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春Ⅱ:彼女の好きなもの
しおりを挟む「フィア嬢……?」
不意に名前を呼ばれ、フィアは振り返った。訝しげにこちらを見る瑠璃色の瞳とフィアの空色の瞳がぶつかり、自分が今何をしていたか思い出した彼女は慌ててぴったりと寄り添っていた木の幹から離れた。
「殿下……ご、ごきげんよう」
「何をしているんだ……?」
回廊を歩いている時、庭師たちの会話が耳に入った。その会話の中で出てきたいくつかの植物の名が、幼い頃によく見ていた図鑑にあった植物を思い出させ、その流れで目に留まった一本の木が図鑑の美しい挿絵そのままでそこにあり、フィアはふと触ってみたくなったのだ。
リラトゥアスはもちろん、彼のとなりに立つ男性も二人の背後に控える従者や護衛もみんな困惑したような視線をフィアに向けていた。たしかにおかしな行動をとってしまっていた。こんな風に木の幹にぴったりとくっついている人なんて――今までフィアが見たことのある世界は離れの窓からの狭いものだったが――見たことがない。この王宮の庭師だって、愛情をこめて植物に接してはいるけれどこんな風に触れ合ってはいない。
変に思われただろうか――フィアは頬が熱くなるのを感じた。どうしてか落ち着かず、時間を巻き戻って何もかもやり直したい気持ちだった。
「その……どんな感触なのか、気になってしまって……」
それでもリラトゥアスの問いに答えなければと発した声は信じられないくらい弱々しく、フィアはますますどうしたらいいかわからないような気分に陥ってしまった。たずねたリラトゥアスもどう反応したらいいのか困ったように「そうか」と短く返しただけだった。
リラトゥアスのとなりにいる男も穏やかな表情を浮かべているものの、困惑が滲んでいるのは否めなかった。そんなフィアの視線に気づいたのか、それとも場の空気を変えるためか、男は「あいさつが遅れて申し訳ありません」と表情と同じ穏やかな声で彼女に軽く礼を取った。
「トゥーランのトマスといいます」
「ゼアマッセル辺境伯家のフィア・グリンと申します」
「フィア嬢とお呼びしても?」
「ええ――ぜひ」
トマスの穏やかさの中にある種の油断ならない雰囲気を感じ取り、フィアはうなずいた。
「トマスはトゥーランの嫡男で、今は宰相の補佐官をしている。私も昔から頼りにしている男だ」
「そうなのですね」
「ただ殿下より年長というだけですよ」
トゥーランは侯爵家、主家の一つだ。そう考えるとその嫡男と王家であるデュアエルの跡継ぎであるリラトゥアスはほとんど同等の立場と言ってもいいだろう。もっとも、主家の嫡男同士というよりも気安い雰囲気が二人の間にはたしかにあった。
「ところで――フィア嬢はお一人ですか?」
「ええ」
「護衛たちはどうした?」
フィアは眉を下げた。
「マリローゼ殿下のところから回廊の入口まで送っていただきました。わたくしがその後、白銀宮まで真っ直ぐ帰らなかったので――」
「君が寄り道したことは護衛たちがいないことの理由にはならない」
リラトゥアスの厳しい声がつづけた。
「ここがどこであれ、私たちのような身分の者がたった独りで出歩くものではない。護衛なら我々を守ることが、侍従や侍女なら我々が不自由なく過ごせるように手伝うことが仕事だ。その仕事を放棄していることになるし、周囲は護衛たちから軽く見られていると判断するだろう。それをいさめられない無能だと――結果として周囲から侮られるようになっていくことになる」
「はい……申し訳ありません……」
「い、いや……一番悪いのは護衛たちだが、君もきちんと注意するべきだ」
リラトゥアスの言うとおりだ。しかし、それはとても難しいことのように思えた。フィアは身分としては辺境伯家の令嬢だが、決して人に命令できる立場ではなかったからだ。頼みごとも、意見を言ったこともない。それなのに注意なんて、どうやったらできるのだろうか?
