上 下
57 / 114

空想と現実

しおりを挟む
 耳元で誰かが同じ言葉を繰り返している。
「死ぬなよ。マチルダ」
 今にも泣き出してしまいそうに弱々しい。
 聞き慣れたはずの低い響きなのに。
 聞いたこともない声。
 その声が零れ落ちる唇を塞いであげたい。そうすれば、きっと、彼は安心するのに。
 マチルダは根拠がないのに、何故か確信を持つ。


 マチルダは人魚の姿になっていた。
 ブライス邸で見た、新進気鋭の画家が描いた人魚に。
 あのとき、人魚はこちら側を向いていたが。
 誰かを目で追っているようだった。
 誰を見つめているのだろう。
 その疑問は、自分が人魚になってやっとわかった。
 彼方にいるのは、ロイだ。
 また何か悪巧みしているように口元を吊り上げ、抜け目なく漆黒の瞳をぎらつかせながら、両手を大きく広げて待ち構えている。
 マチルダは岩を尾先で蹴って、水へと潜った。
 愛しい彼の元へ泳ぎ着くために。


「マチルダ! 戻れ! 」


 ロイは繰り返しながら、唇を通して彼女へと空気を送り込んだ。
 長時間水に浸された彼女は、やはり肺へと水が流れ込み、一刻を争う事態だった。
 医療知識をかじっているロイは、躊躇いなく彼女に人口呼吸を施す。
 異性がちょっとでも触れたらたちまち悲鳴をあげて熱を持つ彼女の肌は、今は凍るほどに冷え冷えしている。
 まるで蝋人形のように。
 このまま本当に人形と化してしまいかねない。
 ロイはそんな恐怖と闘いながら、必死に彼女がこちら側へ戻るよう呼び続けた。


「マチルダ! 戻って来い! 」


 ロイが呼んでいる。
 人魚のマチルダは、思い切り水流を掻き分ける。
 だが、水草が尾鰭に絡みついて、うまく前に進めない。
 そればかりか、水草がうねうねと妙な動きをみせて、マチルダを底深くへと引き摺り込もうとする。ちょうど乳房くらいまで水の外に出ていたというのに、一気に首元まで沈んでしまう。咄嗟に伸ばした手にも、水草が巻き付いた。


「ロイ……ロイ……」


 マチルダの視線の先で、ロイが両手を広げて待っている。
 


「くそっ! だんだん心臓の音が弱ってきた! 」
「諦めては駄目よ! ロイ! 」
「当たり前だ! だれが手放すか! 」
 ロイは尚もマチルダへ空気を送り込む。
 これ以上低体温にならないように、他の男達は箱馬車から布地という布地をかき集め、マチルダに覆った。何なら自分達のコートを脱ぎ、ハンカチやタイまで外した。
 なかなか意識の戻らないマチルダに、次第にロイの額で汗が粒となり、頬のラインを辿る。


「マチルダ! 」


 彼はいつもマチルダが危機に瀕したときに、颯爽と現れる。
 人魚のマチルダに近寄ったロイは、強引に彼女の手首に絡みつく水草を引き千切ると、腰を抱えて水面から引き上げた。
「ロイ! 」
 彼の首筋に抱きつくマチルダ。


 ふっと、微かな息がマチルダの口から零れた。
 ロイはそれを逃さなかった。
 ゆっくりと、しかし確実に、マチルダの青白かった頬に赤みがさしていく。
 今にも消え入りそうな心音は、確かな音を打つ。
 マチルダは戻って来た。
 確信したロイは、今度は空気を送り込むためではなく、彼女と自分の熱を共有するために唇を塞いだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

【R18】熱い一夜が明けたら~酔い潰れた翌朝、隣に団長様の寝顔。~

三月べに
恋愛
酔い潰れた翌朝。やけに身体が重いかと思えば、ベッドには自分だけではなく、男がいた! しかも、第三王子であり、所属する第三騎士団の団長様! 一夜の過ちをガッツリやらかした私は、寝ている間にそそくさと退散。まぁ、あの見目麗しい団長と一夜なんて、いい思いをしたと思うことにした。が、そもそもどうしてそうなった??? と不思議に思っていれば、なんと団長様が一夜のお相手を捜索中だと! 団長様は媚薬を盛られてあの宿屋に逃げ込んでやり過ごそうとしたが、うっかり鍵をかけ忘れ、酔っ払った私がその部屋に入っては、上になだれ込み、致した……! あちゃー! 氷の冷徹の団長様は、一体どういうつもりで探しているのかと息をひそめて耳をすませた。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

婚約者をNTRた公爵令嬢が悪役だと誰が決めた?!!

月夜の庭
恋愛
目の前で義理の妹と婚約者のラブシーンを覗いてしまった公爵令嬢リリアーヌは、前世でも双子の妹に初恋の人をNTRていた事を思い出す。 なぜか自分をヒロインだと信じ、色々な人に高圧的な態度を取る義理の妹。 でも妹は知らない。 ゲームなんかより、現実の方が複雑だという事を。 *誤字脱字は見つけ次第、修正していきますので、少し待って頂けると有難いです。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

婚約破棄寸前の悪役令嬢に転生したはずなのに!?

もふきゅな
恋愛
現代日本の普通一般人だった主人公は、突然異世界の豪華なベッドで目を覚ます。鏡に映るのは見たこともない美しい少女、アリシア・フォン・ルーベンス。悪役令嬢として知られるアリシアは、王子レオンハルトとの婚約破棄寸前にあるという。彼女は、王子の恋人に嫌がらせをしたとされていた。 王子との初対面で冷たく婚約破棄を告げられるが、美咲はアリシアとして無実を訴える。彼女の誠実な態度に次第に心を開くレオンハルト 悪役令嬢としてのレッテルを払拭し、彼と共に幸せな日々を歩もうと試みるアリシア。

お幸せに、婚約者様。

ごろごろみかん。
恋愛
仕事と私、どっちが大切なの? ……なんて、本気で思う日が来るとは思わなかった。 彼は、王族に仕える近衛騎士だ。そして、婚約者の私より護衛対象である王女を優先する。彼は、「王女殿下とは何も無い」と言うけれど、彼女の方はそうでもないみたいですよ? 婚約を解消しろ、と王女殿下にあまりに迫られるので──全て、手放すことにしました。 お幸せに、婚約者様。 私も私で、幸せになりますので。

愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

処理中です...