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16.魔王とてただの人
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エイダと別れたそのすぐ後に、イシュメルは魔王の寝室へと向かった。目的はよくわからない。ただ決闘の時刻を迎えるよりも先に、魔王と話をしなければならないと思ったのだ。
昨日まではただただあの男が憎かった。けれども多分、今は少し違った気持ちで話ができる。先入観と偏見に目が曇っていなければ、魔王の姿は一体どのように映るのだろう。
2度のノックに返事はなく、思い切って重たい扉を開ければ、朝日に照らされたベッドの上に魔王の姿があった。紺色の毛布に身を包み、身動ぎ一つしない。
忍び足でベッドへと歩み寄り、魔王の顔を覗き込めば、安らかとは程遠い寝顔がそこにはあった。額にはいくつもの汗粒が浮き呼吸は荒い。毛布に埋もれた頬に色味はなく、指先の震えも治まってはいない。ドクウツギの猛毒は、一晩に渡り魔王の身体を蝕み続けたようだ。命こそ落とさずとも、さぞかし過酷な一晩だっただろう。
「……魔王」
イシュメルは小声で呼びかけた。返事はない。静まり返った部屋の中に、苦しそうな呼吸だけが響き渡っている。
イシュメルがまた呼びかけようとした時、魔王の瞳がかっと見開かれた。
「セロ?」
違う、と言う間もなく、イシュメルの頬には衝撃が走った。魔王に殴られたのだ。イシュメルが体勢を崩した隙に、魔王はベッドから這い下り逃げてゆかんとする。イシュメルはとっさに魔王の衣服のすそを掴んだ。
「待て!」
イシュメルはめちゃくちゃに暴れる魔王を力任せに組み伏せた。衣服の裂ける音に混じり、消え入りそうな声が聞こえた。
「止めろ、もう……俺に触るな」
ふいに視線を落としてみれば、床を背にした魔王がガチガチと歯の根を震わせていた。ドクウツギによる痙攣とは違う、恐怖からくる震えだ。演技などではない、魔王はあのセロという男を心から恐れている。最強と恐れられる魔王が、たった1人の男を恐れているのだ。
セロとは何者だ、かつてあの男との間に何があったのだ。魔王を問いただしたい衝動に駆られながらも、イシュメルは懸命に訴えた。
「私の顔をよく見るんだ。セロではない」
「嘘だ……指輪を付けている」
「指輪?」
イシュメルは自身の左手指を見た。確かにそこには指輪がはまっている。聖女アリシアの創り出した『オーディンの指輪』、魔族の魔力を封じる歴代最強クラスの神器だ。
イシュメルは全てを理解した。セロはイシュメルが落とした指輪を拾ったのだ。魚を獲るときに、誤って川に流してしまった『ロキの指輪』を。そうして愛らしい猫へと姿を変え、魔王城へと潜り込んだ。
「私はセロではない。見ろ、指輪を外しても姿が変わらないだろう」
魔王の目の前で、イシュメルは大袈裟な動作で指輪を外して見せた。指輪はカツンと音を立てて床へと転がり落ちる。
はめる者のいなくなった指輪を、魔王は身を震わせながら見つめていたが、やがて低い声でこう言った。
「……退け」
イシュメルが拘束を解くと、魔王はベッドを背に座り込んだ。開け放たれた寝間着の身頃から白い肌が見え隠れする。首筋には無数のキスマーク、肩先には噛み痕。そして寝間着の袖から伸びる両手首には、痛々しい鬱血痕が残されていた。セロの支配欲の強さを物語っているようだ。
イシュメルは床に手をつき、深く頭を下げた。
「すまなかった」
セロが初めから魔王を犯すつもりでやって来たというのなら、それを許してしまったことはイシュメルの責任だ。魔力を封じ戦う術を奪った。食事に毒を盛り身体の自由すら奪った。セロはイシュメルの落とした指輪を拾ったのだから、城への侵入を許したことすらイシュメルの責任だ。
イシュメルの謝罪に、魔王は何も答えなかった。ベッドの淵に背中を預けたまま、感情のない瞳でイシュメルを見下ろしていた。
イシュメルはすがるように言葉を重ねた。
