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第二章 妃選び

14.再会

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 春の陽だまりの香りを感じた。



 髪飾りを強引に目の前の使用人に渡そうとしてその指先と自分の指先が微かに触れ合った瞬間、シトロンは泣きたくなるくらい懐かしい気配を確かに感じた。母と呼んだ人の魔力と――魂と同じ気配だ。

「は、母上……?」

 床に落ちた髪飾りを追っていた紫色の瞳と、シトロンの黒い瞳がぶつかった。お互いにお互いをどこか呆然とした面持ちで見つめ合っていた。

 どうすればいいかわからない。シトロンの金色の瞳孔を持つ黒い瞳が困惑から徐々に確信めいた光を帯びていくのを見ながら、ミモザは指先が硬直するのを感じた。間違いなく、気づかれてしまった。魔獣族は他のどの魔族よりも直感に優れているが、気づかれた理由はきっとそれだけではない。

「母上なの……?」

 頼りなくのばされた腕に、ミモザはびくりと肩を跳ねさせた。触れる前に止まった手は行き場を失い、シトロンの瞳が戸惑いに揺れた。ミモザはぐっと唇を結んだ。そんな顔をしないで欲しい。

「そうなんだろ?」

 「いや、でも……」と戸惑いは声にも現われていた。シトロンが気づいたとしても、まさかミモザが前世の記憶を持っているとまでは考えられないのだろう。泣きそうに下げられた眉に心が痛み、否定も肯定もするつもりはなかったのに無意識のうちにミモザの口からは「シトロン……」と声が漏れていた。

 ハッと上がった顔が、驚きからじわじわと喜びに染まっていく。「母上!」と今度こそ伸ばされた腕はミモザに届き、彼女の体をしっかりと抱きしめた。「会いたかった」と言う声はミモザの記憶よりも低く、抱きしめる腕はたくましい。その成長を喜ばしく思う気持ちと、傍で見られなかったさみしさと、彼に今の自分が前世の記憶があることを覚られてしまったことに対する複雑な心境でミモザはどんな顔をしていいのかわからなかった。
 抱きしめていた腕が緩められ、再び見えたシトロンの表情は満面の笑顔だった。尻尾も勢いよく振られている。「陛下にも伝えないと!」と、シトロンはやはり嬉しさで満ちあふれた声でそう言った。

「待って!」

 すぐに部屋を出て行こうとするシトロンの腕をつかんで咄嗟にミモザは叫んでいた。

「彼には言わないで!」
「えっ――」

 ハッとしてミモザは口に手を当てた。失敗した……ショックを受けたシトロンの表情にも心が痛むが、咄嗟に口をついた言葉はミモザが全く意図していない強さだったからだ。

「そ、その……」
「母上、どうして……」
「ち、違うの……」

 こういう時、魔獣族であるシトロンは耳や尻尾にも感情が現れて、それがまたミモザの申し訳なさを煽った。

「陛下のこと……嫌いになった……?」
「そ、そうじゃないの……そうじゃないけど、彼には、言わないで……」

 シトロンの腕をつかんでいたミモザの手が力なく下げられたのを、シトロンがやさしく捕まえた。「わかったよ」という声に顔を上げると、どことなく困ったように眉を下げたシトロンと目が合った。困っているようだけれど、やさしい眼差し――どこか遠い昔に見たことのあるような表情だった。
 髪飾りを拾ったシトロンに促され、ミモザは彼の執務室にある応接セットのソファに並んで腰かけた。さりげなくシトロンが部屋にかけられた防音の魔法を強化するのにそっと目を細める。前世で、はっきりとした理由もなく、ただ放っておけなくてアルディモアの辺境の街からこのザルガンドへ連れて帰った彼も、きちんと傍にいてあげることができなかった。しかし今の様子を見る限り、彼はきちんと大切に育てられたのだろう。
 シトロンに父と呼ぶことを許さなかったこの国の王も、そっけないフリをしながらシトロンのことを大切に思っている様子があったし、ミモザとなってから聖女アルティナの傍にいた時に聞いた話だと、シトロンはアルティナと実の兄妹のように育てられたようだった。

「妃選びのこと、気にしてるの?」

 息子シトロンの成長に目を細めていると、シトロンがそう切り出した。

「そういうわけじゃないけど……」

 どう言ったらいいのだろう。

「自分から名乗るつもりはないの……こうして前の人生のことを覚えているのもはじめてだし……」
「そうなんだ……」

 たしかにこの国の王の話を聞いた限りでは、彼は最愛の相手といつも一から出会い直していた。シトロンからすれば記憶のあるなしに関わらず再びこうして同じ場所に両親がいるのだから二人には仲よくしてほしい……でも、

