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空想と現実
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耳元で誰かが同じ言葉を繰り返している。
「死ぬなよ。マチルダ」
今にも泣き出してしまいそうに弱々しい。
聞き慣れたはずの低い響きなのに。
聞いたこともない声。
その声が零れ落ちる唇を塞いであげたい。そうすれば、きっと、彼は安心するのに。
マチルダは根拠がないのに、何故か確信を持つ。
マチルダは人魚の姿になっていた。
ブライス邸で見た、新進気鋭の画家が描いた人魚に。
あのとき、人魚はこちら側を向いていたが。
誰かを目で追っているようだった。
誰を見つめているのだろう。
その疑問は、自分が人魚になってやっとわかった。
彼方にいるのは、ロイだ。
また何か悪巧みしているように口元を吊り上げ、抜け目なく漆黒の瞳をぎらつかせながら、両手を大きく広げて待ち構えている。
マチルダは岩を尾先で蹴って、水へと潜った。
愛しい彼の元へ泳ぎ着くために。
「マチルダ! 戻れ! 」
ロイは繰り返しながら、唇を通して彼女へと空気を送り込んだ。
長時間水に浸された彼女は、やはり肺へと水が流れ込み、一刻を争う事態だった。
医療知識をかじっているロイは、躊躇いなく彼女に人口呼吸を施す。
異性がちょっとでも触れたらたちまち悲鳴をあげて熱を持つ彼女の肌は、今は凍るほどに冷え冷えしている。
まるで蝋人形のように。
このまま本当に人形と化してしまいかねない。
ロイはそんな恐怖と闘いながら、必死に彼女がこちら側へ戻るよう呼び続けた。
「マチルダ! 戻って来い! 」
ロイが呼んでいる。
人魚のマチルダは、思い切り水流を掻き分ける。
だが、水草が尾鰭に絡みついて、うまく前に進めない。
そればかりか、水草がうねうねと妙な動きをみせて、マチルダを底深くへと引き摺り込もうとする。ちょうど乳房くらいまで水の外に出ていたというのに、一気に首元まで沈んでしまう。咄嗟に伸ばした手にも、水草が巻き付いた。
「ロイ……ロイ……」
マチルダの視線の先で、ロイが両手を広げて待っている。
「くそっ! だんだん心臓の音が弱ってきた! 」
「諦めては駄目よ! ロイ! 」
「当たり前だ! だれが手放すか! 」
ロイは尚もマチルダへ空気を送り込む。
これ以上低体温にならないように、他の男達は箱馬車から布地という布地をかき集め、マチルダに覆った。何なら自分達のコートを脱ぎ、ハンカチやタイまで外した。
なかなか意識の戻らないマチルダに、次第にロイの額で汗が粒となり、頬のラインを辿る。
「マチルダ! 」
彼はいつもマチルダが危機に瀕したときに、颯爽と現れる。
人魚のマチルダに近寄ったロイは、強引に彼女の手首に絡みつく水草を引き千切ると、腰を抱えて水面から引き上げた。
「ロイ! 」
彼の首筋に抱きつくマチルダ。
ふっと、微かな息がマチルダの口から零れた。
ロイはそれを逃さなかった。
ゆっくりと、しかし確実に、マチルダの青白かった頬に赤みがさしていく。
今にも消え入りそうな心音は、確かな音を打つ。
マチルダは戻って来た。
確信したロイは、今度は空気を送り込むためではなく、彼女と自分の熱を共有するために唇を塞いだ。
「死ぬなよ。マチルダ」
今にも泣き出してしまいそうに弱々しい。
聞き慣れたはずの低い響きなのに。
聞いたこともない声。
その声が零れ落ちる唇を塞いであげたい。そうすれば、きっと、彼は安心するのに。
マチルダは根拠がないのに、何故か確信を持つ。
マチルダは人魚の姿になっていた。
ブライス邸で見た、新進気鋭の画家が描いた人魚に。
あのとき、人魚はこちら側を向いていたが。
誰かを目で追っているようだった。
誰を見つめているのだろう。
その疑問は、自分が人魚になってやっとわかった。
彼方にいるのは、ロイだ。
また何か悪巧みしているように口元を吊り上げ、抜け目なく漆黒の瞳をぎらつかせながら、両手を大きく広げて待ち構えている。
マチルダは岩を尾先で蹴って、水へと潜った。
愛しい彼の元へ泳ぎ着くために。
「マチルダ! 戻れ! 」
ロイは繰り返しながら、唇を通して彼女へと空気を送り込んだ。
長時間水に浸された彼女は、やはり肺へと水が流れ込み、一刻を争う事態だった。
医療知識をかじっているロイは、躊躇いなく彼女に人口呼吸を施す。
異性がちょっとでも触れたらたちまち悲鳴をあげて熱を持つ彼女の肌は、今は凍るほどに冷え冷えしている。
まるで蝋人形のように。
このまま本当に人形と化してしまいかねない。
ロイはそんな恐怖と闘いながら、必死に彼女がこちら側へ戻るよう呼び続けた。
「マチルダ! 戻って来い! 」
ロイが呼んでいる。
人魚のマチルダは、思い切り水流を掻き分ける。
だが、水草が尾鰭に絡みついて、うまく前に進めない。
そればかりか、水草がうねうねと妙な動きをみせて、マチルダを底深くへと引き摺り込もうとする。ちょうど乳房くらいまで水の外に出ていたというのに、一気に首元まで沈んでしまう。咄嗟に伸ばした手にも、水草が巻き付いた。
「ロイ……ロイ……」
マチルダの視線の先で、ロイが両手を広げて待っている。
「くそっ! だんだん心臓の音が弱ってきた! 」
「諦めては駄目よ! ロイ! 」
「当たり前だ! だれが手放すか! 」
ロイは尚もマチルダへ空気を送り込む。
これ以上低体温にならないように、他の男達は箱馬車から布地という布地をかき集め、マチルダに覆った。何なら自分達のコートを脱ぎ、ハンカチやタイまで外した。
なかなか意識の戻らないマチルダに、次第にロイの額で汗が粒となり、頬のラインを辿る。
「マチルダ! 」
彼はいつもマチルダが危機に瀕したときに、颯爽と現れる。
人魚のマチルダに近寄ったロイは、強引に彼女の手首に絡みつく水草を引き千切ると、腰を抱えて水面から引き上げた。
「ロイ! 」
彼の首筋に抱きつくマチルダ。
ふっと、微かな息がマチルダの口から零れた。
ロイはそれを逃さなかった。
ゆっくりと、しかし確実に、マチルダの青白かった頬に赤みがさしていく。
今にも消え入りそうな心音は、確かな音を打つ。
マチルダは戻って来た。
確信したロイは、今度は空気を送り込むためではなく、彼女と自分の熱を共有するために唇を塞いだ。
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