顔色を悪くしたフィアに気づき、リラトゥアスは表情こそ変えなかったが内心焦っていた。言葉がきつい自覚はあるが、言いすぎてしまっただろうか? 幼い頃からの癖でトマスについ視線を向けると、それに気づいたトマスはちょっと片眉を上げた。子どもの頃、リラトゥアスは答えがわからない問題に直面するとこうして視線で助けを求めてくることがあったのだ。もちろん、それをするのはトマスに対してだけだったけれど。
「もしご自身で注意しづらいようでしたら、殿下にご相談されては?」
「……そうだな。いずれは君自身がそういうこともできるようになって欲しいが、私の婚約者と言ってもまだ社交界に顔を出す前のゼアマッセルの令嬢だ。この王宮に勤める者を直接注意するのに気が引けるようなら、私に言ってくれればいい」
「はい、殿下」
「ひとまず今は、殿下がフィア嬢を送ってさし上げては? 私は後ほど殿下のお部屋にうかがいます」
仕事の話は終わったと思ったが、そう言ってくるということはこのことで何か話したいことがあるのだろう。「わかった」とリラトゥアスはうなずいた。
トマスは後ろの控えていた護衛たちの内、四人と目配せをし、フィアに改めてあいさつをしてその場を後にした。あの四人が彼の侍従や護衛なのだろうとフィアは思った。主家の嫡男である彼も一人で出歩くなんてしない。やはり自分が悪かったのだと思うと、ますますうつむいてしまいそうになる。
「フィア嬢」
リラトゥアスが差し出した腕にフィアはそっと自分の手を添えた。
ゆっくりと歩く回廊から見える景色は先ほどまでいた庭園とどこか違って見えた。背中に護衛や侍従の気配を感じながら、フィアはとなりを歩くリラトゥアスの横顔さえ見ることができずにただ黙々と足を進めていた。
「そんなに気にすることじゃない」
ふとリラトゥアスがそう言った時、フィアはやっと彼の横顔を見た。
「さっきも言ったがいずれ自分でできるようになれば――今は少しずつでいい。私に報告してくれるだけでもだいぶ違う」
「ですが……ご迷惑になりませんか?」
それに、告げ口のようにならないだろうか?
「君や君の周りのことは私に一任されている。つまり私の仕事でもある。迷惑ということはない。それに君を軽く見て仕事をしない使用人がいることは、他の真面目に働いている使用人たちにとってもよくない。品のない言い方だが――もらっている給金が同じなんだから」
たしかにその通りだと、フィアはうなずいた。
「ローガンか、彼がいない時は他の侍従を一日一回は君のところに行かせよう。何かあったら彼らに言ってくれ。もちろん、私と会った時は直接私に言ってくれればいい」
「はい、殿下」
「この婚約の意味を忘れるな」
はっきりとした声だった。
フィアがこの王宮内で少しでもないがしろにされていることがナインディアに知られれば、あちらはいい感情は抱かないだろう。リラトゥアスたちがそのつもりはなくても、あの使用人や護衛の態度をフィアが見逃すことで同じようになるかもしれない。そこまでの考えにいたらず、フィアは真面目に反省した。
気づけば白銀宮にたどり着いていた。リラトゥアスは部屋まで送ってくれるようで、エスコートの手が離れることはない。穏やかな風が回廊を横切り、フィアはその風につられるようにリラトゥアス越しに庭園へと視線を向けた。
庭師たちは道具を置いて休憩に行くところのようだった。フィアが触れたあの木と同じ木が若い葉を風に揺らしていた。はじめて触れた木の幹は硬く、ざらついていて、何となく落ち着く気分にさせてくれた。
「植物が好きなのか?」
「えっ?」
そうたずねられて、フィアは困惑した。好きか、と聞かれるとよくわからない――好きとは、どういうことなのだろう?
