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第43話「真希老獪人間心理専門学校へようこそ」
しおりを挟む五月十九日(木)十七時十三分 真希老獪人間心理専門学校・学長室
学長室は広大な面積を有していたが、それに反比例して簡素な空間だった。
来客用だと思われる木製のテーブルと、それを挟むように配置された黒いソファ。
奥には巨大な窓とこれまた木製の小さなデスク。
そして、それらに挟まれるように座っている一人の男性。
脱色しきった白い毛髪をオールバックにし、鼻の下にのみ白い髭を生やしている。
しわだらけの顔は弱々しさよりもむしろ荘厳さを醸し出している。
薄く白いエーラを身に纏い、黒いスーツを着た老紳士。
この人が、真希老獪学長、か。
真希学長は組んだ手に顎を乗せ、こちらを無言で見続ける。
下田先生が真希学長の前へと歩き出す。
俺も釣られて真希学長の前へ。
ふと、デスクの上に先ほどまで読んでいたであろう、栞が挟まれている本が目につく。
表紙には『キャベツ畑でつまずいて 著・和田慎二』と書かれていた。
「学長、神室秀青君を連れてきました。」
「ほら、神室君。」と、下田先生にあいさつを促される。
ハッとして、反射的に背筋を伸ばす。
一気に緊張が戻ってきた。
「はじめまして! 今日からお世話になります、神室秀青です! 特技はオナニーとセンズリです! よろしくお願いします!」
元気よく、深々と頭を下げる。
「……なんの話かね?」
え?
オナニーとセンズリは同じだろ的なツッコミを待っていた俺は、渋い声から発せられた予想外の返答に顔を上げる。
「君の世話など、私はしないよ。」
低く、重い声。
そして、真希学長を覆うエーラの色が濃くなった。
え? え?
やさしいおじいちゃんって……え?
下田先生と真希学長を交互に見てしまう。
「………。」
下田先生はいつになく真顔だ。
「『鍵』などと呼ばれ、『パンドラの箱』に狙われる危険因子を、我が学び舎に置いておくわけがないだろう。いや、この世界にさえ置いておくわけにはいかない。……君は殺処分だ。」
「殺処分っ⁉」
思わずのけぞってしまう。
真希学長は椅子からゆっくりと立ち上がる。
「聞いたところによると、オナニー中毒だそうじゃないか。それも気に食わない。己を律することもできないような人間が、どうして性的少数派と性的多数派を繋ぐ架け橋の一柱を担えると思うのかね。君はこの世に不要な人間だよ。だから、殺す。」
なっ……。
言われたい放題、罵られ放題。
流石にここまで言われて、黙っているわけにはいかなかった。
「た、確かに俺は自分を律することができていないかもしれませんが」
「かも、ではなく、できていないのだよ。」
冷たく突き放すような言葉。
「それでも、気に食わないだとか、不要だとか、会って間もない人間をそんな理由でいきなり殺すだなんて、そんなの、『パンドラの箱』と一緒じゃ」
そこまで言って、意識が一瞬途切れる。
気が付いた時には、デスクよりはるか後方の場所で、腹を押さえて蹲っていた。
「———っ!」
声にならない声が出る。
何が起こったのか、まったくわからない。
腹部に走る激しい痛み、さっきまで俺が立っていた位置にいる、横から軽く拳を突き出す真希学長。
俺は、殴られたのか?
