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1.作家先生の不幸

不思議な男

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 チンっと軽やかな音が聞こえたら、ダイニングを一度でいいから覗くようにしている。キッチンに男が立っているのを見るのは未だなれない。
 妻がこだわっていたシステムコンロで、使ってほしくないと打ち明けた。飯の用意を任せると契約した手前で、何を無茶なと怒るだろうかと思ったが、この男は人好きの良さそうな顔でわらって理解を示した。それどころか、ハッと息を呑んで、作ってきた惣菜を温めてしまったが、もしかして嫌だっただろうかと聞いてきた程だった。

 明らかに美容院で染めただろうクリーム色の頭に、がちゃがちゃにピアスをつけた軽薄そうな男が、こうも理解を示すものだから、詐欺師なのか善良な男なのか、考え込んでしまったほどだ。

 男は10時に毎日やってきては掃除機を動かし、洗濯をし、保冷バッグに詰まった男が作った料理をレンジで再加熱をする。生野菜やサラダ、フルーツを食卓に上げたいと言われ、母の日に送った包丁を使われたくないと話せば、ジュラルミンケースのような包丁セットを持参するようになった。とんとんと軽やかなまな板の打音がしなくなってから降り立てば、グレーのエプロンを着たスウェットパーカーの男がこちらを振り返り「おはようございますッス」と挨拶した。

「今日のは自信作ッス。」

 男がこの家に通うようになって7日。男が出す食事にまずいものなどなかった。熱いお茶が急須から注がれ、味噌汁が電子レンジの中から出てくる。豚肉の生姜焼きのキャベツはふわふわと細かくなっており、タレを吸って美味しそうな色をしていた。ごきゅ、と喉がなりつばが溢れた。

「……いただきます」
「召し上がれ」

 食卓に付けば男はさも嬉しそうに笑いこちらを見つめた。箸はつややかなコメを掴み口に運ぶ。好みの硬さにふっくらと炊かれたものを食み、肉に箸を運ぶ。針生姜を避けると、クスクスと机の向かい側から笑いが漏れた。

「辛いの苦手なんッスね。」

 やつは覚えとくッスと言った。

「それで今日はこの後、何をしたいんだ。」
「風呂掃除と寝室の掃除機がけ!あとシーツ交換ッス!」
「……多すぎる。却下だ」

 この男の献身は計り知れない。使うなと言った食器や、家具には絶対触らない男だが、するなと言ってないことに関してはすべてやってしまう。例えば、トイレ掃除や、庭の雑草抜きなど、多岐にわたってこいつは動くのである。若い男の貴重な時間を、こんな偏屈な老いぼれの世話にだけ当てるべきでない。そう言っても、やつは何でも動き仕事を見つけこなしていく。時給いくらで使われているのかわかっているのか。甚だ疑問だ。なので飯を食べているときに、本日の業務内容を聞くのだ。

「シーツ交換と寝室の掃除機がけはおんなじ日にしたいッスよ。」
「……わかった。風呂掃除はなしだ。」
「ちぇ…。そんで小倉さんの仕事進捗はどーなんッスか?」
「編集者の仕事だ。それは。」

 男がこの家に来てから、筆は進んでいった。手料理に飢えていたのか、話し相手に飢えていたのか……家が散らからなくなって心に余裕ができたか。今でも妻のことを思い出し喪失感にさいなまれる日はある。忘れたことなどない。泣きたくなることだってある。以前なら彼女をおいて未来に進む文面の息子の足を、引っ張ろうとする自分がいた。失ったのだから喪に服し、私とともに嘆き続けるべきだと泣いていた。
 それが無くなった要因がこの男にあるのならば、俺はこの男に捨てられるわけには行かない。妻は俺が筆をおることを拒んでいたからだ。私は描き続けなければならない。

 この男に報酬を払っているのは俺ではなく和俊で、俺が賃上げをすることはできない。となれば自分の勤務環境に不満を覚えないように、このよく動く勤勉な男を俺がセーブしなければならない。

「それじゃあ、俺寝室にいるんで何かあったら教えて下さい。お皿はそのまんまにしてていいっスからね」
「ああ、わかった。」

 男はそう言うと粘着ローラーと掃除機を担ぎ、寝室に上がろうとする。待て、と引き止めれば「はい?」と振り返る。

「その、美味い。ありがとうな」

 そう口にするとよく光を飲む精気の満ちた若者の目は光量を増した。からっとした笑いは斜陽を思わせる眩しさだった。一言口にするだけで、この好色男の皮をかぶった好青年がこれだけ喜ぶのならば、また言ってやっても良いかもしれない。不思議で安上がりな男は「よかったッス」と言うと頬を赤らめて掃除機を担ぎ直し2階に上がっていった。笑顔が安く二束三文以下で叩き売りされている。俺は恐ろしくなった。

ーー

「先生、元気そうで…ぼく、僕は本当に良かったです!」

 客間に通されたのはつい最近自分に着いた新人副担当だ。開口一番、副担当はキラキラした目をさらに輝かせて、ニコ―っと笑った。客間の菓子盆には男が焼いてきたクッキーがうず高く積んである。ジャムの乗った丸いものと白黒の市松模様のクッキーは、赤色ばかりが若い副担当に吸い込まれていく。副担当はおいしーっと破顔した。指が止まらす、深い木皿の盆の中身は徐々に嵩をなくしていく。

「ふん、そんなことを聞きたいわけじゃない。さっさと原稿を確認してさっさと帰れ。」

 印刷した原稿とデータが入ったUSBを渡すと用意されたおしぼりで手を拭き原稿を読み始めた。担当の目が打ち出しの原稿の上を滑るのを見て、こっそり菓子盆をこちらに引き寄せた。あの男はなんて多彩なのだろうと感心しながらバターの香るクッキーを食べる。きっとあの男は担当や俺から美味かったといわれても、「別にクッキーは簡単なんッスよ。マカロンとかは成功率五分五分で…」なんて自分の技量を鼻にかけることもなく謙遜するのだろう。つくづく変な男だ。さく、と歯ざわりの良いそれをかじるとふわりとココアの味がした。

ーー
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