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春Ⅸ:来客
しおりを挟む午後の日差しが降りそそぐ白銀宮の整えられた庭園は、季節の花が見ごろを迎えていた。春始の会の翌日、王都に滞在するの貴族たちは一日ゆっくりと休みを取る。そのさらに翌日からは議会などがはじまり、王宮で働く貴族たちがぞくぞくと出仕する姿が見られた。王宮に職を持たない貴族たちも、それぞれ交友を深めるために動いているのだろう。
庭園の木蓮の花が美しい一角に、レースの日よけと白いテーブルクロスの茶会の用意がされていた。テーブルには庭の花がより近くでも楽しめるように飾られている。お茶や茶菓子はすぐに給仕できるように、しかしその席や席から見える景観を損なわない位置に長机を用意し、女中たちがまるで風景の一部のようにこだわって並べていた。
準備をしてくれた使用人たちに「ありがとう」と礼を言い――何人かが一瞬目を丸くしていたので、いまだにフィアの悪評を信じている者もいるのだろう――フィアは白銀宮にはじめて個人的な客人を迎えた。
「お久しぶりです、フィア様」
「アルマ」
久しぶりに会う従姉の名前を呼ぶフィアの声にどこか安心したような響きがあったのに気づけたのはきっとこの場にいる自分だけだろうとアルマは思った。
フィアの家庭教師でもあったフランカ・グリンの娘であるアルマは、父親――フィアの父である辺境伯の弟――を亡くした後は辺境伯家で母親と共に暮らしていた。母がフィアの教育係を引き受けたのもあったからだ。フィアと違って本邸に部屋を持っていた彼女を辺境伯家の令嬢のように扱う使用人もいたが、彼女自身はそのことをよくも悪くも気にしていなかった。
いつも草原色の瞳に悪戯っぽい光を乗せたアルマは、豊かな明るい茶髪を流行の髪型にし、着ている衣装こそ高価ではなかったがそれを補うスタイルの良さ。ほんの少し目元がきつめではあったが同性の目から見ても美人だった。
ゼアマッセルにいた頃は、アルマは砕けた口調でフィアに接してくれていたが、ここではそうもいかない。フィアはそれをさみしく感じたが、アルマもそう思ったのかフィアに貴族令嬢らしくあいさつをした後、周囲にはわからない程度にちょっとだけ肩をすくめて見せた。
「今日は子爵夫人は?」
席について侍女たちが淡々と香りのいいハーブティーを用意してくれていく中で、フィアはたずねた。アルマから近いうちに会いたいという手紙を受け取り、それならお茶をしようと誘ったのが昨日のできごと。その時にアルマの母である子爵夫人も一緒にと書いておいたのだが、子爵夫人は予定があるらしく、今日は来られなかった。
「お母様はナインディアの大使館に行っていますわ。またぜひお誘いくださいと言っていました」
「そうなのですね」
「またすぐに会えます。きっと、大使館に行ったのも――大使夫人に会いに行ったのですけれど、フィア様のことで、ですもの」
「わたくしのことで?」
「ええ、一昨日の夜会でフィア様は成人として社交界デビューをして、これからは成人としてあちこちと交友を深めて行かなければいけませんから。普通、女親があちこちに娘を紹介して顔を広めるのですけれど」
「そうですね……子爵夫人が代わりに動いてくださっているのですね。一昨日はわたくしが早めに帰ったのに付いてきてくださったから、大使夫人が気を回してくださったのかも……」
それで、子爵夫人は大使館へと行ったのだろう。これからフィアが知り合っていく人たちについて夫人たちで話し合うために。
「それならわたくしも、同行した方がよかったのかしら……」
「そう気にすることではないですよ」
アルマは明るく言った。
「成人したばかりは親の力を借りるものです。学院に通っていたら多少は伝手もあるかもしれませんが……ほとんど知り合いなんていないんですもの。親の伝手を頼るくらいしかありませんわ」
「それより」とアルマは用意されたハーブティーの香りを楽しむようにひと口飲んだ。
「王宮での生活はいかがですか? ご実家より悪いということはないでしょうけれど」
あけすけな言い方に、控えていた女中たちがギョッとしたのが雰囲気でわかった。しかしアルマは大して気にしてもいないようだった。
「ゼアマッセルにいた頃より表情が穏やかになったように見えますわ」
「そうかしら……?」
まぶしそうに目を細める従姉の視線を受けながら、カップの水面に映る自分の顔を見てフィアは首を傾げた。「そうよ」とアルマがうれしそうに付け足す。自分ではよくわからない。ゼアマッセルにいた頃よりも身の回りのことを丁寧にしてもらえるようになった分、肌や髪はきれいになったと思うことはあるけれど、それで顔立ちが変わるわけではない。今こうして水面に映るフィアも、いつものように表情が乏しく、ただ不思議そうにこちらを見上げている。
「王太子殿下はどんな方ですか? 春の主家会議が終われば、正式な婚約者となるのでしょう?」
