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4章 春

4 桃園の夜

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 薄紅うすべに色の、あたたかな世界にいたはずの霧島を、唐突に冷えが襲った。
 ――寒い。
 逃れようと足をかがめると、不意に頭の近くに熱源を感じた。それに身体を近づけようと手を伸ばし、なんとか捕らえるも、なかなか距離は縮まらない。
 ――なぜ。
 いくらひっぱっても、ぬくもりはこちらにやってこない。
 そうしてようやく違和感に気づいた霧島は、ぼんやりと目を開けた。
 視界に広がっていたのは、床に散らばる筆と紙、そして酒杯やつまみの置かれていた盆であった。
 霧島は咄嗟とっさに状況に気づき身体を起こすも、遅かった。
「起きたか」
 霧島の顔のすぐ真上、息がかかるほどの距離で微笑んでいたのは千逸ちはやであった。
 どうやら、彼があぐらをかく足の片方を、霧島は枕にして眠っていたらしい。つい先ほどまで、千逸ちはやの温もりを引き寄せようと躍起やっきになっていたようて、腕がすっぽりと腰を抱いていた。
「……すまない」
 とりあえず謝り距離をとると、千逸ちはやの奥に広がる風景が目に入る。
 すでに、空は闇で包まれていた。
 濃紺のなかに、ぽつりと白い月が輝き、それは薄紅の桃の花を照らし、白く淡くみせた。それらの花弁が池の水面みなもに落ちるたび、波紋があらわれきらめいた。また、昼にはわからなかった小さな無数の灯籠とうろうが、火を宿すように優しく庭園を照らしている。
 霧島がことばを失っていると、千逸ちはやがとなりで口を開いた。
「すごいだろう。この夜の光景こそが、本当に見せたかったものなんだ。あんたとこうして、酒をみ交わしながらな。……まさか、途中で寝てしまうとは思わなかったが」
 そのことばに霧島は赤くなる。
 ――久しぶりに飲んだ酒のせいだ。
 空になり、床に転がった酒杯をにらんでいると、千逸ちはやがなにか言いたそうな目でこちらを見ていることに気づいた。
「なんだ?」
 すると千逸ちはやは突然、
「…………思い出したか?」
 と笑みを浮かべて問うので、霧島は戸惑う。
 ――この素晴らしい光景を、かつての自分は見たことがあるというのだろうか。しかも、この男とともに。
 記憶を探っても、それらしい映像は少しも思い浮かばない。そのため千逸ちはやに申し訳なく思うと同時に、自分に嫌気が差してしまう。
 ――なぜ、忘れてしまったのだろう。
 これだけ心に残る風景を見たならば、少しくらい記憶に残るはずである。しかし欠片かけらほども、霧島のなかに存在しなかった。
 これが膨大な時の流れによるものなのか。はたまた死にたいと願い続けていた自分へのむくいなのか。
 そんな霧島のくらい心情に沿うように、不意に冷たい風が吹いた。
 桃の強い香りとともに花弁が舞う。
 途端、なぜか数刻前に千逸ちはやそらんじた、あの歌が思い出されたのである。
「…………ひとつだけ、思い出したことがある。さっきの千逸ちはやの歌のことだ」
 そう言うと、当の本人である千逸ちはやは、考えてもいなかったというような表情を浮かべた。
 霧島が思い出した歌の本意はこうである。
 時を経ると、人はどこかに行ってしまったかもわからない。しかし、桃の花は同じようにそこにあって、変わらずに咲いている。
 人は変わりゆく、という、ある種の寂しさを含んだことばに、霧島は、千逸ちはやが浮かべていた表情を思い出し、聞いてみたくなったのである。
「あれは――」
 そう霧島が口を開くと同時であった。
 突然、千逸ちはやの顔がせまったと思えば、唇で封じられたのである。
「――んっ」
 息を奪うかのような、これまでにない激しい口づけであった。
 数秒後にそれが離れたと同時に霧島は息を荒らげ驚いた。
 千逸ちはやは、悲しそうに笑っていたのである。
 ――どうして。
 そう思った途端、霧島の胸にちくりとした痛みがはしった。
 そして気づく。この痛みは、幾度いくども繰り返していたあの夢と同じものであることに。
「夢……ではないよな?」
 ぼそりと無意識に口から出たあとで、霧島はなんて馬鹿なことを口走ったのだろうと後悔する。
 しかし千逸ちはやは気にしていないようにみえた。むしろ表情をやわらげて、
「……ああ。けれど、同じようなものだ」
 と諦めたような笑顔で言い、再び霧島に迫ったのである。
 千逸ちはやの表情の変化が気になるも、霧島は口づけを拒むことができなかった。
 なぜなら今度は初めての時と同じように、優しく溶かすように触れたから。それは、回数を重ねるごとに次第に身体も捕らわれ、手や腕の包むようなぬくもりに、無意識にまぶたが落ちてしまう。
 霧島は思った。
 身体は、意識とはすこしも関係なく、まるでこの時を待ち望んでいたように、勝手に動いてしまうのだと。
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