父さんにそう声を掛けた。
「ね? 純二兄も、三葉姉もさ、また家族みんなで、絶対来ようね!」
「そうね。また来ましょうね」
「ああ、また来よう」
僕の声に追従するように、二人の声が重なる。
「ね、父さん」
「ああ、そうだな。今度は、回りの温泉全部入りたいな」
「いいね! 全部、全部入ろう。三日くらい泊ってさ!」
やめろ!
「純二兄、僕、免許取るよ。今度は僕が運転する。大きめのワゴン車とか借りてさ、ゆったり出来るようなやつ」
やめてくれ!
「そしたら、三葉姉の旦那さんも、子供も、み~んな連れて、行けるし」
涙なんて、出てこないでくれ!
「ねぇ、いいよね、純二兄も、三葉姉も、絶対また行こうね!」
僕は、笑うって決めたんだから!
「絶対、絶対、絶対だからね……」
「ああ……、そうだな、伸五。絶対だ、絶対また来よう!」
運転中にも関わらず、純二兄が、左手で僕の頭を強く撫でる。
どれだけ自分に言い聞かせたとしても、溢れそうになる涙が真実を突きつけてくる。僕が、弱いままだと言う現実を……。
その時僕は、ふと思い出した。
幼い頃に、父さんが魔法をかけてくれる前に強く願った事を。
思い出した。
しゃぼん玉が割れてしまう事が悲しくて悔しくて切なくて、割れないで欲しいと願いながらわんわんと泣き叫んでいた時に、父さんと言う魔法使いが現れた事を。
分かってる。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりなんてしないし、本当は、魔法なんてある訳無い。
それでも。
だけどそれでも。
誰かが助けてくれるのなら、僕は何度だって泣き叫んでやる。
何かが助けてくれるのなら、頭が割れる程、強く強く、願ってやる。
だから、しゃぼん玉よ、どうか……、どうか割れないで……。
父さんの肺に癌が見つかったのは、父さんが定年を迎えてから三か月。僕が二十歳になった事を家族皆で祝ってくれた、僅か四日後の出来事だった。
父さんの肺に棲みついた悪魔は、年齢の所為か進行は遅いが、既に他の場所にも転移が見つかり、正直完治は難しいと言うのが、僕達家族がお医者さんから手渡された重い現実だった。
抗癌剤の治療や本格的な入院などが始まり、体力が落ちてしまう前に、父さんを旅行に連れて行こうと純二兄が言い出したのが、告知から二日後の昨日。強行スケジュールでの旅行は、こうして幕を開けた。
今回の旅行は、僕は言わずもがなだった。
口には出さなかったが、言わずもがな、反対だった。
まるで父さんとの最後の思い出作りのようなスタンスが、全く僕には理解が出来なかった。だけど、純二兄の提案に嬉々として顔を綻ばせ、それなら鬼怒川に行きたいと笑う父さんの顔を曇らせたくはなかった。父さんの反応を見て、三葉姉も渋々賛同したし、それならばと僕は、考え方をシフトする事にした。
父さんが安全に旅を楽しめるようにしようと。
父さんが、もう一度来たいと思えるような旅にしようと。
病気と闘う原動力になるような旅にしようと。
そう、思ったんだ。
*
旅館に戻った僕達は、折角だからともう一度、朝から露天風呂に浸かった。部屋に戻った後、未だにグースカ寝ていた二人を起こす。寝ぼけ眼の二人を引き連れて朝食を頂き、帰り支度を済ませてチェックアウトをした。
「あ~あ、私も最後に温泉入りたかったなぁ」
「俺もだよ」
「伸ちゃん何で起こしてくれなかったのよ」
「父さんもだよ。二人してさっぱりしやがってよぉ」
漸く目が覚めて来た二人が、車に乗り込みながらそんな恨み言を呟いた。
一泊二日の楽しかった旅行が、名残惜しくも過ぎ去ろうとしている。
窓の外で流れていく景色が、まるで手でも振っているように感じられるのは、この旅行がとても楽しく、そして、日常に戻ってしまう事が堪らなく寂しいからだろう。
