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アイリーンの困惑
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居住区は、暗く湿っていた。
玄関には異国の大きなタペストリーが掲げられていたが、半分に切り刻まれてボロボロだ。
吊るされているシャンデリアは純金製だが、黴が付着し変色していた。
著名な画家が描いたと思しき意匠を凝らした天井画も、雨漏りの跡が滲んで薄汚れ、ところどころ剥がれてしまっている。
シリウスは、台無しになった天井画にムッと顔を曇らせた。
「いづれ改装して住めるようにしないとな」
「こちらにお住みになるの? 」
軋みの酷い木製の扉を開けて中へと入ろうとするシリウスの背中に、アイリーンは問いかけずにはいられない。
結婚前から愛人を囲う算段なのかと、白い目を向けた。
「領地管理の際に泊まれるようにするだけだ。いや、君の父上母上の隠居に使わせるか。結婚したら私は君の屋敷に婿入りする手筈だからな」
「わ、私と屋敷にお住みに? 」
意外だと言わんばかりに、アイリーンのトーンが上がった。
「当然だろう? 」
てっきり別邸に愛人を引き込んで暮らすとばかり。さすがに新婚早々では体裁が悪いからか。
「ああ、やはりここも雨漏りで駄目になっているな。この部屋は壁から絨毯まで一式取り替えないとな」
アイリーンの胸の内など知る由もなく、シリウスは部屋中を歩き回して、壁や床、天井の傷み具合をじっくり確かめることに集中している。
「ここを寝室に使っても良いな」
顎を撫でながら、構想を練っている。
「我々が停泊する際の夫婦の寝室に、丁度良さそうな広さだな。キングサイズベッドでも余裕で置けそうだ」
シリウスの独り言を、アイリーンは聞き逃しはしなかった。
確かに「夫婦の寝室」と彼は言った。しかも「キングサイズベッド」と。
彼は結婚したら当然のようにアイリーンと寝るつもりだ。
婚約中といえど、すでによそよそしく、あくまで書類上での婚姻を貫かれるのだとばかり。
家のためにいづれは子を成す義務はあるものの、無垢なアイリーンには今いちピンとこない。
生物学で知識は得たものの、それはあくまで人体の構造に関するもの。実演などしたことすらない。
そこのところ、シリウスは経験豊富であるから、ポカンとするアイリーンをニヤニヤといやらしく顔を歪めて見下ろしてい
た。
家庭教師から教わった哺乳類の交尾を思い出している最中のアイリーンは、そんなシリウスの王族らしからぬ下品な笑い方には気づかない。
不意にガタンと、ひび割れた窓を風が叩いた。
びくり、とアイリーンの体が跳ねる。
真昼間であるし、窓からは陽光が差し込んで明るいはずなのに、どことなく陰気で空気が重い。
脚の折れたベッドや、中身が一切ない作り付けの壁面本棚、扉が外れてひっくり返ったクローゼット、真っ二つに割れたテーブル、綿の飛び出したソファ、千切れたベルベットのカーテンといった、いかにも強奪の跡が生々しい室内のせいだ。
城に攻め入ったときのまま、もう長い間、放置されていた。
「怖いのか? 」
息遣いが上がったことを誤魔化せず、シリウスにしっかり見抜かれてしまっている。
だが、弱味を見せてしまうのは、アイリーンのプライドが許さない。
「い、いいえ」
扇を広げて、震える唇を隠す。
「別に強がる必要はない」
見抜かれている。
「別に。これは武者震いです」
動揺を抑えようと、訳のわからない言葉を口走ってしまった。
「二人きりのときくらい、素直になってみたらどうだ? 」
「その言い方ですと、常に私が意地を張っているように聞こえますわ」
「事実だろう? 」
すっかり見透かされてしまっている。しかも、子供に対して諭すような言い方。七歳差の開きがいつもの倍、大きく感じる。
「ま、まあ。失礼な」
今度は羞恥によってアイリーンの肩が小刻みに揺れた。
「いつもは生意気な令嬢だが。こうしていると、年相応の娘と変わりないな」
小馬鹿にした笑い方。
屈辱だ。
レース模様の扇があからさまに左右に揺れる。
怒りを孕んで目元がだんだん赤くなっていく様を、シリウスは興味深く眺めた。
「その怒り方、懐かしいな」
シリウスは目を細めながら、そっとアイリーンから扇を取り上げた。
「君と初めて会った日を思い出す」
碧眼には、まごつくアイリーンの姿がくっきりと映されている。
取り上げた扇を畳むと、シリウスは彼女の手にそれを返す。彼のムスクの香りがふわりと伝う。
「確か、七年前だったな」
懐かしそうに呟かれた言葉に、アイリーンは扇を落としかけた。
アーモンド型の目がまん丸になる。
ほっそりとした喉元のラインを、唾が下っていった。
驚きのあまり口の粘膜がからからで、べたついて、上手く声を出せない。
今まで彼からそれに関しては一切なかった。
てっきり他愛ない出来事として、忙しない日常に紛れ、彼方へと追いやられてしまったと思っていたのに。
心に繋ぎ止めているのは、アイリーンだけで。
「覚えていらっしゃいますの? 」
やっと声が出たものの、ガラガラだ。
「私は耄碌する年ではない」
俄かにムッとしたように、シリウスは眉根を寄せて縦皺を作った。