「水を持ってくる。水分をたくさんとれば、毒は徐々に体内から排出されるから。吐き気がないのなら食事もとった方がいい。何か食べられそうな物はあるか」
そう言ったのはせめてもの罪滅ぼしであった。毒が抜ければセロに対する恐怖心も少しは和らぐのではないかと思ったから。
しかし魔王の口から返される言葉は、想像以上に辛辣だ。
「この後に及んで小狡いことばかり考える奴だ。そうして形ばかりの謝罪をしておいて次はどうする。もっと強力な毒を用いて今度こそ本当に俺を殺すか。それとももっと巧い手段を考えているのか」
「……いや、そんなことは」
「お前、自分の言葉に価値などあると思っているのか?」
魔王の言葉は極限まで研ぎ澄まされた刃のごとく、イシュメルの心臓を貫いた。ひゅう、とのどが鳴り息をすることが叶わない。けれども痛い、苦しい、と思うことすら愚かだ。何もかもが自分の撒いた種なのだから。
悪しき魔王を殺すためならば、何をしても許されると思っていた。誇り高き騎士を演じながらも、誇りなど何も持ち合わせていなかった。先入観に捕らわれて、すぐそばにいる男の本性を見ようとしなかった。
イシュメルの右手が床に落ちた魔王の手のひらを掬い上げた。まるで澄んだ泉の水を掬い上げるような、優雅でいて手馴れた動作だ。
「もう貴方を欺くような真似はしない、絶対に」
魔王は何も答えず、言葉の意味を推し量るようにイシュメルを見つめていた。その瞳が今まで見たどんな色よりも美しいことに初めて気が付いた。
「イシュメル・フォードという」
「あん?」
「私の名前だ。まだ名乗っていなかった」
突然の自己紹介に、魔王は眉をひそめた。
「何だ、突然」
「私のことは好きに呼んでもらって構わない。だから……名前を教えてもらえないだろうか」
「……俺の名前のことを言っているのか」
「そうだ。まさか『魔王』が本名ではないだろう?」
初めてその男のことを知りたいと思った。聖ミルギスタ王国の騎士として魔王に向かい立つのではない。1人の人間イシュメル・フォードとして、その気高い男の心に触れたいと思った。
魔王は触れ合った指先を不可解そうに見下ろしながら、しかしはっきりとした口調で答えた。
「ギオラ・デルヴォルト」
昨日まではただただあの男が憎かった。けれども多分、今は少し違った気持ちで話ができる。先入観と偏見に目が曇っていなければ、魔王の姿は一体どのように映るのだろう。
2度のノックに返事はなく、思い切って重たい扉を開ければ、朝日に照らされたベッドの上に魔王の姿があった。紺色の毛布に身を包み、身動ぎ一つしない。
忍び足でベッドへと歩み寄り、魔王の顔を覗き込めば、安らかとは程遠い寝顔がそこにはあった。額にはいくつもの汗粒が浮き呼吸は荒い。毛布に埋もれた頬に色味はなく、指先の震えも治まってはいない。ドクウツギの猛毒は、一晩に渡り魔王の身体を蝕み続けたようだ。命こそ落とさずとも、さぞかし過酷な一晩だっただろう。
「……魔王」
イシュメルは小声で呼びかけた。返事はない。静まり返った部屋の中に、苦しそうな呼吸だけが響き渡っている。
イシュメルがまた呼びかけようとした時、魔王の瞳がかっと見開かれた。
「セロ?」
違う、と言う間もなく、イシュメルの頬には衝撃が走った。魔王に殴られたのだ。イシュメルが体勢を崩した隙に、魔王はベッドから這い下り逃げてゆかんとする。イシュメルはとっさに魔王の衣服のすそを掴んだ。
「待て!」
イシュメルはめちゃくちゃに暴れる魔王を力任せに組み伏せた。衣服の裂ける音に混じり、消え入りそうな声が聞こえた。
「止めろ、もう……俺に触るな」
ふいに視線を落としてみれば、床を背にした魔王がガチガチと歯の根を震わせていた。ドクウツギによる痙攣とは違う、恐怖からくる震えだ。演技などではない、魔王はあのセロという男を心から恐れている。最強と恐れられる魔王が、たった1人の男を恐れているのだ。
セロとは何者だ、かつてあの男との間に何があったのだ。魔王を問いただしたい衝動に駆られながらも、イシュメルは懸命に訴えた。
「私の顔をよく見るんだ。セロではない」
