謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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礼記、狙撃の報を聞く。

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 礼記に東宮襲撃の報が入ったのは、その日出仕して、ちょうど部下に演習のことで物資の手配の割り振りを命じた時だった。

「揮将軍、緊急事態です」

 以前礼記のもとで文官として働いていた陶李児とうりじが駆け込んできた。

「何事か」

 顔を真っ赤にして息を切らせつつ飛び込んできた文官に、思わず自らの前にあったぬるめの茶を差し出すと、差し出された方は受け取って一気に飲み干した。
息がととのうのを待って、報告を促す。

「東宮が先ほど、後宮内で狙撃されました」

 目を見開き、まじまじと報告をしてきた文官を見る。
国内で最も警備が厳しい場所で、東宮が狙撃されるとはまずあってはならないことだ。
周囲に居た部下たちも一瞬見交わして声がざわりと動いた。

 政争による暗殺などはなさけないことよくある話ではあるが、そういったものは大抵相手に毒を盛ったり、相手の失脚から処刑を狙ったりするので、直接的に狙撃であったり襲撃であったりと言うのは実はあまりないことである。

 礼記の所属する近衛府は、本来の兵制である五軍都都督府ごぐんととくふのうち、中軍を指す。
指揮命令については、皇帝の直属ではあるが、形としては兵部の下に位置する。
皇帝を除けば、大将軍が一名、礼記と同等位の将軍があと一名、下に副将軍が二名、あとはそれぞれの官職に基づいて官僚及び兵が配置される。

「して、東宮にお怪我などは」

 なるべく普通を心がけて発生はしたが、なにぶんにも異常事態の発生である。
しかも最大級の。
礼記は視線で副官に箝口令かんこうれいを命じる。
副官はうなずくとすぐにその場にいた官僚や兵に箝口令を伝える。
それを視界の端に入れながら、礼記は報告を聞いていた。

「では、東宮にお怪我はないのだな」
「はい。幸いにして東宮にも後宮内のお妃さま方にも一切怪我などもなく、狼藉を働かれたと言ったこともなかったようです」
「ふむ。ほかに被害者は」
「狙撃された際に、宦官の一人に矢が当たり、東宮の避難を最優先にした結果殉職したとのことです」

 礼記は瞑目した。
死は悼むべきものだ。
しかも、東宮を守っての死だ。
本人は亡くなったが、家族には恩賞が下されるだろう。

「して、東宮は今どちらに?」
「皇太后陛下の照涼殿しょうりょうでんに避難なされたとか」
「まだそちらにおいであそばすのか?」

 そこまではわからない、と陶が首を振るのを見て、礼記は席を立った。

「ただいまより非常事態に備えて体制を調えよ。何人かついてこい、東宮の御身の安全を確かめに参る。陶、その間に大将軍にかかる事態の報告を申し上げておくように」

 礼記は掛けてあった剣を手に取ると腰に下げ、副官である趙陶園ちょうとうえんと何人かの兵に伴を命じ、先に東宮の執務室の置かれた露瑛宮ろえいきゅうへ先触れを出す。
現場が後宮とあっては、普通のである礼記は中には基本的に入れない。
後宮の中は全て、皇后を頂点とした女社会である。
男性はその性器を切り落とした宦官でなければならず、切り落としてしまったがゆえに宦官は男ではない。
だから、いくら礼記が近衛府の将軍で皇帝や東宮、それにごくたまに妃嬪たちの寺院や廟への参詣で外に出る時に警護をするとしても、そのまま後宮に乗り込めるわけではない。

 後宮は後宮でその秩序があり、全く別の世界なのだ。
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