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4章 心惑わす魔女の妙薬

39話 大貴族モーガン家

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 アンがモーガン家へと赴いたのは、アメリアとの茶会から3日が経った日のことであった。

「アン、久しぶり。よく来てくれたわね」

 豪勢な外門の内側で、そうアンに微笑みかける者は実姉であるアリス。多少げっそりした様子ではあるが、思ったよりもずっと元気そうだ。

「アリス姉さん、元気そうで良かったよ。動いて大丈夫なの?」
「動くのはいいのよ。駄目なのは食べることと匂いよ。あとお腹が空いているのも駄目」
「食べると気持ち悪くなるのに、お腹が空くのも駄目なの? もうめちゃめちゃだね」
「めちゃめちゃよ。人間を創るというのはそういうことよ。アンも覚えておきなさい」

 アリスの言葉は、人生の格言としてアンの心に刻み込まれるのであった。

 モーガン家の敷地は、ドレスフィード家のそれよりも遥かに広大だ。外門の内側には見渡す限りの園庭が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っている。敷地内には繊細優美はガゼボに加え、大理石造りの噴水まであるのだから驚きだ。

 アンが案内された先は、客間ではなく園庭のガゼボ。繊細優美なガゼボを見回しながらアンは尋ねた。

「今日はお庭なんだね。ひょっとして、他にお客様がいらしてる?」

 アリスは微笑みながら答えた。
 
「応接室は空いているわよ。だけど私が、応接室の匂いが駄目なのよ。たばこの臭いとか、コーヒーの匂いとか、いろんな匂いが混じり合っていてすぐに気持ち悪くなっちゃうの」
「あ、そうなの。そりゃ仕方ないわ」

 人間を創るのは大変である。
 ガーデンテーブルの上には本や飲みかけのジンジャーエールが置かれているから、アリスはもう大分前からそのガゼボに滞在しているようだ。

 華奢なガーデンチェアに腰かけ、アリスは本題を口にした。

「それで、アン。今日は何か急ぎの用事だった? アンの方から訪ねてくるなんて珍しいじゃない」

 アンは素知らぬ顔で答えた。

「特に用事はないよ。アリス姉さんがつわりで苦しんでいると聞いて、会いに来たんだ」
「あら、そうなの。情報元はアメリアかしら?」
「そうそう。3日前にアメリア姉さんとお茶したんだよ。アリス姉さんが3人目妊娠中だと聞いてびっくりしちゃった。最近顔を見ないな、とは思っていたんだけどさ」
「直接伝えられなくて申し訳ないわ。妊娠がわかってすぐに手紙を送ろうとはしたんだけど……ちょっとそれどころじゃなくてね」

 アリスは「うふふ」と力のない微笑みを零した。
 以前会ったときよりも痩せたアリスの顔を見て、アンはあることを思い出した。

「そうそう、あたしアリス姉さんにお土産を買ってきたんだよ。唐揚げは食べられるって聞いたから、味が濃いめの下町グルメをさ。食べられそうなの、あるかな?」

 アンは土産の紙袋を膝にのせ、下町で買い求めたグルメの品々をガーデンテーブルの上に並べた。カットピザにハンバーガー、ポテトフライにコロッケバーガー。
 
 アリスはふんふんと鼻を動かしたかと思うと、そのうちの1つを手に取った。コロッケバーガーだ。包み紙を剥がし、かじりつく。

「……いけるわね」
「いける? コロッケバーガーは合格?」

 どうやらソースたっぷりのコロッケバーガーは、無事胎児に受け入れられたようだ。
 唐揚げとジンジャーエールのみであったアリスの食卓に、ひとまずコロッケバーガーが追加されて良かったと、アンは胸を撫でおろすのであった。

 そのとき、2人の人物がガゼボへと歩み寄ってくるのが見えた。1人はお盆をかかえたモーガン家の使用人、そしてもう1人は大貴族ダニエル・モーガンその人だ。つまりはアリスの夫、言い換えればアンの義兄でもある人物だ。

 恐れ多い顔を目前にして、アンははっと席を立つ。
 ガゼボにたどり着くや否や、ダニエルはアンに向けて挨拶をした。

「アン様、ようこそモーガン家へ。あなたの来訪をお待ち申し上げておりました」

 次いで披露されるものは、社交界を離れたアンは滅多に目にする機会のない見事なボウ・アンド・カーテシーだ。
 アンは心臓を縮み上がらせながら、たどたどしいカーテシーを返した。

