上 下
55 / 186

第55話「少年は自覚しないうちに……」

しおりを挟む

  五月二十二日(日)十時十五分 真希老獪人間心理専門学校・一年教室

「次の授業は四十五分後からだから、それまで適当にダラついててねー。」
「休憩ながっ」
 下田先生がゆるーい感じで教室を去っていくと、木梨さんが机に座ったまま振り返ってまりあさんに話しかけた。
「さっきの授業、香田こうだっち向きの内容だったねー。」
ぞうくんが休みなの、ちょっと惜しかったね。」
 コウダっち?
 ゾウくん?
 脳内に高らかに鳴き声を上げる象の姿が浮かぶ。
「なになに? 動物の話?」
「違う違うっ」
 俺の問いに、木梨さんは椅子の背にもたれかかるようにして答える。
「香田 象っていう名前の、うちらと同じ一年生の話っ。今日は入院してて来てないけどねー。」
 入院、ってことは……。
「もしかして、カンガルーにボコられたとかっていう……」
「そうそうっ、そいつ。ウケるよねー。」
 「あははっ」と軽く笑ってみせる木梨さん。
 ……ウケるのか?
「象くんはね、探求心の強いとってもいい子なの。」
「あ…へ、へぇー。そうなんすね。」
 対照的に、柔和な笑みを浮かべるまりあさん。
 ああ……、あなたは太陽だ。
「なぁ、神室。」
 不意に、後金が椅子を軋ませて立ち上がった。
「ちょっとトイレ行こうぜ。」
 俺に振り向き、メガネの位置を直す。
「トイレ? 連れ精か?」
「連れ精ってなんだよ! 連れションだよ!」
 勢いをつけてツッコむ後金。
 メガネの位置がまたズレた。
「男の友情を深める儀式だろ? 行こうぜ。」
「だな。行くか。」
 後金に言われて、俺もなんか催してきた。
 意識するまで気付かない尿意ってあるよね。
 教室の扉を開き、二人揃って廊下へ出る。
 教室の中から響く木梨さんの笑い声を聞きつつ、俺と後金は反対方向へ体を向けた。
「おいおい、トイレはこっちだぜ?」
 ほぼ同時にお互いへ振り向くと、後金は自身が向かおうとした先を指さす。
「いや、こっちのトイレの方が距離的に近い。」
 俺も、同じように行き先を示す。
「あれ? そうなの?」
「ああ。」
 校内のトイレの配置は早朝に調べ上げた。
 全て把握済みだ。
「こっちのトイレの方が十センチほど近い。」
「細かっ!」
 後金は踵を返して、俺と共にトイレへと向かう。
「お前、来たばっかだよな? もうトイレの位置とか把握してんのな。」
「男たる者、いついかなる状況においてもオナニーをすることだけは忘れてはならんのだよ。」
「なんだそりゃあ。」
 格言に聞こえなくもなくもないような俺の言葉を、後金は笑い飛ばす。
 少しだけくすんだ、白い廊下の角を右に曲がったところで、後金はメガネの位置を直した。
「オナニーと言やあよぉ。授業前の話じゃねぇけど、お前、心音で抜いたりとかしてんの?」
「な……」
 突拍子もない話の切り替え(そうでもないか)に、少々虚を突かれてしまう。
「なんで俺がまりあさんでっ」
「抜いてねぇの?」
 頭を下げ、覗き込むように向けてくる視線。
 思わず、目を逸らしてしまう。
「あの時も言っただろ? 俺は、知ってる人だと抜く気になんねぇんだって。」
 意に反して語感が強くなる。
「そんな思いっきり否定すんなよ。男同士でオカズの情報交換なんて普通だろ?」
 後金は俺から顔を逸らす。
 こいつ、急に雰囲気が変わった?
「お前の方こそ、急に駆け引きじみたことしてきやがって。どうしたんだよ、急に。」
「別に、そんなつもりはねぇよ。ただ、お前にとって心音は特別な存在だろうからさ。」
 俺を見ないまま、後金はポケットに両手を突っ込む。
「特別? どういう意味だよ?」
「どういうって……そのまんまだよ。お前、心音のこと好きだろ?」
「は?」
「え?」
 思いがけず足を止める。
 やや遅れて後金も足を止めた。
 そして、ゆっくりと俺に顔を向ける。
「お前、もしかして気付いてねぇのか?」
「いやいやいや。」
 またもや後金の視線を避けてしまう。
「俺は別にまりあさんのこと好きになってねぇぞ。」
