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7章 旺嵐にて
4 ひとり
しおりを挟む「なんとか……無事に済んだな」
主―瑶千がそう言ったとき、太陽はすでに空の真上にあった。
数刻前、無事に開門されたことを確認した一行は、荷馬車の検査を無事に通過しついに旺嵐へと入ることが叶った。
しかし、その荷の多さから確認作業は想像以上に時間を要することになり、終えたころには第一の商談の時間が差し迫っていたのだった。
急いで商人の邸宅へ向かい無事に商談を終え、今に至る。
空になった荷馬車を連れながら、瑶千はほっとしたように言った。
「とりあえず、ひとつめは終了だ。ああ、間に合ってよかった。せっかくの商品が湿気でやられてまうところだった」
その声はいつもよりどこかうわずっていた。
おそらく無事に旺嵐へたどり着いたついたことへの安心と、新顔の若い青年―朱昊への期待が含まれているのだろう。
先日隊商を襲った夜盗―というよりは子どもの集団を率いていた彼は、瑶千の言うことに従い先ほどすでに働きを見せていた。
まず城門を抜けるときのこと。
あまりの荷の量に嫌な顔をする門兵たちを前に、彼はすすんで歩み出て兵の中に顔見知りを見つけた。そしてどうにか頼むと頭を下げると、すべての荷馬車を町に入れることに成功したのだった。
加えて彼は若く体力がありやる気に満ち溢れていた。
先ほどの一つ目の商談が終わり荷を搬入するときも、先方の下男に混ざって率先して作業をこなしていた。
それを見ていた瑶千の視線はこう語っていた。
―こいつは意外とやるかもしれない。
主のそんな気持ちを本人も感じているようで、昨晩ぎらぎらと欲に輝いていた目は、いまは生き生きとした生命力に満ち溢れている。
昼のまぶしい日差しが降り注ぐ中、ふと瑶千はそれから目を背けるように下を向くと、目を擦りながら言った。
「次の商談までは……まだ時間がある。私は少し仮眠を取るから、二人は見回りを頼む」
昨晩の徹夜が利いたのだろうか、彼は小さな欠伸をすると、半ば目を閉じながら馬車に乗り込んだ。
「―朱昊は眠らなくても大丈夫か?」
馬車の周りでふたりきりになった晃閃は青年に声をかけた。
徹夜で、しかもあれだけ熱心に働いていた彼を心配したものだったが、当の本人はすこしも疲れを感じていないようだった。
気づけば、何やら必死に手元の小さな冊子に書き込んでいる。
「俺は大丈夫。それよりさっき教わったことを書いておかないと。初日だっていうのに、主はなんて容赦がないんだ!」
必死に書いては声を荒らげる朱昊をなだめるように晃閃は言った。
「それは主が期待している証拠だ。それにしてもすごいな。文字の読み書きもできるのか」
平民であり孤児となると、まともに読み書きを習う機会は訪れない。自分も幼い頃に陽明に教えてもらったが、彼は一体どこで取得したのだろうか。
すると朱昊は照れくさそうに笑った。
「前に助けてくれた先生が、いまもときどきこっちに来るんだ。そのときにいろいろ教えてくれて。文字とか歴史、あと算術とかいろいろ。ただ……剣はあまり教えてくれなくて」
そう言うと彼は晃閃の腰に佩いた剣を見つめた。
「―あんたたちの技はすごかったな。まさかこっちが構える前にやられるなんて、思ってもいなかった」
「そうか?たとえそうだとしても、あまり意味はないんだ。それより、君を慕う仲間がいることのほうが大きい」
彼らならきっとひとりではできないことも、みんなで力を合わせてやり遂げるだろう。昨晩のみんなで身を寄せ合う姿を思い出し、晃閃は微笑んだ。
青年は真面目な顔で返す。
「でも……守る力がなければ意味がないんだ。すっと一緒にいるためには、やっぱり守る力も必要なんだ」
そうして腰の短剣に手をあてた彼は、やはり若き日の自分とは違う、正しい道を歩むのだろう。そう思わせるほど朱昊の姿はまばゆかった。
それを前に晃閃はかつての自分を思い出してしまう。
守るための力。はじめは自分もそうだった。しかしいつしか勝ち取るための力に変わっていた。
そのときにはもう自分はひとりだった。
鮮崋をはじめ雷臨に戰景、円太保に凛、そして陽明。
大切な人たちが確かにいたはずなのに、心の中では誰ひとりとして信用していなかったのだ。
晃閃のなかに再び黒いものが渦巻く。それは深い後悔の念と懺悔―そして。
「―うわの空だな」
その声に驚き振り返ると主の姿があった。
いつの間に起きたのだろう、手には二本の木刀が握られている。
「―晃閃、剣を振ろう」
彼は突然そう言って手元の一本をこちらに投げ渡した。
「よ、瑶千様?」
「―朱昊、そなたも見ておけ。まあ目がついてこられるかはわからないがな」
声をかけられた青年は目を輝かせて頷いた。これでは今さら断りようがなかった。
晃閃は渋々それを構え、攻撃に備える―。
晃閃は昔からこのような手合いが好きだった。
誰も傷つかないうえ、剣を振っているときだけは内に渦巻くものを抑え、無心になることができたから。
しかし、今日はどうもうまくいかなかった。剣を振り、剣を受けるたび邪念が湧く。
私はどうしていればよかったのだろう?
あのとき誰かを頼れば、こんなことにはならなかった?
誰かひとりでも信じていれば、あんな結末にはならなかったのだろうか?
瑶千の一撃が入ったのはそんなときだった。
鋭い痛みが左手に走り、危うく木刀を落としそうになる。
我に返ったときには目の前の瑶千はすでに間合いを取っていた。
すみません、そう言う前にすでに主は口を開いていた。
「―朱昊!そろそろ次の商談の準備をしてくれ。あと少しで終わるから」
「はい!」
駆け出した彼の後ろ姿を見送ったあとで、瑶千は静かに口を開いた。
「どうした晃閃?そなた……何だかおかしいぞ」
自分の体たらくに、弁解などしようがなかった。
しかし内に秘めたそれを主に話すわけにもいかない。
「……なんでも、ありません」
「何かあったのなら言ってくれ。そなたは―私の晃閃だ。私の剣の師匠であり、私の信頼できる侍従なのだから」
その声はなぜか酷く震えていた。
不思議に思い顔を上げると、主の顔は青白く心配そうにこちらを見ていた。
そして晃閃の両肩をそれぞれ手で強く掴み、振り絞るように続けた。
「何があってもどんなことがあっても、ここにいてくれ。あなたが誰であっても……お願いだから……ずっと傍にいてくれ……師匠」
向けられたのは憂いをたたえた金の瞳。
そして淡い巻き毛が風に揺れる。
見覚えのあるその光景に、思い出されるのはあの王の宮での一幕。
二十余年前、壮錬宮へと戻るあの庭園で。
「師匠」
そう自分を呼んだあの少年の姿だった。
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