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元婚約者の愛人

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 誰かがずっとドアを叩いている。
 マーレイは、ゆったりと瞼を上げた。
 遠慮がちなノックに続いて、消え入りそうなハンスの声。
「社長。お取り込み中のところ、すみません」
 幾らか先に目覚めていたサーフェスは、今まさに、汗だくのマーレイの額にキスをしようとしており、小さく舌打ちして動きを止めた。
「無粋だぞ、ハンス」
 ドア一枚を隔てた廊下に向けて舌打ちすれば、部下の背筋が伸びた気配が伝わってきた。
「グリニッジ商会の娘とかいう女が来ておりまして」
「追い返せ」
 間髪入れずに答える。
「そ、それが。喚くわ暴れるわで、どうしようもなくて。社長に会わないことには帰らないの一点張りで」
「摘み出せ」
「そ、それが。そうすると、誰彼構わず噛みついてきまして」
 サーフェスはまたもや舌打ちすると、ベッドから降りて、絨毯に投げ捨てられていたトラウザーに足を突っ込んだ。
 彼に遅れて気怠げに起き上がったマーレイだったが、体に力が入らず、がくりとくず折れてしまう。
「無理をさせてしまったようだ。休んでいたまえ」
 サーフェスは頬に軽くキスをしてくる。
 恋人として見れないと言っておきながら、扱いはあくまで優しい。つい、勘違いしてしまう。
 サーフェスは彼女に背を向けると、ソファに脱いだシャツを掴んだ。
 その背中にはマーレイがつけた爪痕が四方に走って、痛々しい。
 爪痕から情事の激しさを思い出して、マーレイは真っ赤になり俯いた。
 

 応接室は惨状だった。
 花瓶は割れ、絵画は引っ掻いた後が入り、棚に並んでいた本は引き出されて床に散乱している。机は傾き、三人掛けのソファが横倒しになっていた。
「とんでもない女だな」
 女一人がやったとは到底思えない酷さ。腕に噛みつかれたと音を上げてきたハンスに、よくぞこうなるまで辛抱したとねぎらってやりたい。
「弁償させろ。請求書を送りつけておけ」
 かなりの額になるが、知ったことではない。
 赤茶色の髪を振り乱しながら、屈強な部下に何事か怒鳴りつけていた若い女は、ハンスを従えて応接室に入っていた背の高い男にたちまちパッと目を輝かせた。
「ディアミッド商会の社長ね! 」
 髪にリボンを飾り付けて結い上げた流行の型に、ひらひらしたフリルが幾重にも重なったピンクのドレス。化粧気のない、子供らしい顔立ち。
 バルモアの愛人であるフローレンスだ。
 サーフェスに遅れて応接室の前まで来たマーレイは、ハッと息を呑んだ。
 商会に到着した際に揉めていた男は、グリニッジ商会の主人だと言っていた。
 確かフローレンスは、グリニッジ商会の一人娘だ。
「あなた。私達の生活を滅茶苦茶にするつもり? 」
 フローレンスはズカズカと靴音を響かせて、現れたサーフェスに詰め寄る。
「うちは婚約者に援助しなければならないの。今更、お金を貸さないなんて困るわ」
 情事の余韻に浸ることを邪魔されたサーフェスは、いらいらしながら世間知らずな娘を見下ろした。
「君の家の事情など、知ったことではない。私は返す見込みのあるやつに金を貸すだけだ」
「だったら、早く貸しなさいよ! 」
 フローレンスは、バルモアに見せていた甘ったれた面を取払い、本性を剥き出している。
 バルモアはきっと婿に入れば、この娘に小間使いのように扱われる。マーレイは確信した。
 サーフェスは目を眇め、仁王立ちとなる。
「お嬢さん。君は何もわかってはいないだろうがな。グリニッジ商会は、近いうちに潰れるぞ」
「何ですって! 」
 大概の人間なら彼に凄まれれば竦み上がるだろうが、フローレンスは元々かなり気性が荒く、びくともしない。
「経営がザルで、おまけに社長は商いの仕方が下手くそだ。気に入らん客に怒鳴ってばかりで、そこのところを補っていたのは優秀な秘書だったが。先日、その秘書を解雇したと聞いたぞ」
「だって。バルモアをパパの右腕にしなきゃならないんだもの」
「状況をわかっていない経営者ほど、悲惨なものはない」
「う、うるさいわね! 平民のくせに! 」
 フローレンスは、サーフェスが劇場前で出会ったシェカール公爵その人だとは、ちっとも気づいていない。
 あくまで中産階級の悪どい金貸しを相手にしているのだと思い込んでいる。
「危機的な状況ながら、君の父は贅沢三昧。君のその誂えも、ごく最近のものだな。流行に則っている」
 サーフェスはむしろ憐れむように、口元を吊り上げた。
「別にいいじゃない。バルモア様が褒めてくれるんですもの」
 フローレンスはムッと頬を膨らませる。
 父親の偽りの着飾りばかりを目にしてきた彼女は、全く状況が読めていないのだ。

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