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しおりを挟むトゥーランの長い冬が終わり、雪の代わりに薄い色の花が山々を彩りはじめた。フィーナディアは雪に囲まれた間、妃教育を進め、自身の神話研究も進め、何よりラグルとの距離を縮めていた。
「夜会、ですか?」
紅茶のカップを持ったまま、フィーナディアは目の前のカウチに体を預けてあくびを一つこぼしたラグルにぱちりと瞬きを一つ送った。
最初にお茶会を開いた温室で、最初のお茶会と同じように二つのカウチとローテーブルにお茶会のセットを用意し、フィーナディアとラグルは最低でも七日に一回はこうしてお茶会を開いていた。と言っても、しばらくおしゃべりを楽しみ、その後はラグルは舟をこぎはじめるのでフィーナディアは読書を楽しむのだが。
「書面での婚約は成立しているが、対外的な報告はまだだったからな」
雪が溶けてウィアーデへの道も開けた。本来なら婚約と同時に発表も行うが、フィーナディアが来たのは秋の終わりで季節柄、トゥーラン以外の主家やその旗手の家々がトゥーランへ来るのは難しい。そのため先送りにされていたのだ。
「いつにするかはこれから相談しつつだが……」
「では他のことと並行して夜会の準備もしないといけませんね」
「そうだな」と少し歯切れ悪くラグルは言うと、虹色の瞳で控えめにフィーナディアを見つめた。
「それもそうなんだが……ドレスを……」
「ドレス?」
「贈らせてもらえないだろうか?」
「えっ」
視線をそらしたラグルの耳が微かに赤く染まっている。
「ラグル様が……わたしにドレスを……?」
「迷惑なら――」
「いえ! そんな! うれしいです……」
控えていた侍女たちが微笑ましそうな顔をするので、フィーナディアは真っ赤になって姿勢を正した。この頃はもうすっかりフィーナディアを彼女自身の父親の悪評に重ねて評価する人間は、少なくともこの城ではいなくなっている。
むしろ侍女たちは若き国王とその婚約者の少しじれったさも感じる関係を楽しんで見守っている節があった。アルマをはじめとしたフィーナディアの侍女たちは他の侍女やメイドたちからよく二人の関係の進展具合を聞かれている――フィーナディアは知らなかったが。
「フィーナディアはあまり宝飾品に興味がないと思っていた」
ラグルは少しほっとしたようにそう言った。
「そうですね……ドレスも装飾品も必要な分だけあればと思っています。ですが、ラグル様からの贈り物だからうれしいのです」
「そうか」
虹色の瞳が細められるのを見て、フィーナディアは胸の奥がほのかに温まるのを感じた。ラグルは自分にはセンスがないからデザインは選んでやれないと言うが、少し申し訳なさそうにする様子にフィーナディアはしあわせを感じた。
ラグルと共に過ごした長い冬は、フィーナディアが今まで経験したどの季節よりもすばらしかったと思う。妃になるための様々な学習も、今まで神話に関わったり神話研究の役に立ったりする勉強以外はどちらかと言えば義務的に行っていたのだが、似たような内容でもずっとおもしろく、意欲的に学ぶことができた。
父のせいでやらなければならなかった領地経営の経験も、ラグルの婚約者として執務に関わるようになってから随分と役に立ち、無駄ではなかったと思える。
ラグルも彼の周囲の人たちもフィーナディアをバカにしたり理不尽に怒鳴ったり、殴ったりすることもない。フィーナディアの話にちゃんと耳を傾けてくれる。
それにラグルは――フィーナディアは図書館で神話研究をしている時、昼寝に来たはずのラグルがしばらく黙ってフィーナディアの様子を見守っている、その時の瞳が好きだった。虹色の瞳はどこまでもやさしく、それでいて楽しそうにフィーナディアを見つめている――。
こうしてお茶会で、しばらくおしゃべりを楽しんでからやがてうとうとと眠りにつくラグルを見つめるのも好きだった。虹色の瞳はまぶたによって隠されているけれど、穏やかな寝顔にフィーナディアも表情が自然とやわらいだ。
できればこのままこのトゥーランで、ラグルのそばで過ごすことができたらどんなに素敵だろう。しかし自分がここにいて、ラグルと婚姻を結べば自分が父の言いつけを守らなかったところで父が余計な口出しをしてくるのは明白だ。
この王城の人たちも含めて、トゥーランの人たちはみないい人たちばかりだ。絶対に迷惑をかけたくない。父をどうにかできないか叔父とも相談していたが、いい案は今のところ浮かんでいなかった。