「自分可愛さから来る戯言だな。」
真希学長が吐き捨てる。
「なんだよそりゃあ、ふざけん……っ⁉」
必死に捻り出した声で反論を試みた瞬間、真希学長が消えた。
「———っつあっ!」
直後、肩甲骨の間をまたもや激しい痛みが走る。
倒れそうになるのを、膝をついて回避。
振り返った先には、肘を振り下ろした体勢の真希会長がいた。
肘鉄、か——。
「声を発するな、息をするな、酸素の無駄だ。」
プツッ——
脳内で何かが切れる音がした。
「っっクソジジィッ‼」
反射的に突き出す腕。
クソジジイを掴もうと伸ばされた意思の届かぬ怒りの腕。
しかし、クソジジイは悠然と躱し、俺の頬にカウンターをかます。
崩れた体勢を右足で踏みとどまり、踏ん張りをバネにクソジジイの顔面目掛けて拳を放つ。
「一発ぶん殴るっ‼」
クソジジイはそれすらも余裕でいなすと、そのまま俺の腕を掴み、もう片手で俺の顔面を掴んで後方へと投げ飛ばした。
さらに、痛みで蹲る俺の目の前に瞬時に移動すると、俺の胸ぐらを掴んで持ち上げ、今度は逆側へと投げ飛ばす。
壁に衝突し、地面に叩きつけられる。
まるで全身が痛覚になったかのように、体中の至る所を痛みが暴れ回る。
痛い。
苦しい。
でも。
震える体を無理矢理起き上がらせ、笑う膝を両手で押さえつける。
「まだ立ち上がるのかね。」
クソジジイが見下したような視線を向けてくる。
「どうせ死ぬんだ。抵抗せずに楽に逝く方が賢明だとは思わんかね。」
クソジジイのエーラが、より巨大で強大なものになっていく。
こっちもエーラを纏っているのに、ダメージが緩和されてる気配が一切ない。
圧倒的強者による蹂躙。
抵抗してもしなくても、殺される。
嫌に現実的な予感。恐怖。
それでも。
「……はぁ、はぁ。ふざけんなよ。」
ようやく声を絞り出す。
「……初めて、AⅤを見てオナニーしたのが中二……」
整わない息を押しのけて無理矢理続ける。
「それ以来、様々なAⅤを観てきた。……AⅤだけじゃねぇ。エロ漫画、ヌード写真集、体験談掲示板、女神掲示板、ライブチャット……様々な媒体で様々な作品を見てきた。」
唇から垂れる血を手で拭う。
クソジジイはどうやら黙って聞く体勢に入ったようだ。
「そこで俺は、この世のありとあらゆる性癖に、無限の可能性を感じたんだ! 確かに、受け入れがたい性癖や理解の及ばない嗜好も存在する。それでも、それらにだって素晴らしい可能性がある。一個人の趣味嗜好として確立された、誇るべき確かな性癖だ。」
ようやく、息が多少整ってきた。
「それを、偏見と誤解のみで触れもせずに嘲笑罵倒するのが普通。受け入れている人間が異常。それが今の世の中。現実の社会。それを俺は無くしていきたい。世界を変えたい。誤解と偏見を消し去りたい。これが、オナニーとセンズリしか特技のない俺が十六年間の人生で培ってきた、俺の主張だ!」
クソジジイを睨みつける。
口元が、自然と薄く笑う。
「俺という人間を否定するなら、この主張も否定するってことだよな? ってことは、あんたの教育理念も否定するってことでいいんだよなぁ? 真希老獪人間心理専門学校の学長さんよぉ!」
いつの間にか、足の震えが止まっていた。
「………。」
ただひたすらの沈黙。
そののち、天を仰ぐように、真希老獪は目を閉じた。
「……自己を否定されれば怒りが滾り、生命の危機は深い恐怖を与える。この二つが揃う時、人は内なる本性を垣間見せる。」
独り言のように呟きながら、ゆっくりと俺の方へと歩いてくる。
とっさに身構える俺に構わず、俺の目前で立ち止まると、真希老獪は両腕を広げた。
「っ!」
反射的に目を瞑った俺が次に感じたのは、痛みではなく温かさだった。
「入学、おめでとう。」
「へ?」
目を開けると、真希老獪が俺を強く抱きしめていた。
「君の人格を否定するような発言をしてしまってすまなかった。君の嘘偽りない本性は見せてもらった。君には、是非ともうちで多様な性癖について学んでもらいたい。改めて、真希老獪人間心理専門学校へようこそ。神室君、これからもよろしく頼むよ。」
理解が追いつかない。
一体なにがどうなったのか。
ただ、それでも、一つ一つの言葉に宿る声音に、強くも優しい抱擁に、真希老獪の全てに、俺はなぜか涙を流していた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。学長。」
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