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燎原の火
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蹴破ったドアから現れたのは、リリアーナだけの騎士だ。
リリアーナは彼の胸に惑うことなく飛び込む。
勢い任せに押し倒されたザカリスは、床に仰向けに倒れた。リリアーナはすぐさま、その鍛えられた胸板にピッタリと頬をつける。鼓膜を振動させる速い拍動。
これは幻ではない。
本物だ。
本物の、リリアーナだけの騎士だ。
リリアーナの頭上を、灰色に色づいた煙が横滑りしていく。
大好きな柑橘系の香水は薄れて、彼特有の雄臭さがツンと鼻先に入った。
それはリリアーナの雌を刺激するには充分だ。
リリアーナは子うさぎと渾名される。
兎は性欲が強い。他の動物が生後半年目以降で発情するのに比べて、兎は生後数ヶ月と早い。
リリアーナはこのような状況でさえ、いや、このような状況だからこそ、彼に抱かれたくて堪らない。
最後の最後まで子孫を残そうとする本能だ。
そういった点では、ザカリスの方が冷静だ。
「リリアーナ。退けるんだ。早くここから逃げなければ」
「ええ。ザカリス様。ハンカチを口に。煙を吸い込んだら危ないわ」
「あ、ああ」
「腰を屈めて。煙は上の方に溜まるから」
「わ、わかった」
危機的状況のときこそ、本質が現れる。
リリアーナはいつもの甘ったれた、繊細な顔立ちではなく、革命軍を先導する女神のような力強さで灰褐色の瞳を爛々と光らせた。
ザカリスはその瞳の鋭さに息を呑んだ。
轟々と燃え盛る炎は勢いを増し、天井へと昇っていく。
熱風が頬を焼く。
熱くて熱くて、汗がひっきりなしに額から頬へ、そして顎先へと垂れ落ちる。
チリチリと喉奥まで入り込んだ熱風は、確実に体力を奪っていく。皮膚がどろどろと蝋のように溶けそうだ。
安物の家具が蜃気楼でひしゃげていくようにさえ見えた。
壁から天井へと、炎はまるで生き物のように立ち昇り、あっと言う間に天井を覆い尽くした。
ミシミシとした崩壊間近の音。
「リリアーナ! 早く逃げろ! 」
ザカリスは出口へとリリアーナを押した。
ドアはすっかり炎に包まれてはいたが、かろうじて形をなしている。多少皮膚が焼けてしまうが、今ならまだ飛び出せる余地が残されている。
「ザカリス様! 」
リリアーナは悲鳴をあげた。
彼の左足首を崩れたテーブルの天板が潰し、覆い被さる。脚を抜こうにも、他の家具が邪魔をして身動きが取れない。
リリアーナは慌てて彼の脚に駆け寄り、テーブルを持ち上げようとした。
「熱っ! 」
まるで鉄の塊のように熱くなってしまっている。たちまちリリアーナの手のひらの皮が剥けた。
あのローブの男は、何かの薬品を撒いたのだ。
そうでなければ、この異常な炎の回り方といい、熱さといい、説明がつかない。
運が良ければ助かる。
男の言葉を理解する。
この状況下で運も何もない。あの男は、秘密を知る者全てを葬る気だ。最初から。
「俺は駄目だ! 早く逃げろ! 」
「嫌よ! あなたを置いていけないわ! 」
「バカ! 火傷するぞ! 」
「もうしてるわ! 」
毎朝、毎晩、欠かさずクリームを塗って手入れを怠らなかった手は皮が捲れ、火の粉によって水膨れが出来てしまった。
だが、そんなこと、ザカリスが助かるならどうだって良い。
それよりも、口論のために無駄に酸素を消費したくない。
今度こそ、彼を失いたくない。
ザカリスを救うために、リリアーナは死に戻ったのだから。
リリアーナは彼の胸に惑うことなく飛び込む。
勢い任せに押し倒されたザカリスは、床に仰向けに倒れた。リリアーナはすぐさま、その鍛えられた胸板にピッタリと頬をつける。鼓膜を振動させる速い拍動。
これは幻ではない。
本物だ。
本物の、リリアーナだけの騎士だ。
リリアーナの頭上を、灰色に色づいた煙が横滑りしていく。
大好きな柑橘系の香水は薄れて、彼特有の雄臭さがツンと鼻先に入った。
それはリリアーナの雌を刺激するには充分だ。
リリアーナは子うさぎと渾名される。
兎は性欲が強い。他の動物が生後半年目以降で発情するのに比べて、兎は生後数ヶ月と早い。
リリアーナはこのような状況でさえ、いや、このような状況だからこそ、彼に抱かれたくて堪らない。
最後の最後まで子孫を残そうとする本能だ。
そういった点では、ザカリスの方が冷静だ。
「リリアーナ。退けるんだ。早くここから逃げなければ」
「ええ。ザカリス様。ハンカチを口に。煙を吸い込んだら危ないわ」
「あ、ああ」
「腰を屈めて。煙は上の方に溜まるから」
「わ、わかった」
危機的状況のときこそ、本質が現れる。
リリアーナはいつもの甘ったれた、繊細な顔立ちではなく、革命軍を先導する女神のような力強さで灰褐色の瞳を爛々と光らせた。
ザカリスはその瞳の鋭さに息を呑んだ。
轟々と燃え盛る炎は勢いを増し、天井へと昇っていく。
熱風が頬を焼く。
熱くて熱くて、汗がひっきりなしに額から頬へ、そして顎先へと垂れ落ちる。
チリチリと喉奥まで入り込んだ熱風は、確実に体力を奪っていく。皮膚がどろどろと蝋のように溶けそうだ。
安物の家具が蜃気楼でひしゃげていくようにさえ見えた。
壁から天井へと、炎はまるで生き物のように立ち昇り、あっと言う間に天井を覆い尽くした。
ミシミシとした崩壊間近の音。
「リリアーナ! 早く逃げろ! 」
ザカリスは出口へとリリアーナを押した。
ドアはすっかり炎に包まれてはいたが、かろうじて形をなしている。多少皮膚が焼けてしまうが、今ならまだ飛び出せる余地が残されている。
「ザカリス様! 」
リリアーナは悲鳴をあげた。
彼の左足首を崩れたテーブルの天板が潰し、覆い被さる。脚を抜こうにも、他の家具が邪魔をして身動きが取れない。
リリアーナは慌てて彼の脚に駆け寄り、テーブルを持ち上げようとした。
「熱っ! 」
まるで鉄の塊のように熱くなってしまっている。たちまちリリアーナの手のひらの皮が剥けた。
あのローブの男は、何かの薬品を撒いたのだ。
そうでなければ、この異常な炎の回り方といい、熱さといい、説明がつかない。
運が良ければ助かる。
男の言葉を理解する。
この状況下で運も何もない。あの男は、秘密を知る者全てを葬る気だ。最初から。
「俺は駄目だ! 早く逃げろ! 」
「嫌よ! あなたを置いていけないわ! 」
「バカ! 火傷するぞ! 」
「もうしてるわ! 」
毎朝、毎晩、欠かさずクリームを塗って手入れを怠らなかった手は皮が捲れ、火の粉によって水膨れが出来てしまった。
だが、そんなこと、ザカリスが助かるならどうだって良い。
それよりも、口論のために無駄に酸素を消費したくない。
今度こそ、彼を失いたくない。
ザカリスを救うために、リリアーナは死に戻ったのだから。
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