またもや、アイリーンの言葉が嫌味だと捉われてしまったらしい。
玄関には異国の大きなタペストリーが掲げられていたが、半分に切り刻まれてボロボロだ。
吊るされているシャンデリアは純金製だが、黴が付着し変色していた。
著名な画家が描いたと思しき意匠を凝らした天井画も、雨漏りの跡が滲んで薄汚れ、ところどころ剥がれてしまっている。
シリウスは、台無しになった天井画にムッと顔を曇らせた。
「いづれ改装して住めるようにしないとな」
「こちらにお住みになるの? 」
軋みの酷い木製の扉を開けて中へと入ろうとするシリウスの背中に、アイリーンは問いかけずにはいられない。
結婚前から愛人を囲う算段なのかと、白い目を向けた。
「領地管理の際に泊まれるようにするだけだ。いや、君の父上母上の隠居に使わせるか。結婚したら私は君の屋敷に婿入りする手筈だからな」
「わ、私と屋敷にお住みに? 」
意外だと言わんばかりに、アイリーンのトーンが上がった。
「当然だろう? 」
てっきり別邸に愛人を引き込んで暮らすとばかり。さすがに新婚早々では体裁が悪いからか。
「ああ、やはりここも雨漏りで駄目になっているな。この部屋は壁から絨毯まで一式取り替えないとな」
アイリーンの胸の内など知る由もなく、シリウスは部屋中を歩き回して、壁や床、天井の傷み具合をじっくり確かめることに集中している。
「ここを寝室に使っても良いな」
顎を撫でながら、構想を練っている。
「我々が停泊する際の夫婦の寝室に、丁度良さそうな広さだな。キングサイズベッドでも余裕で置けそうだ」
シリウスの独り言を、アイリーンは聞き逃しはしなかった。
確かに「夫婦の寝室」と彼は言った。しかも「キングサイズベッド」と。
彼は結婚したら当然のようにアイリーンと寝るつもりだ。
婚約中といえど、すでによそよそしく、あくまで書類上での婚姻を貫かれるのだとばかり。
家のためにいづれは子を成す義務はあるものの、無垢なアイリーンには今いちピンとこない。
生物学で知識は得たものの、それはあくまで人体の構造に関するもの。実演などしたことすらない。
そこのところ、シリウスは経験豊富であるから、ポカンとするアイリーンをニヤニヤといやらしく顔を歪めて見下ろしてい
た。
家庭教師から教わった哺乳類の交尾を思い出している最中のアイリーンは、そんなシリウスの王族らしからぬ下品な笑い方には気づかない。
不意にガタンと、ひび割れた窓を風が叩いた。
びくり、とアイリーンの体が跳ねる。
真昼間であるし、窓からは陽光が差し込んで明るいはずなのに、どことなく陰気で空気が重い。
脚の折れたベッドや、中身が一切ない作り付けの壁面本棚、扉が外れてひっくり返ったクローゼット、真っ二つに割れたテーブル、綿の飛び出したソファ、千切れたベルベットのカーテンといった、いかにも強奪の跡が生々しい室内のせいだ。
城に攻め入ったときのまま、もう長い間、放置されていた。
「怖いのか? 」
息遣いが上がったことを誤魔化せず、シリウスにしっかり見抜かれてしまっている。
だが、弱味を見せてしまうのは、アイリーンのプライドが許さない。
「い、いいえ」
扇を広げて、震える唇を隠す。
「別に強がる必要はない」
見抜かれている。
「別に。これは武者震いです」
動揺を抑えようと、訳のわからない言葉を口走ってしまった。
「二人きりのときくらい、素直になってみたらどうだ? 」
「その言い方ですと、常に私が意地を張っているように聞こえますわ」
「事実だろう? 」
すっかり見透かされてしまっている。しかも、子供に対して諭すような言い方。七歳差の開きがいつもの倍、大きく感じる。
「ま、まあ。失礼な」
今度は羞恥によってアイリーンの肩が小刻みに揺れた。
「いつもは生意気な令嬢だが。こうしていると、年相応の娘と変わりないな」
小馬鹿にした笑い方。
屈辱だ。
レース模様の扇があからさまに左右に揺れる。
怒りを孕んで目元がだんだん赤くなっていく様を、シリウスは興味深く眺めた。
「その怒り方、懐かしいな」
シリウスは目を細めながら、そっとアイリーンから扇を取り上げた。
「君と初めて会った日を思い出す」
碧眼には、まごつくアイリーンの姿がくっきりと映されている。
取り上げた扇を畳むと、シリウスは彼女の手にそれを返す。彼のムスクの香りがふわりと伝う。
「確か、七年前だったな」
懐かしそうに呟かれた言葉に、アイリーンは扇を落としかけた。
アーモンド型の目がまん丸になる。
ほっそりとした喉元のラインを、唾が下っていった。
驚きのあまり口の粘膜がからからで、べたついて、上手く声を出せない。
今まで彼からそれに関しては一切なかった。
てっきり他愛ない出来事として、忙しない日常に紛れ、彼方へと追いやられてしまったと思っていたのに。
心に繋ぎ止めているのは、アイリーンだけで。
「覚えていらっしゃいますの? 」
やっと声が出たものの、ガラガラだ。
「私は耄碌する年ではない」
俄かにムッとしたように、シリウスは眉根を寄せて縦皺を作った。
またもや、アイリーンの言葉が嫌味だと捉われてしまったらしい。
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