上 下
27 / 59
4章 春

3 楼閣

しおりを挟む

「こっちだ」
 千逸ちはやは、広場を囲う薄紅色の木立を抜け、さらに奥へと進んだ。
 そうしてしばらく歩いた頃だろうか。
 再び道は開け、視線の先に桃色の山の裾野すそのが現れた。
 そのおだやかな傾斜のなかに、ぽつりとたたずむ中国風の建物が見える。朱色の楼閣ろうかくはこじんまりとしているものの、華やかな山の花々に負けず、浮かび上がるようであった。
「ここだ」
 千逸ちはやに案内され中に入ると、入口の奥、木で編まれた衝立ついたての裏から、なにやら光が溢れているではないか。
 室内とは思えない明るさに、霧島は不思議に思いその奥へと足を進める。
 すると部屋が続いていると思っていた場所は外で、目の前には舞台のように広々とした縁側が広がっていたのである。そして奥には、
「……すごい」
 そうぽろりと言葉が出てしまうほど、風靡ふうびな中国風の庭園が広がっていた。
 外周を無数の桃の木で囲われるその内側には、春の日差しを受けて輝く小川と池があり、中央には紅の強い桃の古樹が鎮座している。先程よりもましてさらに甘い香りが漂い、川のせせらぎを背景にうぐいすがかろやかに鳴いた。
「いいところだろう?」
「……ああ。驚いている」
「今日はここで花見酒といこう。準備をするから、ここに座ってくつろいでいてくれ」
 霧島は言われるがまま、広々とした縁側に腰をおろし庭園を眺めた。
 ――なんて穏やかなところだろう。
 ふわりと風が吹き、桃色の花弁と香りが届く。
 自分たちがまるで異物のような現実離れした幽玄さを持つ庭に、霧島は改めてこの場所こそが古代の詩人、陶淵明とうえんめいが語った、桃源郷に近いと思った。
 そうしてしばしとぼんやりとしていると、千逸ちはやが手に赤い盆を持って部屋の奥から現れた。
「さあ、うたげといこう」
 隣に腰をおろし、盆の上の硝子ガラスの酒杯を手渡した。霧島が一瞬嫌な顔をすると、千逸ちはやは察したように、
「安心しろ。古典的な普通の酒だ。ほら」
 と笑いながら自分の杯にそそいだ。千逸ちはやはアルコール臭がする透明の液体を口に含んでから、ふと庭園に視線を向けて言う。
「……かつての人間たちは、人生におけるもっとも楽しい時期として、学生時代を挙げたらしい。こうして、皆で花の下に集まって、酒をみ交わし飲み明かしたという。平和な時代だな」
 このとき、なぜか一瞬泣きそうな表情をしたのを、霧島は見逃さなかった。
 ――あまりに美しい光景に、こころを動かされたのだろうか。
 この園の外――現実世界は、白く、人工的で、無駄がない。昔の風景に近い浮世離れしたこの場所を見て、千逸ちはやは不意に一世代目の記憶を思い出したのかもしれない。
 ――それと比べて、自分はどうなのだろう。
 かつての記憶はすでに抜け落ちてしまったのか、自分のなかに残っているのかもわからない。あれを思い出すことができれば――千逸との大切ななにかを思い出すことさえできれば、すぐに地獄の現実から抜け出せるのに。
 霧島はそう思いながら、自分の頭のなかには存在しない、若者たちの宴会を想像しながら口を開いた。
「『ここにして木の下に、いささかのかて
  壺の酒、歌のひと巻――またいまし、
  あれ野にてかたわらにうたひてあらば、
  あなあはれ、荒野あれのこそ樂土らくどならまし』」
 最近、デジタルアーカイブで読んだペルシア詩の一節である。おそらくこの古詩も、みやびな場所で酒を楽しむ人々によってまれたのだろう。
 黙って聞いていた千逸ちはやは酒杯を置くと、納得したように一度うなずいて言う。
「ルバイヤートか。あんたらしい」
 そして、花弁の舞う空を眺めながら、
「……桃花春風笑とうかしゅんぷうにえむ
 とぼそりと言った。
 霧島はこのことばがどういう意味であったか思い出そうとするも、すぐには浮かばずに、ざっくりと返す。
「……その詩は唐代の詩だな。アーカイブで目にした記憶がある。ただ、意味は字面ほど単純ではなかった気がするが」
 それに対し千逸ちはやは何も言わなかった。
 ただ、黙って桃の花に目をやるばかりなので、霧島も庭園を眺めながら伸びをして、
「しかし、まさかこうしてふたりで詩を引用しあうとは思わなかった。千逸ちはやがこんなにも詩を知っているとはな」
 そう言ってさかづきを取り、酒を口に入れる。軽やかな香りとともに特有の熱がのどを抜け、なぜだか懐かしい心地がした。
 千逸ちはやはそれを見ながら、
「……これだけ時間をあれば、誰だって一度や二度、詩にはまることはあるさ。……俺たちもぎんじてみるか?」
 とにやりとして言うので、霧島も微笑んで答える。
「……あいにく、そんな才能はない」
「試したのか?」
 霧島が首を横に振ると、千逸ちはやはなぜか立ち上がった。
「ならやってみよう。時間はご存知のとおり、いくらでもあるのだから」
「……諦めてくれ。そういう芸術関連の才は、俺にはなかった」
「ははは。試してみなくてはわからないさ」
 ――この男に、自分のなにがわかるのだろう。
 霧島はそう思ったものの、少し考えれば、自分ですら自分のことはよくわからないのである。
 微笑みを浮かべる千逸に、あきれた顔でうなずきを返すと、千逸ちはやは揚々と部屋を駆け出した。
 その後ろ姿は、まるで子どものようにみえた。
 ぼんやりとした光が差し込み、桃の花が舞い散る、おだやかな午後の縁側であった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

ちょいダン? ~仕事帰り、ちょいとダンジョンに寄っていかない?~

テツみン
SF
東京、大手町の地下に突如現れたダンジョン。通称、『ちょいダン』。そこは、仕事帰りに『ちょい』と冒険を楽しむ場所。 大手町周辺の企業で働く若手サラリーマンたちが『ダンジョン』という娯楽を手に入れ、新たなライフスタイルを生み出していく―― これは、そんな日々を綴った物語。

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

推しの完璧超人お兄様になっちゃった

紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。 そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。 ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。 そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。

処理中です...