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プロローグ
はじまり
しおりを挟むあれ、あんなところでエマは何をしているのだろう。ゴマも一緒だ。
僕に気づいたゴマが振り返り低い声で「グゥギャー」と鳴く。
いつものことだけど変な鳴き声だ。ゴマの鳴き声は猫じゃないみたい。誰かがカエルの鳴き声みたいって話していたのを思い出す。カエルってことはない。けど、そんな変な鳴き声が僕は好きだ。猫界ではきっとナンバーワンハスキーボイスだろう。
「あっ、お兄ちゃん。おかえり」
振り返ったエマの服が泥だらけになっていて唖然とした。白の花柄ワンピースに泥の花も咲いている。そんなキレイなものじゃないか。あれ、なんだか花というより動物の手形に見えてきた。猫じゃない。犬だろうか。けど、ここには犬はいない。じゃ違うのか。あっ、エマのツヤツヤの黒髪にも泥がついている。こりゃ大変だ。
「エマ、泥が……。あっ、ゴマもだ」
「えへへ。エマもゴマしゃんもドロンドロンだ」
エマは泥のついた手で顔を擦り、泥がべったりと頬についてしまった。まったくしかたがない妹だ。こりゃ母に絶対に怒られる。いや、怒りを通り越して項垂れてしまうかも。
庭は昨日の雨でぬかるんでいた。これじゃ泥だらけになって当然だ。けど、これは酷い。エマはやり過ぎだ。
「えへへ、じゃないだろう。そんなに汚して」
「だって、だって。ゴマしゃんがね。お宝発見したんだもん」
「お宝?」
「そう、これ。見て、見て、ピカピカですごいでしょ。お宝、お宝、ツルツルピカピカキッラキラ」
まったくエマはまったく反省していない。ぬかるみであんなに飛び跳ねたらもっと泥だらけになってしまう。あっ、転んだ。やっちゃった。
「えへへ、やっちった」
ダメだこりゃ。
それにしてもなんだろう、あれ。本当にピカピカしている。ピンポン玉くらいの透明な玉だ。いや、違う。なんだか虹色に輝いて見える。エマは立ち上がり庭から出てきてこっちへ近づいて光る玉を見せてくれた。
「庭にあったのか、これ」
「うん、そうだよ。すごいでしょ。きれいでしょ。ピッカピカのキッラキラのツルッツルだよ」
僕はじっと玉をみつめて首を捻った。ガラスの玉だろうか。大きさは違うけど、こんなの占い師が使っているのをテレビで見たことがある。あれ、なんって言っただろうか。えっと……。そうだ、水晶玉だ。けど、なんで庭に。
空から降ってきたとか。僕は雲が流れていく青い空を見上げた。そんなことがあるだろうか。もともと庭に埋まっていたのだろうか。さっきまでエマとゴマがいたところに目を移す。
考えても答えは出てこない。
あっ、今はそんなことよりもエマの泥だらけの服だ。ゴマの泥まみれの足も洗ってやらなきゃいけない。
「エマ、今はその服を着替えようか」
「やっぱり着替えなきゃダメかな」
エマは自分の服に目を向けて「うーん、汚いね。ゴマしゃんも汚い。でも、なんだかお花みたいだよ、これ」と呟き笑い出した。笑いごとじゃないのに。エマも花に見えるのか。けど本当に花柄だろうか。
「あら、侑真帰っていたの」
「あっ、お母さん。ただいま」
「おかえり。あっ、エマ、何その格好は」
母はポカンと口を開けて動きを止めてしまった。
「えへへ、汚れちった。けど、ピカピカツルツルのお宝みつけたの。すごいでしょ」
エマの言葉に母は我に返り眉間に皺を寄せた。
「何がお宝ですか。もう、洗わなきゃいけないでしょ。ああ、ゴマさんまで泥だらけじゃない」
母は溜め息を漏らして項垂れた。
そのあとエマとゴマは風呂場に連れていかれてシャワーを浴びていた。ゴマはシャワーの水飛沫に目を見開き逃げようと必死になっていたが母に押さえつけられて逃げられずにいた。けど、ゴマは隙をついて風呂場から脱出してキッチンからリビングまでびしょびしょにしてしまった。僕はゴマのあとを追いかけてタオルでどうにか拭き上げた。もちろん、濡れた床も拭いていった。
エマもゴマもそのあと、母にこっぴどく叱られていたのは言うまでもない。
「ごめんなさい」との言葉とともに二階へと一歩一歩上るエマの姿が目に焼きついた。叱られているときの耳をペタンと倒したゴマの姿も忘れられない。
「言い過ぎちゃったかな」
「大丈夫だよ、僕が慰めてくるからさ」
