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絶望の淵
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冷たい御影石を踏み締める音が近づいてくる男。
一歩一歩、爪先から踵へ掛けて踏み締めるその靴音は、慕う相手のものだから、聞き分けられる。
「ザカリス様? 」
しゃくり上げながら名を呼べば、真正面には、リリアーナが求めてやまない姿。
ハットはどこかへ飛ばして、外出には欠かせないステッキもない。湿り気のある落ち葉と土埃とが混ざる悪路のせいで、泥が跳ねて上等なコートが台無しだ。磨かれた革靴も汚れて変色してしまっている。
黒味がかった茶色い髪は汗で濡れていつもより色濃く、肌に張り付いてしまっていた。
皮膚にはこれでもかと汗の粒が浮き、こめかみから曲線を描いて顎へ、そしてポタリポタリと地面に垂れた。
全速力で駆け抜けてきた証だ。
「リリアーナ! すまなかった! 許せ! 」
いきなり身体中の骨が軋んだ。
気がつけば、ザカリスに強く抱きしめられていた。
「お前を独りにさせた俺は馬鹿だ! どうしようもない馬鹿だ! 」
叫んだザカリスは、リリアーナの首筋に顔を埋める。
「ザカリス様」
リリアーナは噛み締めるように彼の名を再び舌先に乗せ、その背中に腕を回そうとした、そのとき。
目に飛び込んできたものが、彼女を絶望の淵に立たせた。
「嫌! 近寄らないで! 」
ザカリスの胸板を思い切り突き飛ばしていた。
「リリアーナ! 」
拒絶されたザカリスは、呆然となる。
彼の首筋に散る紫色の痕が何であるか分かって、リリアーナは一気に奈落へと突き落とされた。
「わ、私を置いて行ってたくせに……私を独りぼっちにして……」
リリアーナが孤独に泣いていたその時間、ザカリスはこの手でリリアーナではない女を包み込んでいたのだ。
「リリアーナ! 謝って許されることではないが! 」
己の精神安定のためとはいえ、リリアーナを危険に晒してしまった。
ザカリスはその整った顔を苦悶で歪めた。
「イメルダ様を抱いた手で触れないで」
彼女を抱いた同じ手が憎い。憎くて憎くて仕方ない。
「わ、私には……私には、あの方のように接してくれないくせに……」
リリアーナが求めても、ザカリスは応えてくれない。
いつもなら、そんなことでは挫けない。
しかし、心が弱り切っている今は駄目だ。強靭な心を簡単に粉々にさせる。
「……ザカリス様? 」
リリアーナは息を呑んだ。
ザカリスの青緑色の瞳から、雫が頬を伝っていたからだ。
いつも堂々と胸を張るザカリスが、今は背を丸め頼りなく肩を震わせていた。
「どうして泣いているの? 」
男性の泣く姿を初めて見たリリアーナは、棒立ちになる。彼を突っぱねた力が緩んだ。
「もう限界だ」
ザカリスは呻いた。
「お前の体を知ってしまえば、もう諦め切れない」
彼の涙は止まらない。
「お前が欲しくて堪らない」
ザカリスはリリアーナを強く抱きしめ、首筋に顔を埋めた。
いつもは柑橘の爽やかな香りを漂わせているというのに、今は汗ばんだ野生的な匂いしかしない。
「だが、駄目なんだ。お前は俺なんかに近づいたら駄目だ」
彼は何かに取り憑かれたかのように、譫言を繰り返す。
彼が何故、それを強いているのか。
リリアーナにはわからない。
だが、強烈なその気持ちに支配されつつ、本能が拒絶し、その狭間で彼はついに自制が効かなくなってしまったようだ。
苦しくて堪らない。
心の奥深くからの叫びが伝わってくる。
「泣かないで。ザカリス様」
心の叫びを癒すようにリリアーナは落ち着いて告げると、彼の唇にそっと己の唇を重ねた。
一歩一歩、爪先から踵へ掛けて踏み締めるその靴音は、慕う相手のものだから、聞き分けられる。
「ザカリス様? 」
しゃくり上げながら名を呼べば、真正面には、リリアーナが求めてやまない姿。
ハットはどこかへ飛ばして、外出には欠かせないステッキもない。湿り気のある落ち葉と土埃とが混ざる悪路のせいで、泥が跳ねて上等なコートが台無しだ。磨かれた革靴も汚れて変色してしまっている。
黒味がかった茶色い髪は汗で濡れていつもより色濃く、肌に張り付いてしまっていた。
皮膚にはこれでもかと汗の粒が浮き、こめかみから曲線を描いて顎へ、そしてポタリポタリと地面に垂れた。
全速力で駆け抜けてきた証だ。
「リリアーナ! すまなかった! 許せ! 」
いきなり身体中の骨が軋んだ。
気がつけば、ザカリスに強く抱きしめられていた。
「お前を独りにさせた俺は馬鹿だ! どうしようもない馬鹿だ! 」
叫んだザカリスは、リリアーナの首筋に顔を埋める。
「ザカリス様」
リリアーナは噛み締めるように彼の名を再び舌先に乗せ、その背中に腕を回そうとした、そのとき。
目に飛び込んできたものが、彼女を絶望の淵に立たせた。
「嫌! 近寄らないで! 」
ザカリスの胸板を思い切り突き飛ばしていた。
「リリアーナ! 」
拒絶されたザカリスは、呆然となる。
彼の首筋に散る紫色の痕が何であるか分かって、リリアーナは一気に奈落へと突き落とされた。
「わ、私を置いて行ってたくせに……私を独りぼっちにして……」
リリアーナが孤独に泣いていたその時間、ザカリスはこの手でリリアーナではない女を包み込んでいたのだ。
「リリアーナ! 謝って許されることではないが! 」
己の精神安定のためとはいえ、リリアーナを危険に晒してしまった。
ザカリスはその整った顔を苦悶で歪めた。
「イメルダ様を抱いた手で触れないで」
彼女を抱いた同じ手が憎い。憎くて憎くて仕方ない。
「わ、私には……私には、あの方のように接してくれないくせに……」
リリアーナが求めても、ザカリスは応えてくれない。
いつもなら、そんなことでは挫けない。
しかし、心が弱り切っている今は駄目だ。強靭な心を簡単に粉々にさせる。
「……ザカリス様? 」
リリアーナは息を呑んだ。
ザカリスの青緑色の瞳から、雫が頬を伝っていたからだ。
いつも堂々と胸を張るザカリスが、今は背を丸め頼りなく肩を震わせていた。
「どうして泣いているの? 」
男性の泣く姿を初めて見たリリアーナは、棒立ちになる。彼を突っぱねた力が緩んだ。
「もう限界だ」
ザカリスは呻いた。
「お前の体を知ってしまえば、もう諦め切れない」
彼の涙は止まらない。
「お前が欲しくて堪らない」
ザカリスはリリアーナを強く抱きしめ、首筋に顔を埋めた。
いつもは柑橘の爽やかな香りを漂わせているというのに、今は汗ばんだ野生的な匂いしかしない。
「だが、駄目なんだ。お前は俺なんかに近づいたら駄目だ」
彼は何かに取り憑かれたかのように、譫言を繰り返す。
彼が何故、それを強いているのか。
リリアーナにはわからない。
だが、強烈なその気持ちに支配されつつ、本能が拒絶し、その狭間で彼はついに自制が効かなくなってしまったようだ。
苦しくて堪らない。
心の奥深くからの叫びが伝わってくる。
「泣かないで。ザカリス様」
心の叫びを癒すようにリリアーナは落ち着いて告げると、彼の唇にそっと己の唇を重ねた。
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