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冬Ⅰ:出立
しおりを挟むはじめて目と目があった時、胸の奥にしびれるような、しかしどこか甘やかな痛みが走ったのを二人は感じていた。男の草原色の瞳は、女のうるんだ空色の瞳を捕らえて離さない。この瞬間、世界は二人だけのものになり、周囲の人間のことなんてもはやどうでもいいことだった。
女は男の国の王子の元へ嫁ぐはずだった帝国の皇女で、男は辺境伯の跡取りだった。
「わたくしたちは、真実の愛を見つけたのです」
お互いの手と手をしっかりと握りしめ、二人は二人が結ばれることに反対する周囲に立ち向かっていった。その美しい二人の姿は、やがて周囲の心を動かし、愛しあう二人は結ばれた。
国中に祝福されて結ばれた二人は、子どもにも恵まれ、そのしあわせな時が永遠につづくとさえ思っていた。しかしある時、女は悪魔に取り憑かれてしまう――日に日に弱っていく愛する妻を救うべく男は手を尽くすが、そんな男をあざ笑うかのように悪魔は女の命を奪い、二人の真実の愛は悲劇へと変わってしまうのだった……。
***
飛び跳ねるように馬車が揺れる衝撃でガクンと体を揺らし、フィア・グリンはじわじわと窒息していくようなまどろみからハッと目を覚ました。
どの季節でも冬のように冷たい夢を見ていた。それが実際に冬であるのならなおさらだ。
うとうとと眠りにつく前は、馬が乾いた地面を蹴る音や弾かれた小石が車体に当たる音の他には特別気にかけるようなものはなかったはずなのに、どうしてか馬車は止まり、馬のいななきと、誰かが言い争うような声が聞こえていた。
足元には暖を取るための小さな魔道具があるが、それでも馬車の中は冷える。腕をすりながら魔道具に魔力をこめ直せば、その寒さがほんの少しマシになったような気がした。
言い争いの声はまだ聞こえる。フィアはごわごわとした分厚い布のカーテンを少しだけ持ち上げ、そっと外の様子をうかがった。この馬車の旅の同行者は、今フィアの目の前で小さないびきをかきながら眠っている中年の女性――この旅でフィアの身の回りの世話をするためにつけられた侍女代わりだ――と、御者と、馬に乗った護衛が一人。しかし今、外には御者と護衛の二人以外に、立派な身なりの者が三人と、十数名の騎士がいた。言い争いの相手は彼ららしい。
今はどの辺りにいるのだろうか? フィアは頭の中に地図を思い浮かべながら考えた。
近隣国からは“八王の国”とも呼ばれるこのフォルトマジア王国の辺境、ゼアマッセルから王都のメルヘアまで、随分と長いこと旅をしていた。山越えは季節的にもできるだけ避けたとはいえ、決して楽な旅ではなかった。馬車の質がよくないのもあるかもしれない。
旅立ってから半月はたつ。日数を考えるとそろそろ王都に近いはずだ。いびきが突然止み、フィアは慌ててカーテンを閉めた。大きなあくびをしながら侍女代わりが目を覚ましたところだった。「うるさいわねぇ」と侍女代わりがイライラとした声を漏らすと同時に、馬車の扉がノックする音が響いた。先ほど、言い争っていた相手だろうか? 侍女代わりはフィアをギロリと睨んだだけで何もしなかったので――彼女はこの旅の間ずっとそうだったのだが――フィアは仕方なく自ら「どうぞ」と控えめに声をかけた。
予想通り、馬車の扉を開けたのは言い争いの相手だった。その背後で御者と護衛が顔色を悪くして立っている。「何です? あなたたちは?」とフィアよりも奥に座っていた侍女代わりが身を乗り出しながら扉を開けた相手に不躾に声をかけた。
「ナインディア大使館の者です」
侍女代わりに凍てつくような視線を向けた後、そう名乗った男はフィアへと視線を向けた。
「ゼアマッセル辺境伯家のフィア・グリン嬢でお間違いないでしょうか?」
その視線にこめられた感情はよくわからない――が、この厄介な状況がますます困ったことになるのではないかという不安を覚えずにはいられなかった。
フィアは生まれてすぐにフォルトマジア王国の王太子の婚約者となった。
二十年ほど前――フォルトマジア王国と隣国のナインディア帝国は、それぞれ周辺国の動きに懸念を抱いていた。そして元々結んでいた二国間の同盟をより強固にする運びとなった。