「お願いね。侑真」
*
エマは大丈夫だろうか。母に叱られて落ち込んでいるだろうか。僕は様子を見に二階へとゆっくり上がっていく。
部屋の扉の向こう側からエマの声が聞えてきた。
「パパ、うん、そうだよね」
「ママはエマのことキライじゃないんだよね」
「エマが汚しちったから悪いんだよね。うん、わかった。エマ、がんばる」
「うわっ、まんまるでもふもふでかわいい」
「あはは、そっか、そっか。うんとね、エマ、おままごとする」
エマの声がだんだん明るくなっていく。けど、誰と話しているのだろう。
「えっ、そうか。うん、わかった」
「はい、これはゴマしゃんのぶん」
「これは、パパね」
「これは、えっとまんまるさんね。うーん、違うか。もふもふさん。でもなくてもふもふ様にしよう」
「あっ、そうだ。はい、これどうぞ、めしあがれ」
エマ以外の声はしない。独り言なのか。大丈夫だろうか。心配になってきた。
扉には鍵はない。ゆっくりと扉を開けて覗き込むと背を向けているエマがいる。ここからだとよくわからない。
「えっ、なになに。あはは、もふもふ様、おっかしい」
「えっと、えっと。こうかな」
エマはムクッと立ち上がるとお尻を揺らせて「おしり、ふりふり。おしり、ふりふり」と歌い出した。
「あはは、パパともふもふ様すっごーい」
なにやっているのだろう。気が変になっちまったのか。
僕は部屋に入り「エマ」と声をかけた。
「あっ、お兄ちゃん」
「なにをしていたんだ」
「みんなに『おもてなし』していたの」
「おもてなし」
エマはそんな言葉を知っているのか。どこで教えてもらったのだろう。というか叱られたばかりなのにもういつものエマに戻っている感じだ。切り替えが早い。僕だったらしばらく落ち込んでいるだろう。気にして損した気分だ。まあ、よかったけど。
「そうだよね、みんな。おもてなしだもんね」
エマはみんなというけれど、目の前には猫のゴマしかいない。まだ少し毛が乾ききっていない。気になるのだろう、念入りに毛繕いをしている。ここに何人かいるという設定なのかもしれない。おままごとをしていたのだろうか。ままごとセットのおもちゃが目の前に置かれていた。
「ゴマさんと遊んでいたのか」
「うん、けどパパもいるよ。あと、もふもふ様もいるよ」
もふもふ様ってなんだろう。おもちゃの名前じゃなさそうだけど。もふもふ様と呼べそうなおもちゃはない。そう思いつつ『パパ』の言葉が気になった。
「パパって」
「ここにいるよ、お兄ちゃんには見えないの」
ドキッとした。飾られている父の写真を指差して「パパがいるの」と訊いてみた。エマは「うん」と頷く。本当にいるのだろうか。いやいや、そんな設定だ。そうだ、そうだ。いるはずがない。いたら幽霊だ。それともエマには幽霊が見えているのだろうか。
ゴマはエマに出されたプラスチックでできた魚を目の前にして鼻をヒクヒクさせて匂いを嗅いでいた。けど、食べ物じゃないとわかるとゴロンと横になってしまう。エマに付き合うことが飽きてしまったのかもしれない。いや、最初からここにいただけでエマに付き合っていたわけじゃないのかもしれない。
「ああ、ゴマしゃんダメでしょ。食べて寝たら牛になっちゃうよ」
思わず僕はプッと吹き出してしまった。いつもエマが母に言われている言葉だ。
「えっ、パパもう帰っちゃうの。そうなんだ。じゃ、またね。もふもふ様も行っちゃうの。つまんないな」
手を振るエマ。本当にいるのだろうか。
「うん、わかった。お兄ちゃん、パパがガンバレって」
「えっ」
いるのかいないのかわからないけど、僕は気づくと「頑張るよ」と答えていた。そこに本当に父がいたらいいと思っていた。
「ゴマしゃん、寝ちゃダメって言っているでしょ」
エマはゴマの身体をこちょこちょと擽っていた。ゴマはエマの手を跳ね除けようと前足と後ろ足でエマの手を押し返す。けど嫌がっているというよりも遊んでいるって感じで楽しそうだ。僕も混ぜて欲しいくらいだ。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。エマね、ゴマしゃんのおよめさんになる」
「えええーーー」
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