「嘘だ……指輪を付けている」
「指輪?」
イシュメルは自身の左手指を見た。確かにそこには指輪がはまっている。聖女アリシアの創り出した『オーディンの指輪』、魔族の魔力を封じる歴代最強クラスの神器だ。
イシュメルは全てを理解した。セロはイシュメルが落とした指輪を拾ったのだ。魚を獲るときに、誤って川に流してしまった『ロキの指輪』を。そうして愛らしい猫へと姿を変え、魔王城へと潜り込んだ。
「私はセロではない。見ろ、指輪を外しても姿が変わらないだろう」
魔王の目の前で、イシュメルは大袈裟な動作で指輪を外して見せた。指輪はカツンと音を立てて床へと転がり落ちる。
はめる者のいなくなった指輪を、魔王は身を震わせながら見つめていたが、やがて低い声でこう言った。
「……退け」
イシュメルが拘束を解くと、魔王はベッドを背に座り込んだ。開け放たれた寝間着の身頃から白い肌が見え隠れする。首筋には無数のキスマーク、肩先には噛み痕。そして寝間着の袖から伸びる両手首には、痛々しい鬱血痕が残されていた。セロの支配欲の強さを物語っているようだ。
イシュメルは床に手をつき、深く頭を下げた。
「すまなかった」
セロが初めから魔王を犯すつもりでやって来たというのなら、それを許してしまったことはイシュメルの責任だ。魔力を封じ戦う術を奪った。食事に毒を盛り身体の自由すら奪った。セロはイシュメルの落とした指輪を拾ったのだから、城への侵入を許したことすらイシュメルの責任だ。
イシュメルの謝罪に、魔王は何も答えなかった。ベッドの淵に背中を預けたまま、感情のない瞳でイシュメルを見下ろしていた。
イシュメルはすがるように言葉を重ねた。
「水を持ってくる。水分をたくさんとれば、毒は徐々に体内から排出されるから。吐き気がないのなら食事もとった方がいい。何か食べられそうな物はあるか」
そう言ったのはせめてもの罪滅ぼしであった。毒が抜ければセロに対する恐怖心も少しは和らぐのではないかと思ったから。
しかし魔王の口から返される言葉は、想像以上に辛辣だ。
「この後に及んで小狡いことばかり考える奴だ。そうして形ばかりの謝罪をしておいて次はどうする。もっと強力な毒を用いて今度こそ本当に俺を殺すか。それとももっと巧い手段を考えているのか」
「……いや、そんなことは」
「お前、自分の言葉に価値などあると思っているのか?」
魔王の言葉は極限まで研ぎ澄まされた刃のごとく、イシュメルの心臓を貫いた。ひゅう、とのどが鳴り息をすることが叶わない。けれども痛い、苦しい、と思うことすら愚かだ。何もかもが自分の撒いた種なのだから。
悪しき魔王を殺すためならば、何をしても許されると思っていた。誇り高き騎士を演じながらも、誇りなど何も持ち合わせていなかった。先入観に捕らわれて、すぐそばにいる男の本性を見ようとしなかった。
イシュメルの右手が床に落ちた魔王の手のひらを掬い上げた。まるで澄んだ泉の水を掬い上げるような、優雅でいて手馴れた動作だ。
「もう貴方を欺くような真似はしない、絶対に」
魔王は何も答えず、言葉の意味を推し量るようにイシュメルを見つめていた。その瞳が今まで見たどんな色よりも美しいことに初めて気が付いた。
「イシュメル・フォードという」
「あん?」
「私の名前だ。まだ名乗っていなかった」
突然の自己紹介に、魔王は眉をひそめた。
「何だ、突然」
「私のことは好きに呼んでもらって構わない。だから……名前を教えてもらえないだろうか」
「……俺の名前のことを言っているのか」
「そうだ。まさか『魔王』が本名ではないだろう?」
初めてその男のことを知りたいと思った。聖ミルギスタ王国の騎士として魔王に向かい立つのではない。1人の人間イシュメル・フォードとして、その気高い男の心に触れたいと思った。
魔王は触れ合った指先を不可解そうに見下ろしながら、しかしはっきりとした口調で答えた。
「ギオラ・デルヴォルト」
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