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1.プロローグー騎士と魔王ー

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 騎士は魔王を殺せなかった。
 
 対峙した魔王の戦闘力が、想像よりもはるかに強大であったためだ。
 剣を弾かれ、鎧を砕かれ、悪しき魔王の肉体にほんの一太刀もあてることは叶わずに、冷たい地面に倒れ伏した。ともに魔王討伐に赴いた聖女と、戦いの補佐を務めていた2人の戦士は、とうに戦意を失い倒木の陰で震えていた。
 
 魔王は殺せない。100人の敵を打ち倒す騎士の剣技をもってしても、歴代一とも言われる聖女の神力をもってしても魔王は殺せない。
 敗北は火を見るよりも明らかであった。
 
 けれども騎士は諦めなかった。折れた剣を握りしめ、果敢に魔王へと向かって行った。

「愚かな男だ」
 
 魔王は冷たく吐き捨てると、銀色の瞳をゆっくりと閉じた。
 次の瞬間、魔王の身体が膨張した。まるで小さな苗木がまたたく間に大木へと育ちゆくような、奇妙で不可思議な光景であった。騎士は駆ける足をとめ、魔王の変貌をただ呆然と見つめていた。

「黒龍……」

 騎士の絶望に満ちたつぶやきは、大地を震わせる咆哮に飲み込まれて消えた。
 ほんの数秒前まで魔王が立っていたその場所には、今や巨大な黒龍が翼を広げていた。岩石を積み上げたような表皮に、大地を覆い隠す巨大な翼。しなやかな四足には、船のいかりにも似た鉤爪がギラギラと生えそろっている。そして口腔には真っ赤な舌と、人間の骨などたやすく噛み砕くであろう鋭い牙。
 
 この絶望の象徴たる姿こそが、魔王が魔王であるゆえんである。魔王は己の意思において、自由自在に黒龍へと姿を変える。
 人間に龍は倒せない。
 騎士に魔王は殺せない。
 折れた剣が、カラカラと音を立てて地面に落ちた。
 
 また、龍が啼いた。
 龍の口腔に、光り輝く銀色の玉を認めた刹那、騎士の意識はぷつりと途絶えた。

 ***

「う……うう……」
 
 暗闇の中でイシュメルは目を覚ました。
 
 身体中がズキズキと痛む。冷えた手指に感覚はなく、2本の脚は鉛のような重たさだ。しかし痛みの度合いからして、すぐ死に至るような怪我はない。
 黒龍の攻撃を受けた。死ななかったのは運が良かったとしか言いようがなかった。
 
 イシュメルは地べたに座り込み、周囲の様子をうかがった。灯りがないため、ここがどこであるかはわからない。けれども閉ざされた空間に風はなく、あたりは淀んだ空気で満ちている。思わず鼻を塞ぎたくなるような濃いカビの臭いと、血の臭い、糞便の臭い。薄汚れた石壁には、たくさんの人の爪痕が残されている。
 ここは――魔王城の地下牢だろうか。
 
 この世界には、人間と魔族という2種類の人種がいる。姿かたちはよく似ているが、両者は険悪な間柄だ。現にイシュメルの故郷である聖ミルギスタ王国と、隣接する魔族の土地は、長いあいだ紛争を続けている。
 長年の紛争に終止符を打つために、聖ミルギスタ王国の国王は魔王討伐を望んだ。元々王国軍の一員であったイシュメルは騎士に任ぜられ、聖女らとともに魔王城へと派遣された。魔族の頭である魔王を討ち、世界を平穏に導くために。
 しかし黒龍の力を宿す魔王を倒すことはできず、激闘の末に敗北した。
 
 コツコツと床を打つ音が聞こえてきた。人の足音だ。足音が近づくにつれ、周囲はぼんやりと明るくなった。
 鉄格子の細い影が、イシュメルの膝元にまばらに落ちた。やはりここは地下牢であるようだ。
 鉄格子の向こう側から、愉悦に満ちた声がした。
 
「邪悪な力に敗北した気分はどうだ」
 
 黄金色のランプを顔の横にかかげ、にんまりと口の端を上げるその人物は、人類の宿敵である魔王。真っ赤なアイラインの内側で、ダイヤモンドにも似た銀色の瞳が輝いていた。
 イシュメルは何も答えなかった。幾万の魔族を統べる魔王、悪戯に人間を殺す無法者。憎き男と交わす言葉などない。
 