「殿下は責任感のある方で……でも、わたくしにも気を遣ってくださって、とても尊敬できる方です」
夜会の後にフィアを訪ねてくれたリラトゥアスの瑠璃色の瞳にあったやさしい光を思い出し、フィアは自然を頬を緩めていた。それは微かな変化だったが、正面に座っていたアルマは気がつき一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに満足そうに笑みを浮かべた。
「それならよかったです。この国の国民としてもデュアエルの民としても、未来の主君夫妻が仲睦まじいことはいいことですもの」
「そういえば」
フィアはふと、気になっていたことを口にした。
「アルマはどうして、春始の会であの方のエスコートを受けていたのですか?」
「あの方? ああ、アーシェア様のことですね」
「まさか、婚約を?」
この国で従兄妹同士の結婚は禁じられていないが、血が近すぎることを理由に基本的には避けられている。とはいえ、兄アーシェアもアルマも決まった相手がいないはずだし、そうなってもおかしくはなかった。
「まさか!」
しかし、アルマはフィアの問いかけをすぐさま否定した。
「アーシェア様にエスコートをさせて欲しいと言われたのです。伯父様――辺境伯閣下は春始の会で国王陛下にあいさつをしたらすぐに帰る予定だったらしくて、アーシェア様が一応名代としての参加のようでしたし……あの方、婚約者がいらっしゃいませんから」
アルマは茶菓子として目の前に置かれていたベリー系の果物が宝石のように輝くタルトにフォークを入れた。その味を楽しみながら浮かべた笑みには、どうしてか何かをバカにしたような雰囲気があった。
「アーシェア様の運命の相手はまだ見つかっていないようなので」
フィアは黙ってお茶をひと口飲んだ。
「母から聞いているかもしれませんが、わたしと母は今回は王都の宿に滞在しているのです。フィア様がゼアマッセルを離れて、母の家庭教師の役目もそろそろ終わりですもの。もちろん、このシーズンはまだデビューしたばかりのフィア様の付き添いもあるでしょうけれど、それ以降はもうわたしや母が辺境伯家で暮らす理由がありませんから」
「……でも辺境伯閣下たちは気にしないのでは?」
「そうかもしれませんが、ゼアマッセルではそれでよくてもわたしや母はそうは思いません。それに、ゼアマッセル以外も、きっと」
「それは……」
「わたしとフィア様が従姉妹同士であることに変わりはありませんよ」
冬に王都に来てからしばらくたった頃には、フィアは自身の血の繋がった家族がこの王都でどう思われているのかさすがに理解していた。ゼアマッセルにいた頃はそんなこと考えもしなかったが、離れて冷静に考えてみると色々と普通では考えられないような対応をゼアマッセルはしていたことがわかった。このアルマの発言を聞くに、きっとアルマや彼女の母である子爵夫人はもっと前からわかっていたのだろう。少なくとも子爵夫人はわかったからこそ、フィアの家庭教師になってくれたのだ。
「あまりずっと辺境伯家にいると、色々巻き込まれそうですもの」
少し声を落として、アルマはそうつづけた。
「巻き込まれる?」
「伯父様はどう考えてるかわからないけれど、アーシェア様はくだらないことを考えているようですし、わたしを春始の会に誘ったのもそのためですわ。わたしも最初は断ろうと思ったのですけれど、それもあってエスコートを受けることにしたのです」
フィアは困惑しながらアルマを見たが、アルマは声の調子を戻し、また話題を変えてしまった。
「辺境伯家を出る理由は他にもあります。実は、わたしの結婚が決まりそうなのです」
「まあ、おめでとう、アルマ」
「もちろん、婚約をしてから、ですが」
「お相手はどんな方?」
「アーケアの領境に近い小さな街で男爵位をいただいている方です。年上で、早くにご両親を亡くしているのでご家族は年の離れた妹さんがいらっしゃるだけなのですけれど、その妹さんの家庭教師として母も一緒に暮らしてはどうかと言ってくださっていて」
「そうなのですね」
アルマは母である子爵夫人に楽をさせてあげたいと思っていると常々話していたが、一方で子爵夫人はフィアの家庭教師を終えた後もどこかで働きたいと考えていたらしい。双方の希望が叶いそうな相手のようだし、相手との出会いを話すアルマの様子がとてもしあわせそうで、フィアは二人と離れて暮らすことになるさみしさを実感すると同時に、それ以上の温かさを胸に感じた。
「秋の豊穣祭は出席すると言っていましたし、その時にぜひ紹介させてください」
「もちろん。こちらからもお願いします。楽しみにしているわ」
「それから……このことはまだお母様にしか話していないのです。伯父様やアーシェア様は知りません。ですから、ここだけの話にしておいてください」
「それはかまわないけれど……」
どちらにしろ、フィアが父や兄と話すことはありえないし、強いて言えば他の誰かに話してそこから二人の耳に入らないよう気をつけるくらいだろうか?
