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第49話「少年は聖母の如き女神な少女と邂逅する」
しおりを挟む五月二十一日(土)十五時二十分 真希老獪人間心理専門学校・保健室
おそらく耳の下あたりまでの長さであろう綺麗な黒髪を、後ろでくくったポニーテール。
白いTシャツの上に重ねている薄桃色のキャミソールワンピース。
全身から温かみのある雰囲気を放つ少女が、ゆっくりとベッドから降りた。
「………。」
少女が俺の上に。
少女が俺の上に。
少女が俺の上に。
脳内をひたすら同じ言葉が巡る。
なんだこれは。
どうなっているんだ?
「あの……」
すっかり思考停止し、アホ面を晒しているであろう俺に、少女が声をかけてくる。
「もしかして…嫌な気持ちにさせちゃった、かな?」
顔を伏せ、両手の指を合わせる少女。
「イヤ」?
「イヤ」ってなんだっけ?
「イヤ」。「イヤ」。「イヤ」。
ああ。
「イヤ」って「嫌」か。
嫌?
条件反射で体を起き上がらせる。
「い、いやいやいやいやいや! 嫌だなんて、ぜ、全然っす! 全然嫌じゃないですよいやだなぁ! なはは……」
慌てて否定しようと、早口で喋ってしまう。
いやって何回言うんだよ。
「ほんと? よかった。」
両手を合わせて顔を上げる少女。
その安堵の表情はあまりにも神秘的で、目に映った瞬間に、世界の時が止まった。
儚くも美しい笑顔。
その意味を理解するのに、無限に等しい処理時間が要される。
一秒が、いつまで経っても終わらない。完結しない。解決しない。
「体は、大丈夫?」
再び時を動かしたのは、少女の一声だった。
「外で倒れてたんだよ? とっても辛そうだった……」
倒れてた……。
少女の言葉に、全身の痛みに気付く。
気付いた途端に痛みが急速に強まって、あっという間に吐きそうなほどの激痛に強化された。
いてて……。
激痛と共に思い出す、二日間の出来事。
ほぼ休みなしの過酷な訓練。
その無理が今、跳ね返ってきたのか。
「どこか、痛いの?」
少女は、なぜか一番辛そうに眉を下げる。
こ、これは……。
「いえ、全然平気です。」
慌てて取り繕う笑顔。
「こんなの痛みの内に入らないというか、全然まったくこれっぽっちも痛くも痒くもないですよ。ははは……」
何故だか強がってしまう。
「………。」
明らかに乾いた笑いを発する俺に、少女は目を閉じて顔を寄せてきた。
か、顔が近い!
「あの……」
言いかけた俺の唇に、少女は無言のまま人差し指を当てた。
そして、ゆっくりと俺の頭に手を置く。
「ううん。本当は、全身が痛いんでしょう?」
そのまま、俺の頭を優しく撫でる。
「強がりは、男の子の証だよ? 凄いし、とてもかっこいいと思う。でもね、本当に辛い時や苦しい時は、人に甘えていいんだよ。」
少女は俺の頭から手を離すと、ゆるやかに俺の顔を抱きしめた。
「………っ!」
顔面を二つの柔らかな果実が包み込む。
でも、なんだろう。
安心する。
両肩の力が抜けきり、だらん、と手が布団の上に落ちる。
そのまましばしの沈黙が続く。
体感時間で百時間、実際には十秒ほど経ったであろう時、少女が囁くように口を開いた。
「……落ち着いた?」
「……はい。」
何も考えられず、返事だけする。
「体、痛いよね? 辛いよね?」
「……はい。」
顔に回された両手の力がさらに強くなる。
「体中痛いのに、よく我慢できたね。えらいね。強いね。…でもね。」
少女が、俺の背中を優しく叩いてくれる。
「今だけは、我慢しちゃ駄目だよ。自分の体なんだから、大切にしなくちゃ。わかった?」
「……はい。」
俺の答えを聞くと、少女はゆっくりと俺の頭から体を離し、俺の目を見た。
「うんっ。」
お日様のような慈悲深い笑顔。
全てを包み込むような、深い包容力をたたえた笑顔。
……女神だ。
その言葉が脳裏を過った瞬間、俺は三つのものが少女に奪われたと悟った。
まず少女の笑顔に目を奪われ、少女の声に言葉を奪われ、そして少女の慈悲に……。
「起きてるのも辛いでしょう? ほら、横になって。」
少女は俺の体をベッドに横たえると、掛け布団を被せてくれた。
そして、俺の胸を優しく叩いてくれる。
「私に心配をかけないように言ってくれたんだよね? でも、大丈夫。今はただ、楽にしてて。」
少女の声が脳髄に染み渡り、ゆっくりと、癒しの蕾を開花させていく。
頭と体がまるで別の生き物のように、ゆっくりと切り離されていく感覚。
心地いい。
再び意識が途切れかかってきて、それに気付いた時にはもう、抵抗の余地もないくらいに深い眠りについていた。
次に目が覚めた時には、日付が変わって日曜日になっていた。
体中に巣くっていた痛みは既に消え失せ、かわりに日中を寝過ごした時に似ただるさが残っていた。
そして同時に思い出す女神のような少女。
あの出来事は夢だったのだろうか?