「こ、こんにちは。今日は突然お邪魔してすみません……」
「いえいえ。こちらこそ応接室にご案内できず申し訳ありません。何分、アリスの体調がすぐれないものですから」
「つわりが酷いんですよね、聞いています。今日はそれでうかがったんです。あたしは繁華街で暮らしていますから、珍しい食べ物をお届けできるかなって」

 アンがそう説明すると、ダニエルは下町グルメでいっぱいのガーデンテーブルを見下ろした。それからコロッケバーガーを握りしめたアリスをへと視線を移し、優しく笑った。

「アリスの口に合う物があったのなら良かった。ここまで酷いつわりは初めてですから、私どもも戸惑っているのですよ」
「そうなんですね。あ、そうだ。これ――」

 アンはカバンの中から小さな紙包みを取り出し、ダニエルに差し出した。

「これ、つわりを軽くするハーブティーです。妊婦以外が飲んでも問題はないらしいので、皆様で飲んでみてください」
「それはありがたい。夕食時にでも皆でいただきましょう」

 ダニエルが紙包みを上着のポケットへとしまい込んだとき、不安げな表情のアリスが会話に口を挟んだ。

「ダニエル、今日は経営者会議の日ではなかった? そろそろ出発しないと遅れてしまうわよ」

 ダニエルはちらりとアリスを見て、答えた。

「15分ほど遅れると、昨日のうちに断りを入れてある。アン様が屋敷にいらっしゃるというのに、挨拶をしないわけにもいかないだろう」
「……そうなの? あまり大事にしなくてもいいのに」

 アリスとダニエルの会話を聞き、アンは違和感を覚えた。
 アンがモーガン家を訪れるのは、実は今日が初めてのことではない。過去に2度、アリスの誘いで邸宅を訪れたことがあるが、ダニエルが挨拶に見えたのは初めてのことだ。

 一体どうした状況の変化だろうと、考え込むアンに向けて、ダニエルはまた優雅な挨拶をした。
 
「ではアン様、私はこれで失礼します。どうぞゆっくりなさっていってください」
「あ、はい。ありがとうございます」

 そうして小さな謎を残して、大貴族ダニエル・モーガンはガゼボを後にした。

 ***
 
 ダニエルが立ち去った後、一緒にやってきた使用人が茶会の準備を始めた。ガーデンテーブルにのせられるティーポット、ティーカップ、山盛りの菓子皿。
 数々の下町グルメに加え、さらに賑やかとなっていくテーブルを眺めながら、アンはようやく一息を吐いた。

「びっくりしたぁ……。まさかモーガン候にご挨拶をされるとは」

 アリスは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「ごめんなさいね。アリスとアメリアが私を訪ねてくるときは、気をつかわないでと言ってあるのだけれど」

 そうであるというのに、経営者会議への参加を遅らせてまで挨拶に訪れたダニエル。ダニエルの思惑について、あれこれと考えを巡らせていたアンは、ようやくとある可能性に思い至った。

「アリス姉さん……もしかしてだけどさぁ。モーガン候があたしに挨拶したかったのって、アーサー王子の件があるから?」

 アンが遠慮がちにそう尋ねれば、アリスは言葉を詰まらせた。

「アン……気を悪くしないで欲しいの。私もダニエルも、可愛い妹には幸せな結婚をしてほしいと思っているわ。でも万が一……万が一ね。アンが王族の一員となる可能性を考えれば、このたびの来訪はモーガン家にとって無視できないものなの」
「んん……やっぱりそういう事かぁ」

 ――挨拶をされる分には構わないが、あまり大事にはしないで欲しいなぁ
 というのがアンの本音であった。

 なぜならグレンと相棒契約を結んでいる以上、アンはどう間違ってもアーサーとは結婚しないからだ。アーサーと結婚するのは、アンが推しているドリー・メイソンか、調査進行中のシャルロット・ハート――

 おっと、とアンは心の中で両手を打った。今日モーガン家を訪れたもう1つの目的を思い出したからだ。
 椅子に腰かけなおし、澄ました顔で質問した。

「アーサー王子と言えばさぁ。アリス姉さん、シャルロット・ハート嬢とのお付き合いはある?」
「シャルロット・ハート嬢? そのご令嬢は、アーサー王子の結婚候補者の1人かしら?」

