芽吹く時を待っている

通木遼平

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春Ⅷ:春始の会【後編】

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 読んでいた本からふと顔を上げて窓の外を見ると、空は白くなりはじめていた。ゆったりとした部屋着の上からガウンを羽織り、厚手の膝掛けが脚をすっぽりと覆っている。窓から視線を動かしてフィアが身を沈めている長椅子の斜向かいに置かれた肘掛け椅子を見ると、同じような格好をした子爵夫人がうつらうつらと船を漕いでいた。

 春始の会は明け方までつづく夜会だが、その日にはじめて社交界へと足を踏み入れた貴族の子どもたちは日付が変わる頃には場を辞して帰途につくのが暗黙のルールになっていた。フィアも例外ではなく、しかしそれよりも早く、顔色が悪いという理由で兄と顔を合わせてすぐにこうして白銀宮へと帰ってきたのだ。当然、付添人である子爵夫人もフィアに同行した。
 それ以外の貴族たちにももちろん帰る者はいるだろうし、国王夫妻などは途中で退席するのだろうが、残っている者たちは夜通し踊ったり休憩室で会話を楽しんだり思い思いに過ごすのだろう。

 白銀宮の部屋に戻ったフィアは着ていたドレスを脱ぎ、化粧と落として湯に入り、マッサージなどを受けた後今のようにくつろいだ姿でその日は白銀宮に泊まることになっていた子爵夫人と過ごしていた。仮眠をとることはあったがベッドに横になってはいない。
 これはデュアエル独自の風習で、かつてデュアエルが国だった頃、季節ごとに夜通しの狩りを行う文化があり、夫や恋人の帰りを女たちが寝ずに待っていたことからはじまったのだという。それがこうして春と秋の夜会の日に男たちよりもはやく帰宅した女たちが寝ずに待つという形だけ残ったのだ。

 手元の本は半分ほど読み終わっている。マリアローゼから借りた恋物語の古典で、舞台の演目としても人気が高かった。毎シーズンどこかしらの劇場が上演するらしく、観劇に行きましょうと誘われたので、観劇前に原作を読んでみたいと思い、個人的に持っていたマリアローゼから借りたのだった。

 春始の会はもう終わる頃だろうか? 背中に置かれたクッションに身を預け、フィアはまたぼんやりと窓の外を見た。こうして起きている必要があったわけではない。子爵夫人にもそう言われた。確かにデュアエルにはそういう風習があるし、フィアはその旗手の娘だ。しかし必ずしも守らなければならないものでもないし、守っている家も少ないだろうと。でもフィアは、なんとなく起きていたかった。

 フィアが黄金宮から白銀宮に戻る時のリラトゥアスの表情を思えば、なんとなく起きていたくなったのだ。

「もう明け方なのですね」

 かすれた声にフィアは振り向いた。まどろみから目覚めた子爵夫人が、眠気を振り払うように眉間をもんでいた。

「部屋で休んでもいいのですよ、子爵夫人」
「お嬢様がお休みになるのなら。起きていらっしゃるのに、部屋に一人お嬢様を置いていくわけにはまいりません」

 きっぱりとそう言われ、フィアは困ったように眉を下げた。

「夜会はもう、終わる頃でしょうか?」
「終わりの合図などがないのでその年によって違いますが、いつも日が昇る頃にはほとんどの者が帰ります」

 子爵夫人はそう言って先ほどまでフィアも見ていた窓の外へと視線を向けた。空は少しずつ明るくなっていた。

「寒くはありませんか?」
「大丈夫です」

 王宮の客室ともなれば、上等な魔道具が当たり前のように置いてあった。春になったとはいえこの時間帯はまだ冷え込むが、魔道具は部屋の中をひと晩じゅうほどよい温度に保ってくれている。

「アルマも最後まで残っているのかしら……? アルマには付いていなくても大丈夫だったのですか?」
「あの子も子どもではありませんから。それに、アーシェア様がエスコートなさっていましたから、あの方が責任をもってあの子を送り届けるでしょう」
「アルマは王都の屋敷に?」
「いいえ、宿を取っています。わたくしも王都に滞在している間はそこにおります。明日――いえ、もう今日ですね。また後で連絡先をお伝えしておきますね」