同盟の内容が見直され、その中で王家と皇家で婚姻を結ぶ話が出たのだが当時はそれが叶わず、次の世代――つまりフィアたちの世代で必ず婚姻を結ぶ取り決めだけがなされたのだった。
そして現在、フィアを生んで亡くなった彼女の母がナインディアの皇女だったこと、同盟の見直しがされた当時のやり取りの記録などから紆余曲折あって、フォルトマジアの辺境伯家の令嬢ではあるがナインディア皇帝の姪でもあるフィアが、成人後、フォルトマジア王家に嫁ぐことになったのである。
今はそのために王都へ移動している最中だったのだが、とてもそうは見えないことをフィアはきちんとわかっていた。馬車はごくありふれたもので当然辺境伯家の紋章などない。荷物は鞄二つ分。付き添いは御者と護衛とフィアの身の回りの世話をするために付けられた侍女代わりの三人だけ。しかも侍女代わりはこの半月ほどの旅の中でその役目を少しも果たしていなかった。
その上――開け放たれた馬車の扉から、冷たい冬の空気が馬車に流れ込んでくる。その寒さにいら立ったのか、侍女代わりが声を荒げてナインディア大使館の使者に噛みついているのをぼんやりと聞きながら、フィアはゼアマッセルでのことを思い出していた。
***
年が明けてすぐの、とても寒い日の午前のことだった。
フォルトマジア王国の西の辺境、ゼアマッセルで最も栄えるグラフィッツの街に、現在ゼアマッセル辺境伯を務めるグリン家の屋敷がある。乳白色の石造りの本邸は、柱や窓や扉などに隣国であるナインディアの伝統的な意匠を用いた金細工の装飾が施されていた。これは辺境伯が隣国から嫁いできた愛する妻のために付けられたものだが、夫人が亡くなってからはこの地の人々に在りし日の辺境伯夫人の姿を思い出させるものとなっていた。
その邸内もまた、外観を裏切らないものとなっている。その磨かれた廊下を、寒さで赤くなった指先を隠しながらフィアは静かに歩いていた。
「誰かしら? 見かけない人ね……」
「ほら、あれよ……離れの……」
「ああ、あの“悪魔の子”……」
たまたま廊下ですれ違った使用人がフィアを見かけてヒソヒソと話をしていた。“悪魔の子”――フィアが本邸をこうして歩くことは全くと言っていいほどないが、ごくまれに訪れる機会には必ず耳にする言葉だ。この地で長い間上演されている舞台に関連している言葉だった。
真っ直ぐ廊下を進み、たどり着いた先は辺境伯である父の執務室だった。一人でここまで来たので自分でノックをすると、若い男の声が入室を促した。どうやら、兄もいるようだった。
扉を開けると奥の書斎机に向かって険しい顔をした父、ゼアマッセル辺境伯バーシアが座っている。その傍らには同じように眉間にしわを寄せた兄、アーシェアがいた。
「三日後、王都に向けて出立しろ」
「お呼びでしょうか」とフィアが口を開く前に父が告げた。思わず「えっ?」と口から飛び出そうになった声をぐっと飲み込んだ。今までそんな風に声を上げたことはなかったが、それがまずいことだというのはすぐにわかった。しかしかと言って、黙ってうなずくことはできない。
「……出立は、春のはずでは――」
「勝手に口を開くな」
兄、アーシェアの冷たい声がフィアの口を閉ざした。父以上に険しく、嫌悪感がにじみ出た視線をこちらに向けている。父に似た整った容姿がかえってその視線をより冷たく見せていた。
「お前はもう成人した。いつまでもこの家に置いておく義理はない。三日後に馬車を用意してやる。それで王都に行く気がないのなら春になるまでこの家を出て独りで暮らしていくことだ――それができればの話だがな」
淡々と言葉をつづける父はフィアに対して本当なら口を開きたくないようだった。この部屋に入ってから、視線すら合っていない。全身でフィアを拒絶しているのがすぐにわかる。
たしかにフィアはひと月ほど前にこの国の成人年齢である十六歳になった。この国では春と秋に王都で議会や社交シーズンがあり、成人を迎えた貴族の令息令嬢は大人になったことを示すために二回のシーズンの内どちらか一度は必ず王都を訪れ、各家でお披露目を兼ねた社交の場を開いたり、王宮で開かれる夜会で王族にあいさつをしたりする慣習があった。フィアもまた、春になったら王都へ向かい成人としてはじめて社交界に参加をしつつそのまま王太子の婚約者として王宮に滞在し結婚の準備をする予定となっていた。