もしそうだとしたら、今もなお右手に残るこの温もりは一体なんなのだろう。
まじまじと右手を見つめていると、そういえばオナニーをしていないことも思い出す。
丸二日はしてないよな……。
人生が勿体無い。
すぐに準備に取り掛かろうと下半身を包む布を全て脱ぎ去る。
そこで、ふと、動きが止まる。
「………なんでだろう。」
この右手、あんまり使いたくないな。
五月二十二日(日)八時三十七分 真希老獪人間心理専門学校・一年教室
「ねぇねえ聞いた? 噂の新人君、今日から登校するんだって!」
白いアンクレットソックスに白いスニーカーを履いた少女の足が、机の下でブラブラと揺れている。
「『鍵』って呼ばれてる奴だろ? 聞いた。」
少年が、ずれた黒縁眼鏡を直す。
「結局昨日は来れなかったもんね! どんな子なんだろ?」
少女の足の動きが止まる。
「嵐山、お前もう会ってるんだよな? どんな奴なんだ? 神室秀青って。」
少年の眼鏡に、嵐山楓の顔が映る。
話を振られた嵐山楓は、一瞬だけ少年の方を向くと、すぐに顔を逸らして頬杖をついた。
「……馴れ馴れしくてうるさい奴だ。」
「ははっ! なんだよただの良い奴じゃん!」
少年が笑うと、また眼鏡の位置がずれた。
同時に、扉の開く音が室内に響いた。
「あ、まりあっち! おっはよー!」
机の下から、少女の足が出て行く。
少女のキャップ越しに見えるのは、女神のような微笑みをたたえる少女———まりあだった。
「おはよう、みんな。」
五月二十二日(日)八時四十一分 真希老獪人間心理専門学校・一階廊下
下田先生に導かれ、自室から一年の教室へと向かう。
床も壁も天井も、真っ白に塗られた校舎内の廊下は、新鮮味を帯びた俺の気持ちをさらに助長する。
「まったく、君がここまで無茶をする子だとは思わなかったよー。」
助長されたところで、俺の新鮮な気分など下田先生の説教ですぐに台無しになるのだが。
「君が強がったおかげで、梶君が強く責任感じちゃってるんだよ?」
「すみません。」
「謝るのは僕にじゃなくて、梶君に、でしょ?」
少し前を先行する下田先生が、振り向きざまに指をさしてきた。
「……はい。」
俺の返事に、下田先生は後頭部を掻いて前を向く。
「まぁ、いつまでもこんな話してても仕方ないよねー。ごめんね、気分切り替えていこう。」
そう言って、下田先生は立ち止まる。
その先には、『一年・教室』と書かれたプレートが壁から突き出した部屋。
「ここが、今日から君が通うことになる教室さ。」
下田先生が手を教室に向ける。
そう、今日は待ちに待った初登校日。
さまざまな性癖について学ぶ日々が、これから始まる。
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