割れないしゃぼん玉

泣村健汰

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その10

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 *

 明け方。
 ふと目を覚ますと、浴衣姿の父さんが、静かに部屋を出て行こうとしているのが目に入った。

「父さん!」

 僕が呼びかけると、父さんは驚いたように振り向き、そして、口元にそっと人差し指を立てた。
 周りに目線を巡らす。純二兄も三葉姉もまだ寝ている。僕は静かに父さんの元へと近づいて、小声で話しかけた。

「どこに行くの? トイレ?」
「いや、目が覚めたから、ちょっと散歩にな」
「一人で?」
「いやぁ、起こすのも悪いと思ってな」
「ちょっと待って、僕も一緒に行く」
「ちょっと歩くだけだぞ?」
「だからだよ。外に行くつもりなんでしょ? だったら、一人で行かせられないよ」

 早朝は冷えるだろうと思い、浴衣の上着を父さんの肩に掛ける。そして、父さんの財布と携帯を預かって、代わりに杖を手渡した。部屋を出る時に時計を見ると、まだ4時を少し回った所だった。

 *

 早朝の澄んだ空気の中、父さんと二人、鬼怒川の畔を歩く。6月だとは言え、早朝の川縁はやはり冷える。だがその冷えた空気を肺に入れる度に、脳が目覚めていくような気がした。
 朝ぼらけの中、太陽が昇るまでにはまだもう少しかかるだろう。忙しなく流れる鬼怒川も、朝靄の中、未だ夢うつつのような印象を受けた。
 父さんの少し後ろを歩きながら、その後ろ姿を眺める。幼い頃は、あんなに大きく感じられた背中が、今は華奢で頼り無げに見える。きっとそれは僕が成長したから、だけでは無いのだろう。
 整備された川沿いの遊歩道を歩きながら、父さんがふと、口を開いた。

「鬼怒川温泉はなぁ、父さんと母さんが、新婚旅行で来た場所なんだ」

 立ち止まり、父さんは川の流れに視線を落とした。

「一美(かずみ)……、母さんは、温泉が大好きでな。教師になる前の大学時代には、全国の温泉の名所を、旅行鞄一つで回っていた程だったらしい。そんな母さんが、新婚旅行で父さんを是非連れて来たいと言ってくれたのが、ここ、鬼怒川だったんだ。兎に角露天風呂が最高だ、の一点張りだったなぁ」

 父さんが再び歩みを進める。僕は、その背中に問い掛けた。

「ねぇ、母さんって、どんな人だったの?」
「そうだな。兄弟の中では、伸五、お前が一番、母さんに良く似ている」
「僕が?」
「ああ、穏やかで、優しい雰囲気を持ってる。母さんもそう言う人だった。そうそう、お前達の名前をつけたのも、全部母さんだ」
「名前?」
「そうだ。純二に、三葉、そして伸五。全部数字が入ってるだろ? 数学好きが高じて、小学校の教師にまでなった母さんらしい、名前の付け方だよな」
「数字は分かるけど、だったらなんで長男の純二兄が二なの?」