しかし――フィアは父の背後にある窓の外を見た。冬の太陽が暖かくこの部屋に降りそそいでいるが、それでも窓から見える景色はいかにも寒そうだ。
「用件は以上だ。出て行け」
これ以上ここにいることは許さないとばかりに父は言い、兄の鋭い視線が飛んだ。フィアは「わかりました」とうなずいて、部屋を後にすることしかできなかった。
しかし、いくらフィアでも父の発言が問題なのはわかっていた。春に王都に行くことは正式に決まっていたことで、当然、王家もそれに合わせて準備をしているはずだ。このことを王家は知っているのだろうか? 確かめた方がいいのはわかっているが、その術がない。
どうしたらいいだろう――しかし、荷物をまとめるしかないこともわかっていた。父も兄も、三日後には必ずフィアを追い出すだろう。父のあの言葉から考えるに、まさかフィアが独りで暮らしていけるとは考えていないだろうし、それは事実だ。兄はどう思っているかわからないが……少なくとも父は、王都行きの馬車にフィアを押し込むつもりなのだろう。
「フィアお嬢様?」
ぐるぐると考えながら本邸の入口を出ようとしたところで、知っている声がフィアを呼び止めた。振り返ると、栗色の髪をきっちりと一つにまとめ、背筋をまっすぐに伸ばした女性が立っていた。
「……ごきげんよう、子爵夫人」
フランカ・グリンは辺境伯の弟――子爵位を与えられていた――の妻で、フィアにとっては叔母にあたる。父や兄がフィアを家族として受け入れていないことと、彼女がフィアの乳母兼教育係を務めてくれていたこともあり、他人行儀ではあるが基本的には彼女のことを子爵夫人と呼んでいた。
もっとも、騎士をしていたフランカの夫である子爵は十年ほど前、任務の際に兄である辺境伯とその時客人として辺境に滞在していた王家の縁戚の者を庇って亡くなっていて、現在の彼女は厳密には子爵夫人ではないし、彼女自身がそう名乗っているわけではない。
夫であった子爵が亡くなった経緯や彼女自身の真面目な人柄から周囲が自然と彼女をそう呼んでいて、辺境伯もまたそれを許しているのだった。
フランカと彼女の娘のアルマは子爵が亡くなった後、フランカがフィアの乳母兼教育係を務めることになったのもあって辺境伯邸で暮らしている。住んでいるのはフィアが暮らす離れではなく本邸ではあったが、この家でフィアがきちんと関わり持っている数少ない人間ではあった。
「ごきげんよう。どうして本邸に?」
「閣下に呼び出されたのです……」
「閣下に?」
「ええ、それで――」
眉をひそめるフランカの後ろを数人の使用人が通り過ぎていくのを見て、フィアは口を閉じた。こんなところで立ち話をするような内容でもない。視線でうながせばフランカも黙ってついてきてくれる。よく晴れた日でも冬の庭は寒く、本邸から出てフィアが暮らす離れに向けて歩く道はその太陽の光も木々が遮っていっそう寒さが強まったような気がした。
「実は閣下から三日後に王都へ出立するように言われたのです」
「三日後に? それは……」
「王家やナインディアとやり取りがあったのかはわかりません。ただ、わたしはもう成人したのだからということは言われました。王都に出立しなくてもここから出て行くようにと……」
フランカは何も言わなかったが、辺境伯が本気でそう言っているのはわかっているようだった。少し考えるように口元に指をあて、緑色の瞳がちらりと本邸を見上げた。
「王家とナインディアにはわたくしから手紙を送っておきましょう。出立が三日後なら、今日早馬を出せば――何もしないよりいいでしょうから。もちろん、閣下がきちんと各方面に連絡を取っていれば一番いいのですが……」
***
「何事も無くてよかったですわ」
ほっと胸をなでおろしたのはナインディア大使館から遣わされた侍女だった。胸元にナインディアの国章があしらわれたブローチが付けられている。ふっくらとした頬を緩めた侍女は初対面だったが、心底フィアを案じていたようだった。