「好き……? いえ、ただ、興味があって――図鑑で見るばかりだったので、触れたことがなかったのです」
「木の幹に?」
「外に出ることがなかったので……花でさえあまり近くで見たことがありません」
フィアが育った離れに花が飾られることはほとんどなかった。時折、子爵夫人や従姉が持ってきてくれることはあったが、それでもごくまれだ。
「植物図鑑を持っていて、この国の植物が季節ごとに説明されているのです。絵がとても緻密で……花の名前などは、それで覚えました」
そう話すフィアの表情は、いつもよりやわらいで見えた。リラトゥアスは「そうか」と短く答えただけで、それ以上は口を開かなかった。ただ、そのやわらいだフィアの表情からいつまでも目を離すことができずにいた。
「彼女に妃は難しいかもしれないね」
王族が暮らす瑠璃宮のリラトゥアスの部屋は、木目の美しい家具たちも含め落ち着いた色合いで統一されており、ガラス張りの飾り棚以外には装飾らしい装飾もないシンプルな内装をしていた。入ってすぐの居間には飾り棚の他、中央には座り心地のいいソファとローテーブル、書き物用の机、いくつかの本棚、左手には小さな書斎につながる扉、奥の壁には寝室につながる扉がある。寝室には大きな窓と隣接した衣装部屋やバスルームにつながる扉、そしていつか使うことになる夫婦の寝室へつながる扉があった。
フィアを白銀宮の部屋に送り届けて私室へと戻るとそれほど間を置かず、トマスが彼をたずねて来た。護衛は外に控え、部屋にはリラトゥアスとトマス、それから二人の侍従が一人ずついるだけだった。
リラトゥアスの侍従であるローガンが用意したお茶に口を付けると、トマスはおもむろにそう言った。そう彼が考えるのも仕方のないことだと思った。育ってきた環境を思えば彼女が他人に注意をしたり命令したりするのは難しそうではある。
「だが教養の面では問題がない。できないことはこれから改善していけばいい。それに――今更ナインディアから新しく婚約者を見つけるのか?」
「本当なら、同盟の内容を見直せばいいんだけどね」
「それは――」
トマスの含みのあるもの言いに、リラトゥアスは口をつぐんだ。それを考えなかったわけではない。国王である父からもそう言われたことがある。
「こちらだけでどうにかできるわけではないからな……こちらだけでどうにかできるところを改善していくしかない」
「まず彼女に付ける使用人や護衛を変えた方がいい」
「もう何度か変えているんだが……」
あきれたようにリラトゥアスはため息をついた。
「どうしてそんな軽く見られているんだい?」
「“お花畑”の娘だという見方が浸透してしまっているんだ」
「ああ……」
今度はトマスがあきれる番だった。
「わからなくもないが……主家もゼアマッセルにいい印象は抱いていないから」
ゼアマッセル辺境伯夫妻の結婚が許されてしまったことは、当時の主家から批判を受けた。しかしどうしても結ばれたかった二人が肉体関係を持ってしまったことで王家としては認めざるえなかった背景がある。主家にもその理由で納得してもらったものの、未だに厳しい目で見る者もあった。
「私個人としても、君はきちんと旗の持ち手を選ぶべきだと思っているし――もちろん、君が王位にふさわしいと思っているからこそだ」
「そのことも含めて、この婚約のことを父上は私に一任して下さっている」
「そうか――まあ、何か力になれることがあればいつでも相談してくれ」
その言葉にリラトゥアスは一瞬何かを思い出したようにハッとして、それから目を泳がせた。
「それなら――女性に花を贈るならどんなものがいいと思うか教えて欲しい」
飲みかけたお茶を危うくむせそうになりながら、あまり見ない表情を浮かべたリラトゥアスをトマスはマジマジと見つめてしまった。
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