フィーナディアは眠るラグルのそばで紅茶を楽しみながら、彼に贈られた本のページをめくった。ドレスを贈ると彼が言ったのははじめてだったが、本は何度か贈られている。それも全てフィーナディアが好きそうで、それでいてなかなか手に入りにくい本ばかりだった。
フィーナディアがページをめくる音と、ラグルの小さな寝息以外は静かな温室の空気を破ったのは、あわただしい足音だった。「失礼します」と温室に現れたのは足音以上にあわてた様子の文官だった。
「どうかしたの?」
彼はラグルに視線を向けて困ったように眉を下げた。
「おくつろぎのところ、申し訳ございません。先ほど突然お客様がいらっしゃって――今、ローディム様がお相手をなさっているのですが、至急陛下をお呼びするようにと申しつけられまして……」
「お客様? 先ぶれもなしに?」
「は、はい……」
フィーナディアは眉をひそめた。ラグルは国王でもあるし、トゥーランの主家の当主でもある。先ぶれもなしに会いに来るのは無礼すぎる。主家の当主同士だってよほど気心の知れた者同士でもなければそんなことはしない。
「少し待っていて」とフィーナディアは文官に声をかけて座っていたカウチから立ち上がると、そっとラグルのそばへと寄った。
「陛下、起きてください」
肩を軽くゆすって声をかける。こんな風にラグルの睡眠を邪魔することはいつもだったらしない。民のために魔力を使って疲れている彼に、少しでもゆっくりと休んでほしいからだ。
「ん……」
「ローディム様がお呼びだそうです」
「ローディムが……?」
穏やかだった寝顔から一転、眉間にしわを寄せて不機嫌そうにラグルは目を覚ました。
「お客様がいらしたらしいのですが……」
「客? 今日は来客の予定はないはずだ」
ラグルは顔色悪く立ちすくんでいる文官に視線を向けた。
「はい、その……陛下にではなくフィーナディア様のお客様なのですが……」
わたしに……? フィーナディアはきょとんとした。自分に客など心当たりがない。
「ローディム様が対応されて、先ぶれがなかったのを理由に追い返そうとされたのですが、その方がフィーナディア様に会わせろと言ってゆずらないのです……ローディム様はご立腹で、陛下を呼んでくるようにと……」
「誰だ?」
文官は、今度は気まずそうにフィーナディアを見た。
「はい……その、エリーディアの、フィーアルテ様です」
「えっ」とフィーナディアの口から声がこぼれる。
「お姉、様が……? ど、どうして……」
「妹の様子を見に来たのだと……国王陛下の婚約者の姉なのだから自分も城に滞在してもいいはずだとおっしゃっていて」
心底困った声でつづける文官の言葉が流れていく。トゥーランでの生活が穏やかで満ち足りたものだったからといって、父や姉の――エリーディアの問題を忘れたわけではなかったが、まさかこんな風に姉がトゥーランに来るとは思っても見なかったのだ。
「あ、あの……父は……? 父も一緒なのですか?」
「いえ、ご令嬢だけのようでした。あとは付き人のような方々だったと思います……私はたまたまローディム様を捜していて、陛下をお呼びするよう言われただけではっきりとは……申し訳ございません」
「そう、ですか……気にしないで」
フィーナディアはちらりとアルマを見た。アルマも険しい顔をしている。なんとか姉を帰さなければ……そもそも先ぶれもなく訪問するなんてありえない。しかしそれを姉に言えば罵詈雑言が飛んでくるのは目に見えてわかっていた。
「ラグル様」
ため息をつきながら立ち上がったラグルをフィーナディアは呼び止めた。
「わたしが行きます」
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「そういうわけにはいかない」
「ですが姉は――その、父と同じ考えを持っている人間なのです。きっとラグル様を不快にさせます」
「だがフィーナディアを行かせるわけにはいかない。ひどい顔色だ」
ラグルはフィーナディアのそばに歩み寄り、その手を伸ばして青白くなった頬に触れた。
「平気です」
「そうは見えない」
「……姉がみなさんに迷惑をかけていないか心配なのです」
「わかった」とラグルは少し間をおいてささやくように声を落とした。
「一緒に行こう」
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