 フィアはうなずいた。

「……アルマはどうしてあの方のエスコートを受けていたのでしょう?」

 フィアが知る限り、兄のアーシェアには妻はもちろん婚約者も未だいない。恋人がいたという話も耳にしたことはなかった。とはいえ、フィアは離れからほとんど外に出ない生活を送っていたので、知らないところで恋人くらいはいたかもしれないが……一方でアルマは恋人がいることも多かったものの、兄とは従兄妹同士よりも近い距離間にはなっていなかったようだ。

「わたくしも夜会で驚きました」

 子爵夫人の言葉にはどこかあきれた響きがあった。

「おかしなことを考えていないといいのですが……」

 「大丈夫」だとフィアも言い切ることができなかった。



***



 奇妙な視線をフィアは感じていた。これまで感じたことのある、悪意とかあるいは無関心とかそういった類のものではない視線だ。さりげなく辺りを確認すると、それはフィアと年が近そうな若い貴族の令嬢たちから向けられているようだった。

 ゼアマッセルを旅立って以来、久しぶりに顔を合わせた兄はしかしその瞳にフィアの姿を映そうともしなかった。まるでそこに彼女がいないかのように振る舞っている。兄はいつもそうだった。フィアが何かしゃべったり行動をしたりしない限りはフィアなんていない者のように扱う。しかしフィアが少しでも何かすれば、その態度を急変させた。
 兄がリラトゥアスやエヴラールとあいさつをしているのを聞きながら、フィアはできるだけ息をひそめて視線を下げた。そうしなければ、どうなるかわからない。
 一方で、フィアは兄がエスコートする女性のことが気になった。どうして――兄の腕に手を添えて微笑む女性を、兄に気づかれないよう盗み見る。

「そちらの女性は?」

 リラトゥアスが兄にたずねるのが聞こえた。

「私の従妹、フィッツ゠グリン子爵令嬢です」
「アルマ・グリンと申します」

 よく通る明るい声はフィアも聞きなれたものだ。フィアの傍に控える子爵夫人のまとう空気がピリリとしたのを感じた。

「アルマとは実の兄妹のように育ってきました。殿下にも彼女のことを紹介したと常々思っていたのです。学生時代に叶えられればよかったのですが、彼女は王立学院には行かなかったので――」

 先ほど感じた奇妙な空気が一層深まった気がした。それが何かわからず、フィアはどうにも落ち着かない気分になった。周囲を確認したいが、兄と視線を合わせてしまうことになると思うと視線を上げることができない。誰かがこちらを見て、何かささやき合っている気がする。こちらを見ていた、同年代の令嬢たちだろうか?

「ゼアマッセルから王都は遠い。わざわざ学院に通う物好きもそう多くはないだろう」

 皮肉を隠そうとせず、ノルベルトが言うのが聞こえた。

「母君のフィッツ゠グリン子爵夫人は優秀だと私でも知っている。季節ごとに山を越えずとも、充分に学ぶ場はあったのでは?」
「ええ、母は素晴らしい教師でもありました」

 ノルベルトの言葉を受けてアルマが答えた。その声は、母である子爵夫人に対する尊敬のようなものが滲んでいた。アルマはよく母親を困らせているが、心の底から母を慕って尊敬しているのをフィアはちゃんと知っていた。

「フィア様の家庭教師を勤める傍ら、わたくしにもきちんと教育を施してくださいましたの」
「そうでしょうね」
「だが学院に通っていれば、ゼアマッセルにいるだけは接点のない人たちと交流ができる」

 兄がそうつづけるのが聞こえた。その言葉は誰に向けられたものなのだろう?

「交流を持つなら別に学院でなくてもいいのでは? それこそこの春始の会だけでも大勢の貴族がいるのだから」



***



 あの時の会話はほとんど兄アーシェアと、アーケア公爵家のノルベルトとの言い合いになっていた。リラトゥアスが二人を止めたが、何となくフィアにはその会話が引っかかっていた。あの時の周囲の雰囲気も。
 兄は始終フィアの存在をいないものとして扱っていたが、それは常にそうだったのでフィアにはもう気にならなかった。むしろ、いないものとして扱ってくれている間の方がまだいい。ほんの少しのことで兄の機嫌を損ねてしまう方がよほど恐ろしかったからだ。