「子爵夫人から連絡をいただいた時、大使館はそれはもう大騒ぎでしたのよ」
「父から連絡はなかったのですか……?」
「ええ、ですから予定通り春に向けて準備をしていたのです。それがこんなことに……しかもお付きがあんな人たちだけだなんて! 辺境伯閣下は何を考えていらっしゃるのでしょう!!」
ゼアマッセルから付いて来た三人はナインディアの者たちに追い払われ、フィアはあの乗り心地のあまりよくない馬車からナインディア大使館のしっかりとした作りの乗り心地のいい馬車に乗り換えていた。護衛の人数もきちんとそろっていて、ゼアマッセルからここまでの旅とは比べものにならない。
あの三人は元々勤務態度に問題がある者たちで、いつも厳しくあまり表情を変えないフランカが出立の時に青ざめていたほどだった。ナインディアの侍女の言うとおり、無事にここまで来られたのは奇跡的なことだろう。
「荷物もあんなに少なくて――大使館に着いたら、大使夫人が色々と用意してくださっていますわ。少なくともお召し物くらいは整えなくては、とても王宮に上がれませんもの」
「王宮への連絡はどうなっているのでしょう?」
フィアはたずねた。
「子爵夫人は王宮へも早馬を出していました」
「大使館にもそのように伝わっています。こちらからも連絡をという話が出たところまでは把握していますが、わたくしはお嬢様をお迎えする準備に追われていましてその後どうなったかまでは……」
「そう」
父は王宮へも連絡をしていないのだろう。王家によくない印象を与えてしまう……頭が痛くなり、フィアはそっと背もたれに身を預けた。
「本日中に到着しますが、少しお休みになってはいかがですか?」
やさしく侍女が言った。フィアは小さくうなずき、ゆっくりと瞳を閉じた。さっき見た、夢のつづきをまた見るのだろうか? 侍女がやわらかなブランケットをフィアにかけてくれるのを感じながら、そうならなければいいと願っていた。
***
「おそとに行かないの?」
昨晩降った雪が、庭園を真っ白に染め上げていた。この季節は葉をすっかり落としきり裸になっている木々もまた、今日は白い衣装をまとっている。冬の澄んだ光を放つ太陽が、その美しい白たちをキラキラと輝かせていた。
声をかけられた少女が額をぴったりとつけていた窓ガラスは冷たく、振り返った彼女の額は、傷薬を塗った湿布が小さく貼られている場所を除いてほんのりと赤く染まっていた。声をかけた少女はその様にくすりと笑みをこぼしたが、相手はきょとんとするばかりでそれがまたかわいらしく思えた。
「ずっとおそとを見てるでしょう? あそびに行きたいんじゃないの?」
はきはきとしゃべる少女は、広々とした草原を思わせる瞳を輝かせていた。
「ひとりがこわいなら、わたしがいっしょにあそんであげる!」
パッと無遠慮に手を取られ、その草原に見惚れていた少女はハッとしてその手を逆にひっぱった。
「だめよ」
窓の外を見ていた少女が、ガラスの向こう側にある空に似た色の瞳をふせながらそっと言った。
「わたしはおそとに出てはだめなんだもの……おとうさまやおにいさまにおこられてしまうわ」
「そう?」
草原色の瞳の少女はぱちりと目を瞬かせた。
「ないしょで出たらわからないわ!」
「……だめよ」
額の湿布に何となく触れると、弱々しい声がこぼれた。内緒で外に出ようとしたことがないわけではない。ただ、この小さな離れの周りには見張りがいて、どんなに気をつけていても必ず見つかってしまう。脳裏を過った暗い記憶を呑み込み、少女は首を振った。
一緒に外に出たら、きっと彼女も怒られてしまう。あの綺麗な白銀の世界には心惹かれるけれど、それ以上にこの素敵な草原色の瞳を持つ彼女に辛い思いをして欲しくなかった。
草原色の瞳の少女が唇を尖らせながらあきらめたように身を引いたのを見て、少女はそっと息を吐いた。名残惜しそうに指先で触れた窓ガラスはしっかりと鍵がかかっている。その冷たさは、じわじわと少女の小さな心に浸みこんでいくようだった。
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