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第55話「少年は自覚しないうちに……」
しおりを挟む五月二十二日(日)十時十五分 真希老獪人間心理専門学校・一年教室
「次の授業は四十五分後からだから、それまで適当にダラついててねー。」
「休憩ながっ」
下田先生がゆるーい感じで教室を去っていくと、木梨さんが机に座ったまま振り返ってまりあさんに話しかけた。
「さっきの授業、香田っち向きの内容だったねー。」
「象くんが休みなの、ちょっと惜しかったね。」
コウダっち?
ゾウくん?
脳内に高らかに鳴き声を上げる象の姿が浮かぶ。
「なになに? 動物の話?」
「違う違うっ」
俺の問いに、木梨さんは椅子の背にもたれかかるようにして答える。
「香田 象っていう名前の、うちらと同じ一年生の話っ。今日は入院してて来てないけどねー。」
入院、ってことは……。
「もしかして、カンガルーにボコられたとかっていう……」
「そうそうっ、そいつ。ウケるよねー。」
「あははっ」と軽く笑ってみせる木梨さん。
……ウケるのか?
「象くんはね、探求心の強いとってもいい子なの。」
「あ…へ、へぇー。そうなんすね。」
対照的に、柔和な笑みを浮かべるまりあさん。
ああ……、あなたは太陽だ。
「なぁ、神室。」
不意に、後金が椅子を軋ませて立ち上がった。
「ちょっとトイレ行こうぜ。」
俺に振り向き、メガネの位置を直す。
「トイレ? 連れ精か?」
「連れ精ってなんだよ! 連れションだよ!」
勢いをつけてツッコむ後金。
メガネの位置がまたズレた。
「男の友情を深める儀式だろ? 行こうぜ。」
「だな。行くか。」
後金に言われて、俺もなんか催してきた。
意識するまで気付かない尿意ってあるよね。
教室の扉を開き、二人揃って廊下へ出る。
教室の中から響く木梨さんの笑い声を聞きつつ、俺と後金は反対方向へ体を向けた。
「おいおい、トイレはこっちだぜ?」
ほぼ同時にお互いへ振り向くと、後金は自身が向かおうとした先を指さす。
「いや、こっちのトイレの方が距離的に近い。」
俺も、同じように行き先を示す。
「あれ? そうなの?」
「ああ。」
校内のトイレの配置は早朝に調べ上げた。
全て把握済みだ。
「こっちのトイレの方が十センチほど近い。」
「細かっ!」
後金は踵を返して、俺と共にトイレへと向かう。
「お前、来たばっかだよな? もうトイレの位置とか把握してんのな。」
「男たる者、いついかなる状況においてもオナニーをすることだけは忘れてはならんのだよ。」
「なんだそりゃあ。」
格言に聞こえなくもなくもないような俺の言葉を、後金は笑い飛ばす。
少しだけくすんだ、白い廊下の角を右に曲がったところで、後金はメガネの位置を直した。
「オナニーと言やあよぉ。授業前の話じゃねぇけど、お前、心音で抜いたりとかしてんの?」
「な……」
突拍子もない話の切り替え(そうでもないか)に、少々虚を突かれてしまう。
「なんで俺がまりあさんでっ」
「抜いてねぇの?」
頭を下げ、覗き込むように向けてくる視線。
思わず、目を逸らしてしまう。
「あの時も言っただろ? 俺は、知ってる人だと抜く気になんねぇんだって。」
意に反して語感が強くなる。
「そんな思いっきり否定すんなよ。男同士でオカズの情報交換なんて普通だろ?」
後金は俺から顔を逸らす。
こいつ、急に雰囲気が変わった?
「お前の方こそ、急に駆け引きじみたことしてきやがって。どうしたんだよ、急に。」
「別に、そんなつもりはねぇよ。ただ、お前にとって心音は特別な存在だろうからさ。」
俺を見ないまま、後金はポケットに両手を突っ込む。
「特別? どういう意味だよ?」
「どういうって……そのまんまだよ。お前、心音のこと好きだろ?」
「は?」
「え?」
思いがけず足を止める。
やや遅れて後金も足を止めた。
そして、ゆっくりと俺に顔を向ける。
「お前、もしかして気付いてねぇのか?」
「いやいやいや。」
またもや後金の視線を避けてしまう。
「俺は別にまりあさんのこと好きになってねぇぞ。」
急に何を言い出すかと思えば、勘違いも甚だしいな。まったく。
「いやいやいや。お前、嘘だって。だって今、顔真っ赤だし。木梨と心音で態度全然違うし。」
後金が顔を指さしてくる。
「真っ赤になんてなってねぇよ。ちょっと顔が熱いだけだ。」
「なってんじゃねぇかよ!」
嘘?
今顔真っ赤なの?
両頬に手を当てていると、後金が溜息まじりにうなじを掻いた。
「自覚無しって……、お前は恋愛漫画のヒロインかよ。」
「自覚無しじゃねぇよ! お前が誤解してんだよ!」
「怒んなよ!」
「怒ってねぇよ!」
「怒ってる!」
「怒ってないもん!」
「可愛くねぇよ!」
ツッコミを入れた後、後金はまた溜息をついてメガネの位置を直した。
「……正直に答えてくれよ。お前、心音と話してる時、鼓動が速くなってんじゃねぇの?」
「……話してる時、というか、隣にいるだけで動悸が激しくなってくるんだ。病気かな? すっげぇ不安。」
「無垢な少年かよ。」
呆れたように片目を細める後金。
「お前、ちょっと心音のこと考えてみ?」
「え? 別にいいけど……」
後金に促されるまま、まりあさんのことを考える。
まりあさん。
授業を熱心に聞いている横顔は天使の如く。
包容力に満ち溢れた太陽の如き温かな優しさは、さながら過酷に苦しむ人類を救うべく舞い降りた慈愛の女神。
母なる存在。
……うっ。
「あぁ……また動悸が激しく……」
とっさにその場にへたり込んでしまう。
息切れもしてきたぞ。
やっぱり病気なんじゃ……。
「落ち着け、神室。」
後金は俺の両肩に手を置く。
「いいか、よく聞け。特定の異性のことを考えると、心臓が高鳴って息苦しくなり、顔が赤くなって発汗する。そういう状態を人は」
「もしかして更年期障害?」
「恋をしてんだよ! お前は! 心音に!」
「馬鹿! 声がでけぇ!」
叫ぶ後金の口を慌てて塞ぐ。
ん?
何慌ててんだ、俺?
「いや、いやいやいや、そんなはず……」
後金の口から手を離し、わずかに後ずさる。
だって、そんなはずねぇよ。
たかだか二時間にも満たない間しか会ってねぇんだぞ。
なのに好きになんてなるわけ……。
なるわけ……。
「………。」
あれ、気が付いたらまりあさんのことで頭がいっぱいだぞ。
だぞ、っていうか、ずっとそうだったじゃねぇか。
昨日からずっと。
……ん?
おやおや?
おかしいな、これ、完全にアレじゃねぇか。
どうしよう、もう完全に。
「あ……俺、まりあさんのこと好きだ。」
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