「アルマとゆっくり話したいのですが……」
「アルマもそう言っていました。近いうちに時間が取れると思います。わたくしも王妃様に声をかけられていますし――」

 会話を遮るように部屋の扉を控えめに叩く音がした。フィアは子爵夫人と顔を見合わせると、小さくうなずいた。部屋の外に護衛はいるが、侍女や使用人たちは控えていない。子爵夫人が立ち上がって扉の方へ近づくのを見ながら羽織っていたガウンを着直した。
 こんな時間に誰だろう? 子爵夫人が扉の向こうの誰かといくつか言葉をやり取りし、やがてフィアの元へ戻ってきた。訪問者の名前を耳うちされて驚いて目を見張ると、すぐに通すように子爵夫人へと伝えた。

「こんな時間にすまない」

 少数の護衛とお付きと共に訪れたのはリラトゥアスだった。夜会のためにきっちりとセットしてあった髪は少しほつれ、顔には疲れが見える。フィアは彼を促して肘掛け椅子の一つに座ってもらうと、子爵夫人にお茶の用意をお願いする。壁際にある小さなテーブルには何種類かの茶葉とお茶を入れるためのお湯が置いてあった。

「春始の会は終わったのですか?」
「ああ。まだ少し残っている者もいるが、ひとまずは」

 読みかけの本にしおりを挟み膝の上に置きながら、フィアはたずねた。

「ずっと起きていたのか?」
「はい……少し仮眠はしましたが」
「はじめての夜会で疲れただろう? 古い風習を気にしたのか?」

 突き放すような言葉選びにも見えたが、労わるような響きをその音に感じ、フィアはリラトゥアスの瑠璃色の瞳を見上げた。

「古い風習のことは知っています。でも、わたくしがただ、起きていたかったのです」

 瑠璃色がフィアを静かに見つめている。そこにはこちらを気遣う色があった。

 夜会で兄、アーシェアがフィアと共にいたリラトゥアスやノルベルトと会話をする中で、フィアの顔色を理由に早めに帰ることを提案したのはエヴラールだった。



***



「やめないか、お前たち」

 ノルベルトとアーシェアがお互いにほとんど睨みあうようになった時点で、リラトゥアスがあきれたように口を開いた。

「申し訳ありません、エヴラール殿。この二人は昔からこうなのです」
「かまいませんよ。考え方が違う相手の意見を聞くのも時に必要なことだ」

 「それより」とエヴラールは立ち上がった。

「私のパートナーの顔色がよくないようだ。まだ早い時間ですが――」
「そうですね……早めに帰った方がいいかもしれない」
「馬車までは私が責任をもってエスコートしますよ、リラトゥアス殿。安心してください」

 リラトゥアスが控えていたローガンに視線を向けると、彼はうなずいてどこかへ向かって行った。大使夫妻に声をかけ、馬車の用意をしに行ったのだ。彼ならすぐに仕事を終わらせるだろう。
 立ち上がったエヴラールに促されて、不安げな色を表情に乗せたままフィアも立ち上がる。それだけでアーシェアの氷のような視線がフィアに突き刺さった。自然と強ばる体にふと影が下りて見上げれば、その視線を遮るようにリラトゥアスがフィアの目の前に立っていた。

 瑠璃色の瞳がフィアを見つめていた。理知的な雰囲気を醸し出す切れ長の瞳には確かに自分の姿が映っているのに、その瞳が向ける感情が何なのかフィアにはわからなかった。今までほとんど向けられたことがない感情だ。
 ただ、まだ少しの間こうして彼の瞳を見ていたいような気持ちがじんわりと胸の奥から湧き出ていた。

「気をつけて」

 ほんの少し考えるような素振りをした後、リラトゥアスはひと言だけそう告げた。その時はじめて、フィアは彼が自分に向ける感情が何かに気がついた。



***



 夜会で見た時と同じ視線を、リラトゥアスはフィアに向けてくれている。白銀宮に戻ってきてから、フィアは本で学んだデュアエルの古い風習のことを思い出した。そしてあの瞳を、あの瞳にある感情を思い出し、フィアはリラトゥアスが夜会を終えてから自分を訪ねてくれるのではないかと――そうだったらどんなにいいだろうと――そう思ったのだ。

「殿下が、来てくださるような気がして……」

 ほとんど消えるような声でフィアは言った。「そうか」とリラトゥアスが答えた。瑠璃色の瞳には先ほどまでの気遣いとは違う、やさしい光が湛えられていて、フィアは自身の頬がほんのりと熱くなるのを感じたのだった。


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