「二人のことは……二人のことだから母上の思うようにしたらいいよ。妃選びのこと、気にしていないならそれで」
「どうしてそんなことしているのかな? っていう意味でなら気になっているけど」
「言っておくけど、はじめたのは陛下じゃないよ」

 シトロンは眉をひそめた。

「宰相府の財務部で大臣をしてるドゥーイってヤツが言い出したんだ。ここ百年くらいで出世したヤツだから母上は知らない魔族だと思うけど、人間の国で生まれた精霊で、財務部の役人としては優秀なんだ。
 ただ、権力欲が強いっていうか……勝手に派閥みたいなものを作って、敵も多いし……妃選びをはじめたのも、自分が推薦した候補者が王妃になれば今の地位以上の権力が手に入ると思っているんじゃないかってあいつの派閥じゃない役人の間では言われているんだ」
「わたしが言うのもなんだけど、陛下がその――生まれ変わりを探しているっていうのはもちろん知ってる……よね?」

 何しろこの国では物語や舞台になっているのだから。

「知ってるけど、信じてないんだ。生まれかわりのこと……ドゥーイの派閥はそういうヤツらが多いよ。仮に生まれ変わっていても、わかりっこないって」

 このザルガンドだってそういう者もいるのはミモザも知っていた。前の人生でアルディモアからこの国に嫁いできた時に、そういう陰口を言われたことがあったのだ。生まれ変わりなんて、何の証拠もないと。

「もちろん、陛下の前ではそんなこと言わないけど」シトロンはつづけた。「陛下の目を気にしてるみたいで、一応あいつの推薦した候補者は、母上が亡くなってから生まれた人間や魔族ばかりだし」

 「ただ」とシトロンはつづけた。

「なんで陛下が許可を出したのか……」
「理由は聞かなかったの?」
「教えてくれないんだ。ドゥーイにも好きにしろって言っただけみたいだし、妃選びそのものにはそんなに興味がなさそうだけど……ベレナングレン様がいたら反対してくれたのに」
「ベレナングレンいないの?」
「そうなんだ。旅に出てて……五年くらい前に陛下の喪中が長すぎるってキレて……連絡も取れないから戻ってきてもらえない」
「実家とかは?」
「あの方が実家に戻るわけないよ」

 投げやりなシトロンの口調にそれはそうかとミモザも苦笑いした。

「陛下も事情があるなら教えてくれたらいいのに……ベレナングレン様になら、話したのかな……」

 どうだろう? 少しだけ頭を下げたシトロンのやわらかな金髪をミモザはそっと撫でた。
 ベレナングレンはこのザルガンドの宰相だ。ザルガンドは千年近く前――ミモザの最初の前世が死んだ後に建国された。一つ前の人生でこの国で嫁いだ時に建国はこの国の王と宰相によってなされたことを知ったのだが、どちらかというと宰相であるベレナングレンの力が大きかったようだ。
 妃選びに何か理由があるとして、シトロンにそれを話さなかったのは彼をまだ幼い子どものように思っているからだろうか? どちらにしろシトロンにこんな顔させることには少しムッとしてしまう。

「こんなに空気が悪くなるならあの方がいてくれた方がマシなんだけど。使用人たちは大丈夫?」
「うーん……どうなんだろう。よくはないけど、わたしは採用されたばかりだから。人間の候補者とか関係者もいるから、考え方とかの違いもあるし」
「そうだよな……せめてもう少し候補者が少ないとか人間の王族が少ないとかなら違ってたのか……使用人たちにも負担を強いて、この状況どうなんだろう……」

 机に置かれた髪飾りを夜空に月が浮かんだような瞳が見つめた。

「今回の件でイシルマリの王女を国に帰せたらよかったんだけど」
「それはそれで国同士にわだかまりができない?」
「それより、ドゥーイが別の候補者を穴埋めに持ってくる方が嫌だったんだ。あの王女はベライドの王女に比べたらずっとマシだし、どんな穴埋めが来るかわかったもんじゃないからさ」

 「ドゥーイが推薦した候補者ばかりじゃないけど」とシトロンは疲れた顔をした。

「ドゥーイの牽制に軍部も候補者を一人送り込んでいて……それも厄介なんだよ。派閥争いも酷くなるし……派閥なんてベレナングレン様が戻ってきたら意味がなくなるのに……宰相府の中でもドゥーイの派閥や軍部に対抗して候補者を出せとかいう声が大きくなるし……」

 そもそも本気で妃選びをするつもりがないのだから牽制の意味はないとシトロンは思っていた。宰相府の女性陣も同じ考えで、声が大きい一部には辟易している。特にシトロンをはじめ若い魔族は無駄に圧力をかけられて相手をするのが面倒なことこの上なかった。