 魔王は薄い唇をなでながら笑った。
 
「仲間は逃げた。気絶したお前に見向きもせずに、ネズミのように城から逃げて行った。騎士よ、お前は見捨てられたんだ。命を賭して戦ったというのに哀れな男だ」
 
 繊細な模様を織り込んだ黒衣が、ランプの灯りを受けて艶々と輝いている。美しく、そして邪悪だ。
 仲間に見捨てられたと思えば胸が痛んだ。けれど同時にそれで良かったのだとも思った。己の命すら危うい状況で、他者の命まで守ろうとすることは不可能だ。気絶したイシュメルを魔王城から運び出そうとすれば、恐らく誰も助からなかった。
 大切な仲間が生きて逃げた、それだけで十分だ。
 
 また魔王の笑い声が聞こえた。

「仲間が殺されずに良かった、とでもいうような顔だな。その顔を絶望に染めるため、今から奴らの後を追い皆殺しにしてやろうか」
 
 イシュメルははっと顔を上げた。銀色に輝く2つの目が、実に楽しそうにイシュメルを見下ろしていた。
 
「――冗談だ。そんな面倒なことをするつもりはない。奴らには生きて国に帰り着いてもらわねば困る。俺がいかに崇高な存在であるか、人間の力の及ばぬ存在であるかということを、奴らは切々と語る義務がある。愚かな人間どもを相手にな。そうすれば貴様ら人間は、二度と俺に歯向かおうとは思うまい」
 
 くつくつと声を立てて笑う魔王を前に、イシュメルの胸中に疑問が浮かぶ。なぜ自分はこうして牢に入れられているのだ、と。
 殺そうと思うのならば、気絶したそのときに殺せば良かった。生かして伝言役にしようと思うのならば、そもそも牢に入れる必要などなかった。魔王はイシュメルを逃がさず、そして殺すこともしなかった。そこには何かしらの理由があるはずだ。
 
 イシュメルは魔王の様子を注意深くうかがいながら、頭に湧いた疑問を口にした。
 
「私をどうするつもりだ」
 
 魔王はすぐに答えた。

「安心しろ。3日3晩に渡り拷問してやろうなどとは考えていない。少し交渉をするのも悪くないと思っただけだ。俺を殺すため、隣国からはるばるお越しいただいた騎士様と」
「……交渉?」
 
 イシュメルは魔王の顔をにらみつけた。
 イシュメルが魔王と直接話をするのは、今日このときが初めてのこと。

 聖ミルギスタ王国の民にとって、魔王は伝説的ともいえる存在だ。
 黒龍の力を身体に宿す、この世で最も邪悪な存在である。人の姿をしていながらも、人らしい感情は有していない。見目麗しい人間の娘を、暴虐の限りを尽くして殺す。
 伝承ばかりが一人歩きして、魔王の真実の姿を知る者はいなかった。
 
 けれどもいざ魔王を目の前にしてみれば、それらの伝承が決して単なる伝承でないことは容易に理解できた。魔王は人の心を持たぬ至悪の存在。交渉などという良心的な言葉を使っても、その内容が良心的であるはずはないのだ。
 イシュメルの予想は外れなかった。魔王はこれ見よがしに顎を上げ、憎たらしい猫なで声で言った。
 
「お前を俺の眷属にしてやろう。ちょうど膂力りょりょくのある眷属が欲しいと思っていた。お前は今日人間であることをやめ、魔王の眷属として再びこの世に生を受ける。人間の数倍にも及ぶ寿命と、首を切り落とされない限り死なない肉体も手に入る。魔法だって使えるようになる。どうだ、悪くない提案だろう?」
「……その提案を断ると言ったら」
「殺す」
 
 猫なで声から一変、感情のない無慈悲な声だ。
 眷属になるか、死か。理不尽な2択を突き付けられ。イシュメルは声を荒げた。
 
「ではすぐにでも殺すがいい。貴様の眷属になるくらいならば殺された方がましだ」
 
 その答えを、魔王はあらかじめ予想していたのだろう。薄い唇に指先をあて、ふふ、と声を立てて笑った。烏羽からすばのように艶やかな黒髪が、笑声に合わせて小刻みに揺れた。
 
「一晩、考える時間をやろう。明朝返事を聞きにくる。俺の提案を受け入れればよし、受け入れなければその場で殺す。ネズミの死骸でも眺めながら、どうぞゆっくりと考えてくれ」
 
 魔王はビロードのマントをひるがえすと、高笑いを残して地下牢を立ち去った。
 
 床を打つ靴音が聞こえなくなった頃、イシュメルは暗闇に包まれた牢の隅を見やった。そこには確かにネズミの死骸が転がっていて、肉が腐り始めた死骸は耐えがたい悪臭を放っていた。
 それはイシュメルの未来の姿だ。
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