「でも、黙って婚約や結婚をするのは難しいのでは?」
「母は主家の厚意もあって子爵夫人を名乗っていますがお父様が亡くなって随分たちますし、厳密にいえば母もわたしも母の実家の者ですから、どうにかなりますわ」
「……もし何か困ったことがあればいつでも言って。わたくしにできることがあるかは、わかりませんが……」
遠慮がちなフィアの言葉に、アルマはやさしくうなずいた。
「それはわたしもです、フィア様。わたしも母も、いつでもフィア様の力になりますわ」
フィアはハッとした。
「そういえば、舞台のことを聞きたかったのです」
「舞台?」
「ええ、ゼアマッセルで昔からやっている……」
「ああ、辺境伯夫妻をモデルにしたお話ですね」
「それが、このシーズンから王都でも上演されているようなのです。大衆劇場から広まったらしいのですが……どんな内容か気になって」
「大した内容ではありませんわ」
きっぱりとアルマは言った。
「伯父様たちの悲しい恋をいつまでも民の胸に残しておくためのお芝居ですもの。できる限り、ロマンティックにね」
日が西に傾くとまだ少し肌寒さを感じた。アルマが帰った後、フィアはそのままにしていた茶会の席に戻っていた。長机に用意されていた茶や茶菓子から必要な分だけをフィアがいるテーブルへと運び、それ以外は使用人たちが片づけている。
侍女や護衛たちがフィアに話しかけることはなく、フィアからも話しかけることはない。風が草木を揺らす音以外は静寂に包み込まれていたその場所にふと足音が響き、フィアは顔を上げた。
「フィア嬢、そのままで」
立ち上がろうとしたフィアを制してリラトゥアスが空いていたフィアの向かいの席に腰を下ろした。
「殿下、何かあったのですか?」
「いや、ただ顔を見に来ただけだ。昨日はゆっくり休めただろうか?」
「はい。お心遣い、ありがとうございます」
「今日は従姉殿が来ていたと聞いたが……」
「先ほど帰りました。夜会では話せなかったので、白銀宮でお茶会を開かせてくださって感謝しています」
「たしかに君はここにいる間は私の客人という扱いではあるが、あまり気にしなくていい。夜会で成人の貴族として認められ、これからは君自身が積極的に交流を広げていかなければならないのだからその場所がないのは困るだろう? もちろん一人で判断せず、子爵夫人やナインディアの大使館と相談して欲しいが」
「心得ています。アルマから聞いたのですが、子爵夫人が今日、大使夫人に会いに行かれたようなので……また色々と聞いておきます」
「そうか……君の従姉は夜会でアーシェアにエスコートされていたが、婚約の予定があるのか?」
「いいえ、アルマはあの方からエスコートを申し込まれたと言っていましたが、そういう話しは出ていません。彼女は他にお相手がいるようですし……ただ、あの方は何か考えていることがあるようだとも言っていました」
新しく用意したハーブティーに口を付け、リラトゥアスは少し考えるように視線を伏せた。
「その本は?」
その時視界に、フィアの手元に置かれた本が入ってきた。古い大判の本で、厚みがある。表紙には繊細な筆づかいでこの辺りでは見かけない樹木が美しく描かれていた。
「アルマが持ってきてくれたのです……」
フィアは大事そうにその表紙をそっと撫でた。
「わたくしが、ゼアマッセルに置いてきてしまった植物図鑑です。昔、子爵夫人にいただいたのです」
空色の瞳がやわらかく細められたのに、リラトゥアスは気がついた。フィアはきっと無意識にそうしたのだろう。本に触れるそのやさしい手もそうだった。西に傾いた太陽の光が、フィアのこげ茶色の髪に赤みを足していた。その温かな色合いを見ながら、リラトゥアスは小さく「よかったな」とささやいていた。
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