「陛下の目的がはっきりしたら、宰相府の女性文官は協力してくれそうな気もするけど――」

 シトロンの夜空に月が浮かんだような瞳がミモザの紫色の瞳とぶつかった。彼はハッとしたように目を丸くして、「そうだ――」と、水仕事で荒れたミモザの手を取った。

「母上がなってよ」
「えっ?」
「母上が妃候補になってよ。俺が推薦するから。宰相府が牽制のために選んだっていう建前で――母上が候補者になれば陛下だって色々考え直してくれるかもしれないし、妃選び自体すぐに終わるかも……」
「ちょ、ちょっと待って、わたしは自分から彼に会いに行くつもりは――」

 シトロンが傷ついたような顔をするのでミモザは言葉につまった。

「お願い、母上。俺を助けると思って……」
「シトロン……そう言われても……」
「それに、確かに母上に会えば陛下は妃選びを終わらせるかもしれないけど、今のところ陛下が妃選びの場に来たことはないからそうすぐに顔を合わせることはないよ」

 たしかにアンナベルもこの国の王の妃選びに国王が姿を見せないと言っていた。「お願い」と再度口にしたシトロンにミモザは「うーん」とうなった。

「わかった……でも、使用人はつづけたいし、彼がもし顔を出すようになったらその時はやめるから」
「……わかった」
「それからアルティナの髪飾りはシトロンが届けて」
「えっ! それは……」

 シトロンには聖女アルティナが髪飾りを他の誰でもないミモザにたくした理由がもうわかっていた。

「アルティナはあなたが母上だって知ってたんだろ? だから髪飾りをたくした――アルティナの気持ちを考えたら、母上が届けた方がいい」
「それはわかってる……でも、元々ここに来たら誰かに頼もうと思っていたの。アルティナには悪いけど――彼と顔を合わせるつもりはなかったから……」

 この気持ちをシトロンに伝えるのは酷な気がして、ミモザはそれ以上何も言わなかった。沈黙がしばらくその場に居座り、やがてシトロンがため息まじりに「わかった」と告げた。妃候補を引き受けてくれるなら、髪飾りは届けると。「ありがとう」というミモザもそれを受けたシトロンも、お互いに少し複雑な気持ちを胸に抱えていた。





***





 国王の私室の傍は、夜の闇の気配が強い。黒色の扉には白銀の線で星空を思わせる美しい模様が描かれていた。隣は王妃の部屋だが、もう長い間その主は不在だ。

 シトロンはノックをし、「シトロンです」と声をかけた。低い声がそれに答え、何もしないのに扉が開いた。一瞬、シトロンは自分が深い夜の闇の中に放り込まれたような気がした。しかし瞬きを一つすると、そこにはよく見慣れた王の部屋があるだけだった。
 王妃の私室と同じように二間つづきの王の私室の手前の部屋に彼はいた。長椅子にゆったりと身を預けるこの国の国王は長い黒髪と金色の瞳を持ち、その頭には美しい二本の白銀の角を持っていた。

「何かあったのか?」

 シトロンは遠慮することもなく王に近づいて布で包まれた聖女の髪飾りを彼に差し出した。

「これを届けに。アルティナが亡くなる前に仕えていたっていう魔族が、アルティナから陛下に届けるようにたくされたって持ってきたんだ」
「アルティナが……」

 受け取ったそれは確かに見覚えのある物だった。かつて彼の妻だった愛しい人に、彼が贈った物。そして彼女が亡くなった後は二人の娘であるアルティナに――彼女がアルディモアへ移住する際に、形見として譲った物だった。

「……彼女の気配がする」

 シトロンはぎくりとした。王が言う彼女が娘であるアルティナではなくその母親のことだと気づいたからだ。「そうかな?」と彼はすっとぼけた。余計なことを言って勘づかれてはミモザにどう思われるかわからない。

「それから、妃選びのことなんだけど」

 シトロンは突っ込まれる前に話題を変えた。

「何だ?」
「俺も一人候補者を選んだんだ」
「何故?」

 王は意外そうにたずねた。

「宰相府でも軍部みたいにドゥーイを牽制する候補者を出せって声がうるさいんだよ」

 王は少し鼻を鳴らしただけで何の興味も示さなかった。

「……ベレナングレン様はいつ戻ってくるの?」
「さあな。連絡もない」
「どうしてドゥーイが妃選びなんかするのに許可を出したの?」
「好きにしろと言っただけだ」
「何か理由があるんじゃないの?」

 答えは何も返ってこなかった。肩を落としたシトロンが立ち去るまで、彼の視線は髪飾りに落とされていた。


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