 急に何を言い出すかと思えば、勘違いも甚だしいな。まったく。
「いやいやいや。お前、嘘だって。だって今、顔真っ赤だし。木梨と心音で態度全然違うし。」
 後金が顔を指さしてくる。
「真っ赤になんてなってねぇよ。ちょっと顔が熱いだけだ。」
「なってんじゃねぇかよ!」
 嘘?
 今顔真っ赤なの?
 両頬に手を当てていると、後金が溜息まじりにうなじを掻いた。
「自覚無しって……、お前は恋愛漫画のヒロインかよ。」
「自覚無しじゃねぇよ! お前が誤解してんだよ!」
「怒んなよ!」
「怒ってねぇよ!」
「怒ってる!」
「怒ってないもん!」
「可愛くねぇよ!」
 ツッコミを入れた後、後金はまた溜息をついてメガネの位置を直した。
「……正直に答えてくれよ。お前、心音と話してる時、鼓動が速くなってんじゃねぇの?」
「……話してる時、というか、隣にいるだけで動悸が激しくなってくるんだ。病気かな? すっげぇ不安。」
「無垢な少年かよ。」
 呆れたように片目を細める後金。
「お前、ちょっと心音のこと考えてみ?」
「え? 別にいいけど……」
 後金に促されるまま、まりあさんのことを考える。
 まりあさん。
 授業を熱心に聞いている横顔は天使の如く。
 包容力に満ち溢れた太陽の如き温かな優しさは、さながら過酷に苦しむ人類を救うべく舞い降りた慈愛の女神。
 母なる存在。
 ……うっ。
「あぁ……また動悸が激しく……」
 とっさにその場にへたり込んでしまう。
 息切れもしてきたぞ。
 やっぱり病気なんじゃ……。
「落ち着け、神室。」
 後金は俺の両肩に手を置く。
「いいか、よく聞け。特定の異性のことを考えると、心臓が高鳴って息苦しくなり、顔が赤くなって発汗する。そういう状態を人は」
「もしかして更年期障害?」
「恋をしてんだよ! お前は! 心音に!」
「馬鹿! 声がでけぇ!」
 叫ぶ後金の口を慌てて塞ぐ。
 ん?
 何慌ててんだ、俺?
「いや、いやいやいや、そんなはず……」
 後金の口から手を離し、わずかに後ずさる。
 だって、そんなはずねぇよ。
 たかだか二時間にも満たない間しか会ってねぇんだぞ。
 なのに好きになんてなるわけ……。
 なるわけ……。
「………。」
 あれ、気が付いたらまりあさんのことで頭がいっぱいだぞ。
 だぞ、っていうか、ずっとそうだったじゃねぇか。
 昨日からずっと。
 ……ん?
 おやおや?
 おかしいな、これ、完全にアレじゃねぇか。
 どうしよう、もう完全に。
「あ……俺、まりあさんのこと好きだ。」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

奇妙な日常

廣瀬純一
大衆娯楽
新婚夫婦の体が入れ替わる話

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

こども病院の日常

moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。 18歳以下の子供が通う病院、 診療科はたくさんあります。 内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc… ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。 恋愛要素などは一切ありません。 密着病院24時!的な感じです。 人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。 ※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。 歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。

由紀と真一

廣瀬純一
大衆娯楽
夫婦の体が入れ替わる話

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

処理中です...