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猛獣の弱点

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 侯爵夫人との対面に余程、神経が疲弊したのか。
 ロイは馬車の中で、クッションにぐったり凭れ、アンドレア邸の門を出てからずっと瞼を閉じて腕組みしている。
 マチルダは苦笑いしながら、まだ汗の吹き出す額をハンカチーフでそっと拭ってやった。
 ハンカチーフは、あっという間にぐっしょりと重みが増した。
「あなたでも苦手なものがあるのね」
 しみじみとマチルダは零す。
 欠点は有り余るものの、この男と弱点といった単語が結びつかなかった。
 今日、この時までは。
 ロイは目を閉じたまま、ムスッと不機嫌に口を尖らせる。
「君は私を真っ当な人間とは思ってないだろ」
「誤解だわ」
 真っ当はともかく、人間とは思っている。マチルダはこっそり笑った。
「いつもの横柄さはどうなさったの? 」
「横柄とは何だ」
「いつもふてぶてしいくらいに、胸を張っているじゃないの」
 偉ぶって、自分は何でもお見通しだと。誤魔化しなんてきかない。彼のその漆黒の双眸は鋭く光って、マチルダの心の内は筒抜けになってしまう。
「侯爵夫人は、どうも駄目だ」
 ロイは弱々しく吐露する。
 いつもはライオン並みに吠えて、誰彼構わず威嚇すると言うのに。
 凶暴なライオンでも、神経の集中している鼻が弱点と言われている。
 さながら今のロイは、鼻面を殴られた後のライオンだ。
「彼女のあの、一見すると穏やかなあの目。あの目の奥では、平気で命を捻り潰す冷酷な企てが常に展開されている」
 侯爵夫人は猛獣遣いのごとく、難なくライオンを素手でやり込める強靭さを持つ。見た目と本質の落差が激しい女性だ。
「茶葉に毒物を混入させてしまった私も、二度目はなかった。危なかった」
 ロイは頭を抱えて呻いた。
 警備の盲点を突かれた甘さに、侯爵夫人は笑顔の仮面の下で怒り心頭だったようだ。
「君がいなければどうなっていたか」
 誰が相手だろうと毅然とした接し方を崩さず、且つ、品性と美貌を備えたマチルダ。
 侯爵夫人にはあくまで妻を紹介するだけだったが、予想以上に彼女はロイを救った。
「怖くて堪らなかったよ」
 侯爵夫人の噂は、ロイの耳に嫌ほど入ってくる。笑って流すにしても、実際に去勢された男を見ると、それは無理だ。自分も同じような目に遭うのではないかと、面会の時間中、モゾモゾと股間を手で押さえて死守していた。
 ロイを去勢させたら、がしくしくと哀しむ。
 侯爵夫人はロイを見逃した。
「いつものあなたじゃないみたい」
 そんなロイの事情など知る由もないマチルダは、不思議そうに首を傾げる。
「これも私の一面だよ。軽蔑するか? 」
 ロイは頭をくしゃくしゃに掻き乱すと、顔を覆ってまたもや呻いた。
「いいえ。ますます親近感が沸いたわ」
「親近感だけ? 」
「情けないあなたも好きだわ」
「情けないとは何だ」
「いつも格好つけているのに」
「愛する女性の前では、少しでも良く見せたいものなんだ」
 ロイがチラリと目線を上げた。
 一直線の眼差しをくらう。
 マチルダは思わず尻を後ろにずらし、壁にぴたりと背中を貼り付けてしまった。
 彼の憂いを帯びた目は、色気をぷんぷんと放出している。
 薄い唇の何と艶めかしいこと。
 不安そうに瞬たいた睫毛。
 いつも見せない顔をマチルダにのみ晒し、つい包み込んであげたくなるような。母性をくすぐられるような。
 不覚にも、子宮がじんわりと熱くなってしまった。
 ロイを今すぐこの胸に抱き締めて、顔中にキスしたくて堪らない。首筋の歯形も、付け直してやりたい。
 深夜零時に自分は夫に抱かれたくて堪らなくなると、彼は予言したが。
 見事にハズレだ。
 今、抱かれたくて堪らない。
 マチルダは、車輌が小石を噛んでガタンと大きく車体が揺れるたびに、熱い息を吐いて耐えた。
 
 







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