残酷だからこそ、輝くものもあるのかもしれない。だけど、どれだけ自分にそう言い聞かせても、胸の内で眠らせている寂しさに、気付かないふりは出来そうになかった。
そう、ちちんぷいぷいとかけた魔法は、いつかは、解けてしまうのだ。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりなんてしない。
明けない夜が無いように、止まない雨が無いように、割れないしゃぼん玉なんて、本当はどこにも無いと言う事に、いつかは気づいてしまうのだ……。
行きはのんびりだった旅だが、帰りは寄り道をせずに真っ直ぐ帰る手筈になっていた。
「楽しかったね」
「ああ、楽しかった」
三葉姉と純二兄が、明るい声を出す。
僕は父さんに尋ねた。
「父さんはどうだった?」
「ああ、とても楽しかった」
「本当に?」
「勿論だ。みんなのお陰で、とても楽しい時間だった」
「そうか、父さんがそう思ってくれて良かった」
それだけが、この旅の救いだと、僕は思った。
「……このまま、どっかに行っちゃいたいね。帰らないでさ、ずーっと、日本中を旅したりしてさ……」
「……それいいな。帰らないで、ずーっと日本中旅すんのか、悪くねぇな!」
そう言いながらも、純二兄は進路を変更する事は無いし、三葉姉もそれ以上この話を広げようとはしない。
家へ着いたら、父さんを病院へ連れて行く準備をしなければいけない。その事を考えると、気が重かった。
だけど、楽しかった旅の最後に、僕が湿っぽい顔をしても、何の為にもならない事は分かっている。父さんの為にも、母さんの為にも、これからの僕達家族の為にも、僕は、笑おうと決めたのだから。
「父さん、また来ようね」
後ろを振り向かず、前を向いたまま、僕は父さんにそう声を掛けた。
「ね? 純二兄も、三葉姉もさ、また家族みんなで、絶対来ようね!」
「そうね。また来ましょうね」
「ああ、また来よう」
僕の声に追従するように、二人の声が重なる。
「ね、父さん」
「ああ、そうだな。今度は、回りの温泉全部入りたいな」
「いいね! 全部、全部入ろう。三日くらい泊ってさ!」
やめろ!
「純二兄、僕、免許取るよ。今度は僕が運転する。大きめのワゴン車とか借りてさ、ゆったり出来るようなやつ」
やめてくれ!
「そしたら、三葉姉の旦那さんも、子供も、み~んな連れて、行けるし」
涙なんて、出てこないでくれ!
「ねぇ、いいよね、純二兄も、三葉姉も、絶対また行こうね!」
僕は、笑うって決めたんだから!
「絶対、絶対、絶対だからね……」
「ああ……、そうだな、伸五。絶対だ、絶対また来よう!」
運転中にも関わらず、純二兄が、左手で僕の頭を強く撫でる。
どれだけ自分に言い聞かせたとしても、溢れそうになる涙が真実を突きつけてくる。僕が、弱いままだと言う現実を……。
その時僕は、ふと思い出した。
幼い頃に、父さんが魔法をかけてくれる前に強く願った事を。
思い出した。
しゃぼん玉が割れてしまう事が悲しくて悔しくて切なくて、割れないで欲しいと願いながらわんわんと泣き叫んでいた時に、父さんと言う魔法使いが現れた事を。
分かってる。
時間は過ぎ去ってしまうし、僕らはいつまでも子供でいられないし、都合のいい事ばかり起こったりなんてしないし、本当は、魔法なんてある訳無い。
それでも。
だけどそれでも。
誰かが助けてくれるのなら、僕は何度だって泣き叫んでやる。
何かが助けてくれるのなら、頭が割れる程、強く強く、願ってやる。
だから、しゃぼん玉よ、どうか……、どうか割れないで……。
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