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亀裂

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 絵本の王子様の顔がぐにゃりと曲がって、炎に包まれ、蝋人形のように溶けていく。
 ロイそっくりの王子様。
 マチルダの理想が、頭の中でどんどん溶けていく。
「私達はこれで終わりか? 」
「当然よ! 」
 マチルダは一際大きな声を上げた。
 しきりに雌への求愛で鳴いていた鳩が、ピタリと止んだ。
 バサバサと羽音を立てて飛び立つ。
 鳥すら求愛行動をやめたのに。
 まだ、この男はしつこい。
 いつもの自信に満ちた輝きはなくなり、すがるような、今にも泣き出してしまいそうな弱々しい眼差しを向けてきた。
 まるで彼を一方的に責めている気分になり、マチルダの胸に、もやもやと薄もやが張る。
「これだけは言わせてくれ」
 マチルダの怒りが頑なであると悟ったロイは、振り絞るように訴えにかかった。
「何よ」


「君を愛している」


 時間が止まった。
 空耳かと疑った。
 それはマチルダがずっと求めていた言葉。


「最低! 」
 言葉より先に、彼の頬に平手を打っていた。
 拳よりずっと力は入れていない。
 現にロイはぴくりとも反応していない。
 だが、マチルダの手はジンジンと、まるで針に刺されたような痛みすら覚えた。
 とめどなく涙が溢れる。
「そうやって、色々な女性を弄んでいるのね? 」
「違う! こんなことは、君にしか言わない! 」
「嘘よ! 」
 マチルダにしか言わないなら、オリビアがあれほど愛されていると自信満々にはならない。
 彼女の漆黒の瞳が蘇る。
 オリビアは興味津々でマチルダを眺めていた。とてもじゃないが、恋敵を見る目ではない。
 マチルダは恋愛の起点にすら立たせてもらえないのだ。
「君はどうなんだ? 」
「何? 」
「私を愛しているのか? 」
「それは……」
 マチルダは言葉に詰まった。
 本心をぶち撒けられたら、どれほど楽だっただろうか。
 しかし、それではマチルダの矜持が成り立たない。
 恋愛の起点にすら立てない女の、最後の意地だ。
「愛してなんて……いないわ」
 声は掠れ、語尾が消える。
「嘘をつくな」
 悔しそうにロイが顔をしかめて、ハンサムを台無しにした。
「大した自信家ね」
「よく言われる」
 ロイは、マチルダの心が己に向いていると認めさせたいらしい。
「あなたなんて嫌いよ」
 言いながら、オリビアの顔が過る。
「もう、顔も見たくないわ! 」
 オリビアの幸福な笑顔。
 ロイの後ろには、満ち足りた家庭がいつも控えていたのだ。
 彼を見るたびに、その事実を突きつけられる。
「マチルダ! 嘘をつくな! 」
「嘘じゃないわ! 大嫌いよ! 」
 不意に何かが叩きつけられた激しい音。
 別の木に移っていた鳩が、バサバサと遥か彼方へと飛び立った。
 勿忘草がデザインされた鋳物製のガーデンテーブルが、チェアを巻き込み、横倒しにひっくり返っていた。
 怒りで目元を赤くしたロイが、力任せに蹴り上げたのだ。
 常に飄々として、スマートで、マチルダのヒステリーをかわしていたロイが、とうとう限界に達してしまった。
 ロイは肉食動物さながらの獰猛な一瞥をマチルダへ寄越すと、激しく舌打ちし、踵を返す。
 彼はテラスから大広間へ、その姿は仮面舞踏会を楽しむ人混みの中へと消えた。
 もう彼の姿はどこにもない。
「……これで良いの。これで良いのよ」
 両手で顔を覆い、マチルダは己に言い聞かせるために繰り返した。
「火遊びはもう終わりにしなきゃ」
 一線を飛び越えてしまえば、もう後戻り出来ない。
「彼と奥様の間には、私の入る余地なんてないんだから」
 ロイは、束の間の夢を彷徨っていただけ。
 彼には帰る場所がある。
 それを導くのが、マチルダの役目だ。
 マチルダはいつか言われた「ロイへの教育」を、今、行なった。
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