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第一章:大英雄の産声《ルクス・ゲネシス》
32 ヤケン
しおりを挟む「アレがヤケンだ」
「アレ?」
「うん。いや、しかし……デカ過ぎだけど」
「ヤケンの可能性はひゃくぱーせんと?」
「うん。悪い魔素にあてられたおイヌだ。特定魔素汚染生物。元の体には戻るのは難しいだろうねぇ。浄化の奇跡を使うなら可能性はあるか……?」
女性の言葉の大半は理解ができなかったが、確か「大きなイヌがヤケンで」――そんな話を受付で聞いた気がする。
気性が荒く、人を襲うこともしばしば……とかとか。
「フム。最終確認をしまス」
バッと広げた依頼書を上から一緒になぞっていく。
「うん。イヌは四足で歩く生物だ」
「アイツは四足。で、カイブツ」
「ン、間違いないね。イヌで、カイブツで、四足歩行で、デカイ」
「フヘ。いたじゃン! 依頼、簡単だっタ」
鼻歌まじりにアレッタは裏道へと不敵に入っていく。
「あ、ちょ――いくらイヌのモンスター化って言っても、凶暴だよぉ……? そんな堂々といかないほうが……」
「ダイジョウブ」
アレッタの向こう。ゆったりと余裕のある動作で、ヤケンはゴミの集積容器から顔を持ち上げた。気がついたようだ。
その影がアレッタの数歩後ろにいる女性にもかかる。それほどまでにヤケンの体は大きかった。
「ネェ」
「GRRRRRR」
アレッタの声に警戒するようにヤケンが唸る。後ろの女性が再度引き留めようとする。それらを一切アレッタは意に介さず、歩みを進めていく。
ゴミの臭いが鼻にまで届き、アレッタは眉間に皺を寄せる。手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫ると、アレッタは顎をさらに持ち上げた。
「オマエがヤケン?」
それまで堂々としていたヤケンの毛が勢いよく逆立った。
流れる血液がドクンと跳ね、皮膚がチクチクと痛む。内臓の底から生暖かくも心地の悪い感覚が這い上がってくる。
ヤケンには言語化のできないそれは、悪寒だった。
いつの間にか足早になっていた背進の足が曲がり角にぶつかり、後ろを一度見て、前から迫ってくるアレッタを見上げた。
「────」
レンガ造りの住宅と住宅の狭間の道だ。
真っ白な冬空が上に広がり、少女の顔に陰を落としている。
今までは威嚇のような唸りだったが、それがいつの間にか――おそらくヤケンも知らぬ間に――懇願するような悲哀の満ちた鳴き声へと変わっていた。
「オマエ倒すと、エレの仲間になれル?」
黒い神官服が揺れ、微笑んでいる口角が狂気で溢れているように見える。
錫杖が武器のように冷たく輝く。
気配が大きい。少女の体には収まらないほどの、ナニカが影となって、ヤケンを覆う。
「ネェ、教えテ?」
太陽を雲が隠す。
そんなものじゃあない。
少女の内側から溢れ出て、武装をするようにまろびでてきた気配はヤケンの本能に『逃げろ』と『逃げるな』を訴えかけてくる。
だから、必死に、怯えて、見上げることしかできない。
少女が、一歩進むごとに寿命が大きく縮まるような気がした。
そして緊張が最高潮に達すると、アレッタは手を振り上げて――
「これ、見えル? ヤケンをいっぱーい退治しないといけなくテ」
依頼書をヤケンの前に出した。
ヤケンは困惑したように、アレッタの顔と依頼書を交互に見やる。さすがに依頼書に書かれている文字は見えないらしい。
「見えル? 見えなイ?」
それでもアレッタは聞く。
聞くしかないのだ。アレッタは依頼の熟し方など知らないのだから。
「分からなイ。教えテ」
「クゥン……」
「くぅんじゃなくテ。喋っテ」
「グルルル」
「喋レ!」
濡れた瞳との睨み合いが続いていると――アレッタの頭の中に妙案がひらめいた
「――そうダ!」
ガバッと体を仰け反らすと、ヤケンを指さした。
「そうダッタ! ヤケンに言って回ればいいんダ! で、オマエはヤケン」
「くぅん」
「他のヤケンのトコロに連れてイケ」
恫喝をしているようなアレッタの後ろで、オーレは疲れたように笑った。
「はは、なんだそれ……」
路地裏の寸劇は心配を他所に大変愉快なものだった。少女が二回りも大きなイヌに命令をしている光景。まさに珍妙。
ヤケンが怯んでいるのも不思議だし、なぜアレッタがそんなに強気に出れるのかも分からない。
「はやく、連れてケ」
(さすがに言葉は通じないか。モンスターだし)
モンスターに言葉が通じた試しはない。そう本に書いてあった。
「アレッタちゃーん。言葉は多分通じないから、他の方法を考えたほうがいいんじゃあ――」
そんな言葉を切るようにヤケンはくるりと踵を返した。
「……あぇ?」
その先を数歩歩いて、アレッタたちを振り返った。その姿はまるで……。
「ついてこいってこと……? うそぉ」
「あんないダ! ついてイケ~!」
顔に喜びの色を現わし、依頼書を握ったままヤケンの後をついていく。
その後ろを「なんだそれ」と不思議がりながらオーレはついていった。
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