 純二兄の上に、水子がいたと言う話は聞いた事が無かった。
 そこで父さんは、いつもとは違う、悪戯っ子のようなニヤリとした笑みを浮かべた。

「ふふ、これは母さんなりのこだわりらしいんだがな、父さんの名前が、一郎だろ。そして母さんの名前が、一美。二人とも、名前に一がつくんだ。だから、純二には二、三葉には三、伸五には、五と言う訳だ」
「素数って事?」
「素数でもあるが、それだけじゃない。1、1、2、3、5、と並べる数列があるんだ。『フィボナッチ数列』と言う」
「フィボナッチ数列?」
「そう。1と1を足すと2。1と2を足すと3。2と3を足すと、5.伸五の、五だ。隣同士の数を足してその隣に置く。そうしてどこまでも続いて行く。自然界では、花弁の数なんかにもフィボナッチが現れるらしい。まぁ、全部母さんの受け売りだがな。そしてな、これが父さんと母さんの、出会いのきっかけだったんだ。初めて父さんが母さんに話しかけられた時の事だ。職員室でたまたま席が隣になった時に、言われたんだよ。『一美と一郎で、私達フィボナッチみたいですね』とな。新任してすぐだったから緊張して、何を話していいか分からず、思わず言ってしまったんだと、後から聞かされたよ」
「それ、父さんはなんて返したの?」
「その時は全く意味が分からなかったからな。はぁ、としか言えなかったよ。そんな不思議な始まりが、今では一美が居なくなった後でも、ちゃんとこうして、純二、三葉、伸五と、一美の残したフィボナッチは繋がっていくんだから、不思議なもんだなぁ」

 今日の父さんは、いつになく饒舌で、とても楽しそうだった。まるで今傍らに、若い頃の母さんが共に歩んでいるかのように、持っている杖も使わずに、軽やかに歩き、思い出の種を川沿いに撒いていた。
 純二兄や三葉姉とは違い、僕には口うるさい父さんの思い出は全く無い。いつも寡黙で、何か考え事をしながらも、僕に優しく微笑んでくれる、そんな父さんの印象しかない。
 だからこの機会に、これは聞いておかなきゃと、思っていた事があった。
 もう、仲間外れは御免だったから……。

「ねぇ父さん。聞きたい事があるんだ。純二兄も三葉姉もさ、父さんが、昔はすごく厳しくて、怖かったって言ってるんだ。でも僕には、父さんがすごく厳しかったってイメージは無いんだ。それは、どうしてなの?」
「ああ。それはな……」

 そこで父さんは、笑顔でゆっくりと、こちらを振り向いた。

「それはな伸五……、父さんはな、母さんのようにならなくちゃと、思ったからなんだ」

 その笑顔の後ろに、父さんと同じ表情を浮かべた母さんの姿が、重なって見えたような気がした。

「あいつが死んだ時、お前はまだ小さかった。一美の葬式が終わって、まだ幼いお前を育てるには、今までの父さんでは駄目だと思ったんだ。だから、父さんは一美に……、母さんになろうとしたんだ。母さんようにならなければと思ったんだ。怒鳴るのも叱るのも程々にして、今まで一美がやって来たように、笑って、褒めて、お前を育てて行かなければ、一美に顔向けが出来んと思ったんだ。今でも、これが正しかったかどうかは分からん。だけどな伸五、父さんは今日、とても楽しくて、とても幸せだった。きっとこれが、父さんの人生の答えなんじゃないかと、今日一日ずっと思ってた」

 父さんは今まで、本当の自分を押し殺して、母さんになろうとしていたんだ。

「だから、父さんはとても満足だ。伸五、本当にありがとう」

 そしてそれはまぎれもなく、僕の為であり、家族の為であり、母さんの為だったんだ。

「……父さん、僕の方こそ、ありがとう。本当に、ありがとう」

 穏やかに微笑む父さんが、水底に沈む。何て感謝の言葉を言ったらいいのか分からなくて、ありがとうじゃ全然足りない気がして、それでも上手く言葉にならない顔を叩いて、両手で目を擦って視界から水を拭い去り、僕は無理矢理に笑った。きっと父さんも、母さんも、僕の笑顔の為に、これまで頑張ってきた筈だから、きっと笑顔を見せるのが正しい筈だと思った。だから、無理矢理にでも笑おうと、決めた。
 これから先も、ずっと。
 僕の次の数字に、繋げられるように、笑おうと決めた。
 その時、鬼怒川に朝日が差し込んで来た。

「日が差してきたな」
「そうだね、そろそろ、戻ろうか」
「ああ、そうだな」

 朝日に照らされキラキラと輝きながら、今日も鬼怒川は流れていく。
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