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2章 回帰

4 水の都 憧晏

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 霽国一さいこくいちの歴史を誇る古都―憧晏しょうあん
 高い城壁の内側に入れば、安らぎのあまり二度と出られなくなると言われる霽の都の正体は、街中に張り巡らされた水路と豊かな植物相、そして年中を通して輝く太陽だ。

 建国以来三百年―熙延連山きえんれんざんの麓に広がる雄大な平野の中心に位置するこの都は、年中温暖ではあるが乾燥しており、かつては植物に適さぬ場所だった。
 それを「二度と出て行けなくなる」水の豊かな国に変えたのが、建国の祖ら旧六家きゅうりくけであった。彼らは都の東を流れる暴れ川―湘江しょうこうから水路を作り水を引きいれると、至る所に運河を張り巡らし都中を水で満たしたのだった。

 それら数ある水路の脇をゆったりと進む馬車があった。城壁の南に位置する鷺翔門きしょうもんから都入りしたその車には、郭来頼かくらいらい逍晃閃しょうこうせん二人の姿があった。
「さすが、昼時の都の人の多さよ」  
 来頼がそう呟くのも訳はなかった。
 道の端には鮮やかな旗を掲げた露店が立ち並び、その色が水面に反射し煌めいている。その中を人々の波が絶えず縦横無尽に揺れ動き、喧騒にも近い賑やかな声が響き渡る。
 そんな美しくも渾然とした光景を前に、晃閃は本当に戻ってきたのだとようやく自覚したのだった。
 その脇で、突然思い出したように大きな声を上げたのは来頼だった。
「そうだ!都に入った事だし伝えておこう。今後私のことは来頼殿と呼んでくれ。小さい家ではあるが、一応我が郭家かくけも貴族なのだ。しきたりに則っておかないと、兄上が何と言うか……」
「わかりました」
 そうして改めて耳にした来頼の姓はかく。晃閃に取って非常に聞き馴染みのあるものだったが、それまでだった。
 晃閃の中で思い当たる男は、霽国建国に名を連ねる旧六家郭家の嫡男であった。
(邸宅は馬鹿みたいに大きく、従者も覚えられないくらいに多かった。そもそも郭家のものならば、一族のことを小さい家などと呼ぶことは絶対にないだろう)
 ―憧晏しょうあんの一等地に居を構える旧家の誇りとやらを、一体どれだけ聞かされたことか。
 そうして苦い顔をする晃閃に来頼は続ける。
「そなたは、先程から呼んでいるように逍晃閃しょうこうせんと名乗れ。戸籍などの手続きはすでにこちらの名で済ませてある。そして……我が家人となった来歴だが……それもすでに考え済みだ」
 そう言って胸元をまさぐると、シワシワになった紙を開いた。
「そなたはこの都の生まれであり、若き頃から傭兵に志願し戦乱のたび戦地に赴いていた。しかし、とあるいくさで西国に捨て置かれて放浪していたところ、任務中の私が保護し家人とした―どうだ?中々ありそうな話ではないか?」
(確かに……あながち間違ってはいない)
 自分はそういう境遇の顔立ちをしているのだろうか。そう晃閃は気になったが、いま聞く訳にもいかなかった。
 そのため気持ちを抑えて顔色を保つことに集中したが、その様子を来頼は不満と受け取ったらしい。
「……気に入らなかったか?」
「いや、別にそういうことでは―」
 そうしてしゅんと肩を落とす黒髪の青年を、晃閃は心の底から好ましく思った。
 この若い警邏官は、牢を開けた時からずっと真っ直ぐで公平だった。正体のわからない自分を少しも疑うことなく連れ出し、手錠も付けずに馬車の対面に座らせたのは、きっと彼の性格によるものだと晃閃は思った。
「……そういえば、貴方は私の過去が気にならないのですか」
 うっかり口から出てしまい焦る晃閃に、彼は平然と答えた。
「ああ。当たり前だ。何度も言うように、そなたはもう私の大切な家人の逍晃閃しょうこうせんなのだ。例え自分から言い始めようが、私は聞かぬぞ」
 この青年ならば、たとえ自分との関わりが王命でなかったとしても、同じように言ってくれただろう。来頼の優しさに、晃閃は心の中で感謝した。
「―とはいえ、折角同行するのに会話が無いのはつまらないから聞くぞ。晃閃は都について詳しいのか?」
 問われた彼は思ったままに答える。
「そうですね。二十年前の記憶と今の都が、同じならですが」
「そうか!ではそれは逆に新しい視点になるな。―折角であるし、道中私に二十年前との街の違いを教えてくれないか?都の発展には、至極興味があるのだ」
 目を輝かせながら嬉しそうに語る来頼を、前に断ることなどできなかった。

 憧晏しょうあんに古くから存在する通りの全ては、都の中心である中央広場に向かって走っている。加えてそれと並行に流れる無数の水路と、垂直に円を描くように流れる二つの水路が存在する。
 後者は、水量が多くまるで街を流れる川のようで、橋を伴い区画を分ける要素となっていた。現在二人の乗った馬車は、ちょうど一つ目の橋を渡りきったところだった。
「私たちが入ってきた門は、南に位置する鷺翔門きしょうもんであり、今走っているのは対南道たいなんどうでしょう。かつては南方からやってきた行商人が数多く集い、外国そとぐにの逸品を扱う店が並ぶ通りだったと記憶しています」 
「ああその通りだ。南方淵国えんこくとの交易は今も安定して続いており―ご覧の通りだ」
 窓の外には鮮やかな装飾で彩られた看板が掲げられ、金属器や香辛料、果物など異国情緒溢れる品々が立ち並んでいる。
 それらの品々を横目に晃閃は続ける。
「―この先は中央広場に繋がります。さらに進めば、王宮へと向かう黄道門と貴族らの屋敷がありました。―ところで来頼殿、これからどちらに向かうのでしょうか?」
 そう問いかけたものの、何故か返答がない。
 気になって来頼の方に視線を向けると、これまで見た事のないほど、無表情になっている彼の姿があった。
「……来頼殿?」
「ああ、すまない。今から我が家でありそなたの帰る場所となる、郭家邸宅に案内しようと思っていたのだが……その…………よくよく見れば、今のそなたを連れて行こうものなら、余計な注目を集めてしまうと思ってな」
 そう言われた晃閃は、自分が酷い様相をしていることにようやく気付いた。
 顔を覆うひげは伸ばしっぱなしのままであるし、ぼさぼさの黒い髪は針鼠のようになっているに違いない。
 また身なりも相当に酷いはずだ。牢から出る際に受け取った外套は立派だが、その下の一張羅である囚人服は、当たり前だが洗濯などしたことがない。身体も一応拭いてはいたが、おそらく垢まみれだ。
 始めて顔を合わせた時、牢に入ってきた来頼は確かに顔をしかめていた。それを思い出した晃閃は申し訳なく思った。
「―案ずるな。今から向かう場所は、今のそなたが出歩いても目立たない場所だ。私の顔馴染みもいるし、安心して身なりを整えられるぞ」
 今の今まで何も言わずに一緒にいてくれた彼―郭来頼に、一生ついて行こうと晃閃は心に決めたのだった。
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