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4章 春
3 楼閣
しおりを挟む「こっちだ」
千逸は、広場を囲う薄紅色の木立を抜け、さらに奥へと進んだ。
そうしてしばらく歩いた頃だろうか。
再び道は開け、視線の先に桃色の山の裾野が現れた。
そのおだやかな傾斜のなかに、ぽつりと佇む中国風の建物が見える。朱色の楼閣はこじんまりとしているものの、華やかな山の花々に負けず、浮かび上がるようであった。
「ここだ」
千逸に案内され中に入ると、入口の奥、木で編まれた衝立の裏から、なにやら光が溢れているではないか。
室内とは思えない明るさに、霧島は不思議に思いその奥へと足を進める。
すると部屋が続いていると思っていた場所は外で、目の前には舞台のように広々とした縁側が広がっていたのである。そして奥には、
「……すごい」
そうぽろりと言葉が出てしまうほど、風靡な中国風の庭園が広がっていた。
外周を無数の桃の木で囲われるその内側には、春の日差しを受けて輝く小川と池があり、中央には紅の強い桃の古樹が鎮座している。先程よりもましてさらに甘い香りが漂い、川のせせらぎを背景にうぐいすがかろやかに鳴いた。
「いいところだろう?」
「……ああ。驚いている」
「今日はここで花見酒といこう。準備をするから、ここに座ってくつろいでいてくれ」
霧島は言われるがまま、広々とした縁側に腰をおろし庭園を眺めた。
――なんて穏やかなところだろう。
ふわりと風が吹き、桃色の花弁と香りが届く。
自分たちがまるで異物のような現実離れした幽玄さを持つ庭に、霧島は改めてこの場所こそが古代の詩人、陶淵明が語った、桃源郷に近いと思った。
そうしてしばしとぼんやりとしていると、千逸が手に赤い盆を持って部屋の奥から現れた。
「さあ、宴といこう」
隣に腰をおろし、盆の上の硝子の酒杯を手渡した。霧島が一瞬嫌な顔をすると、千逸は察したように、
「安心しろ。古典的な普通の酒だ。ほら」
と笑いながら自分の杯に注いだ。千逸はアルコール臭がする透明の液体を口に含んでから、ふと庭園に視線を向けて言う。
「……かつての人間たちは、人生におけるもっとも楽しい時期として、学生時代を挙げたらしい。こうして、皆で花の下に集まって、酒を酌み交わし飲み明かしたという。平和な時代だな」
このとき、なぜか一瞬泣きそうな表情をしたのを、霧島は見逃さなかった。
――あまりに美しい光景に、こころを動かされたのだろうか。
この園の外――現実世界は、白く、人工的で、無駄がない。昔の風景に近い浮世離れしたこの場所を見て、千逸は不意に一世代目の記憶を思い出したのかもしれない。
――それと比べて、自分はどうなのだろう。
かつての記憶はすでに抜け落ちてしまったのか、自分のなかに残っているのかもわからない。あれを思い出すことができれば――千逸との大切ななにかを思い出すことさえできれば、すぐに地獄の現実から抜け出せるのに。
霧島はそう思いながら、自分の頭のなかには存在しない、若者たちの宴会を想像しながら口を開いた。
「『ここにして木の下に、いささかの糧
壺の酒、歌のひと巻――またいまし、
あれ野にて側にうたひてあらば、
あなあはれ、荒野こそ樂土ならまし』」
最近、デジタルアーカイブで読んだペルシア詩の一節である。おそらくこの古詩も、雅な場所で酒を楽しむ人々によって詠まれたのだろう。
黙って聞いていた千逸は酒杯を置くと、納得したように一度頷いて言う。
「ルバイヤートか。あんたらしい」
そして、花弁の舞う空を眺めながら、
「……桃花春風笑」
とぼそりと言った。
霧島はこのことばがどういう意味であったか思い出そうとするも、すぐには浮かばずに、ざっくりと返す。
「……その詩は唐代の詩だな。アーカイブで目にした記憶がある。ただ、意味は字面ほど単純ではなかった気がするが」
それに対し千逸は何も言わなかった。
ただ、黙って桃の花に目をやるばかりなので、霧島も庭園を眺めながら伸びをして、
「しかし、まさかこうしてふたりで詩を引用しあうとは思わなかった。千逸がこんなにも詩を知っているとはな」
そう言って盃を取り、酒を口に入れる。軽やかな香りとともに特有の熱が喉を抜け、なぜだか懐かしい心地がした。
千逸はそれを見ながら、
「……これだけ時間をあれば、誰だって一度や二度、詩にはまることはあるさ。……俺たちも吟じてみるか?」
とにやりとして言うので、霧島も微笑んで答える。
「……あいにく、そんな才能はない」
「試したのか?」
霧島が首を横に振ると、千逸はなぜか立ち上がった。
「ならやってみよう。時間はご存知のとおり、いくらでもあるのだから」
「……諦めてくれ。そういう芸術関連の才は、俺にはなかった」
「ははは。試してみなくてはわからないさ」
――この男に、自分のなにがわかるのだろう。
霧島はそう思ったものの、少し考えれば、自分ですら自分のことはよくわからないのである。
微笑みを浮かべる千逸に、呆れた顔で頷きを返すと、千逸は揚々と部屋を駆け出した。
その後ろ姿は、まるで子どものようにみえた。
ぼんやりとした光が差し込み、桃の花が舞い散る、おだやかな午後の縁側であった。
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