 アンはさり気なく肯定した。

「そうそう。そのシャルロット嬢という人が、結婚相手の有力候補者の1人らしいんだよ。一体どんな子なのかなってちょっとだけ気になってさ。アリス姉さん、シャルロット嬢のこと何か知ってる?」

 アンの質問に、アリスは唇に指先をあてて考え込んだ。

「個人的な付き合いはないわね。シャルロット嬢はハート家の末娘よね。父はロジャー、母はトレシア。きょうだいは、兄と姉が1人ずついたはずだわ。名前はカノンと……何だったかしら。あとハート家ではドーベルマンを2匹飼っていたはず。トレシア夫人と犬の話題で盛り上がったことがあるもの」
「おお……さすがアリス姉さん。ペットのことまで覚えているとは」

 ジンジャーエールでのどを潤し、アリスの語りは続く。

「私がシャルロット嬢と初めて顔を合わせたのは、1年前に開催された商家同士の集まりよ。そのときシャルロット嬢は婚姻可能年齢を目前にしていたから、将来の結婚を見据えて集まりに参加したのでしょうね。人形のように可愛い子で、たくさんの独身男性からアプローチを受けていたわ。そう……あの子がアーサー王子の結婚相手に立候補しているのね。少し、意外だわ」
「意外なの? それはどうして?」

 アンの質問に、アリスは声を潜めて答えた。
 
「だってアーサー王子との結婚は、お世辞にも好条件とは言い難いじゃない。子どもは望めないだろうし、社交界に出る頻度も今よりずっと少なくなる。一度の夜会であれだけのアプローチを受けていたのだから、王家ほどではなくとも、良縁などいくらでも望めるはずなのに」
「そう言われてみればそうだねぇ」

 アーサーに結婚候補者となる令嬢は、ドリーを除き何らかの問題を抱えた者ばかりだ。「多少素性に問題のある娘でも、『捨てられた王子様』相手ならば結婚が叶うかもしれない」と、両親がこぞって考えたためだろう。
 
 もしもシャルロットがごくごく普通の令嬢ならば、確かにアーサーの結婚相手として立候補していることは不自然だった。

 沈黙がいくらか続いた。
 口を開いた者はアリスだった。

「あまり大声では言えない話なのだけれど……私はハート家の人たちがあまり好きではないのよ」
「……ハート家の人たちと何かあったの?」
「仕事上のトラブルがあっただとか、そういう話ではないのよ。感性が合わない、とでも言うのかしら。ハート家の当主は代々非常に野心的でね。一族そろって成果のためには手段を選ばない気質なのよ。ハート家の領地はお世辞にも豊かとは言えない土地柄だけど、野心的に動くことで着実に事業を拡大してきた。味方にすれば心強いのだけれど、正直あまり敵には回したくないわ」

 アンはふーん、と相槌を打った。しかしすぐに「ん?」と首をかしげた。

「野心的って別に悪いことじゃないよね。一族を未来を背負っているんだから、一族の当主は野心的であるべきじゃないの?」
「悪いことだとは言わないけれど、程度の問題かしらね。ハート家はあまり大きな貴族の家ではないから、大貴族であるモーガン家にはできないような、少しずるいことが簡単にできてしまう。例えばライバル貴族の悪い噂を流したり、商品の販路を拡大するために多少強引な手を使ったり……ね」
「へぇ……そうなの。確かにそれは、あまり印象はよくないね」

 ならばハート家の当主であるロジャーが、愛娘であるシャルロットをアーサーと結婚させようとするのも、何かしらの野心を抱いてのことなのだろうか。
 それ自体が悪いことだとは思わないが、アンは心の中にモヤモヤとした感情が生まれるのを感じた。

 たった2度顔を合わせただけの関係ではあるけれど、アンはアーサーが嫌いではない。グレンもレオナルドも、リナもバーバラもジェフも好きだ。
 ハート家の飛躍のために、彼らが良いように利用されるところは見たくないと思った。

「シャルロット嬢が結婚候補者の1人であることは、ダニエルに伝えておいた方がいいかしら……ハート候がまたよからぬことを企んでいる可能性も捨てきれないし……」

 アリスの悩ましげな独り言を聞きながら、アンもまた考えた。今聞いた情報は、即刻グレンに伝えなければなるまい、と。
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